壇林皇后私譜 杉本苑子著上下
闇に怨霊が跳梁跋扈し、桓武天皇が長岡京から遷都し、陰謀渦巻く平安京が舞台,橘諸兄の曾孫橘嘉智子が主役、絶世の美貌で聡明でもあった。故に桓武天皇の二男神代皇子後の嵯峨天皇に迎えられる、兄は平城天皇、娘について宮中に来た藤原の式家の薬子を見初める、従兄弟の橘秀才呼ばれる橘逸勢、共に唐に派遣されたのは空海、最澄。奈良朝から中世にかけて天皇の権威の下、その門流が繫栄を極めた名族、源平藤橘が挙げられる。源平はかなり後の平安時代後期に登場するが、藤橘の藤は南家、北家、式家、京家に分かれて勢力を競いあった藤原氏であり、橘は壇林皇后嘉智子の出自の橘氏、藤原北家と結び奈良時代の末から平安前期で人臣位を極める。時は第五十代桓武天皇から平城天皇、嵯峨、淳和、仁明、文徳天皇へと続く治世でそれぞれの皇后、親王、内親王、親子、兄弟姉妹、皇位継承と権力競合の暗闘を見据えて歴史の流れに埋もれてたような事件を克明に取り出した、歴史小説。
話は朝廷に対する罪人とされた、嘉智子の祖父橘奈良麿の反逆事件から、奈良麿を追い落した本人藤原南家の権臣恵美押勝(藤原仲麻呂)が政敵、道鏡に敗れた恵美押勝の乱、長岡京造営使の藤原式家の主、種継の暗殺、種継の娘が平城上皇の意向を受け復位と平城京復都を計った薬子の乱、嘉智子の従兄弟、橘逸勢が淳和天皇と正子皇后の子恒良親王を奉じ、嘉智子の愛孫道康親王後の文徳天皇と皇太子の地位を争った,承和の変までに至る橘一族の盛衰、嘉智子に終始変わらぬ愛情を寄せる、天下三筆と謳われる橘逸勢と神代皇子後の嵯峨天皇と空海との交友、共に入唐し真言宗を開く空海に、対する天台宗開祖の最澄。平城天皇と嵯峨天皇兄弟の閨閥と重臣達、嵯峨天皇に娘を送り込んでいる武力を握る征夷大将軍坂上田村麻呂、飢餓と疫病が蔓延する都、藤原氏内部の苛烈な権力闘争の中に、皇后の位につく橘嘉智子、おびただしい数の登場人物の相互関係と相次ぐ事件と闘争。藤原時代の開幕を彩る波瀾に充ちた皇后の生涯。この時代のことは平城京から、長岡京そして平安京に桓武天皇が遷都した、このこと以外に、あまりよく知らず謎の平安前期と言えるでしょう。枕草子、源氏物語は桓武天皇の時代より二百年近く後に書かれたのですからね。よくぞここまで書き上げたと思う中身の濃い歴史小説です。この後の時代藤原氏がいよいよ娘を宮中に入れて生まれた男子[皇子]を東宮にそして即位させ権力握っていくのです。作者は次の時代を以前読んだ、山河寂寥ある女官の生涯に書いています。嘉智子の息子仁明天皇、孫、文徳、清和、陽成、光孝、宇多天皇まで、二冊併せて読んでみてください。桓武天皇から宇多天皇までの百年。
後記 薬子の乱で廃太子となった、平城天皇の皇太子高丘親王は、空海の弟子になり唐へ行ったが帰国せず、もう一人の皇子阿保親王は、太宰府に配流が許されて帰京、妃は桓武天皇の皇女伊登内親王、息子は行平、守平、業平臣籍降下をして在原姓を名乗る。この時業平は三才であったという。また淳和天皇と正子皇后の皇太子恒貞親王は、承知の変で廃され後に母正子皇后が、恒貞親王に開かせた寺院が大覚寺、ここはもと嵯峨天皇の離宮があったところ、洛北の嵯峨野は嵯峨天皇のゆかりの地、嵯峨の釈迦堂と呼ばれている、清凉寺の境内に嵯峨天皇と壇林皇后の石塔が築かれている。清凉寺の西に行ったところにある壇林寺は皇后が建立した京都尼寺五山の一つ。わが国最古の禅寺皇后は死後、その寺名をおくり名とされた。
在原の兄弟たちのこと、行平の娘は清和天皇の皇子を儲けるが帝位を望まず、須磨に遊び海女の村雨、松風との交流が後世、汐汲の舞踊となりまた源氏物語の須磨の巻に引用されたという。業平のことは言わずもがな彼の子孫について、息子の一人は高階を名乗り三、四代位後に高内侍と言われた女性が藤原道隆と結婚して皇后定子を儲ける。弟の音人は大江家を起こし平安後期に活躍する大江匡房があり。
嵯峨天皇は五十人近くの皇子皇女がありそのほとんどを臣籍降下させた、嵯峨源氏の起こりであります、政治家であり文化人の源融も嵯峨天皇の皇子。清水寺は、陸奥を平定した坂上田村麻呂が、臣下で初めて許可されて建立したので、境内にアルティの碑があります。
