「宙ぶらりん」でいる力:子どもたちの登校・不登校をめぐる一つの仮説
幼い日から、いつしか私は、世の中を「正解・不正解」や「良い・悪い」で判断するようになっていた。
同時に、長い時間、自分自身にも、他人に対しても、「正解」や「こうあるべき」を求めるようになっていた。
振り返れば、学校や会社は、常に二元論で私たちを評価してきた。
運動会の「勝ち・負け」。テストの点数。
受験や就職の「合格・不合格」。
仕事のコンペの当落。
そこからこぼれ落ちるものは、「できない人」「脱落者」として扱われがちである。
こうした価値観は、昭和的なものだと思われるかもしれない。
しかし、一見すると自由に見える令和の今、むしろ二元論は、より加速しているようにも感じられる。
極端な意見、早すぎる結論、SNS的な白黒思考。
TikTokの15秒で曲の流行が決まり、過激なキャッチコピーを掲げる政治家や政党に票が集まる。
それらは、すべて同じ構造の表れである。
最近、私は感覚的に、「すぐに結論を出さない」こと、敢えて宙ぶらりんの状態にとどまることが大切なのではないか、という仮説を立てている。
一つは、武道を通じた体感から。
もう一つは、最近触れている老荘思想からだ。
武道は、結果がすぐに出ない。
明確なゴールもなく、出口もない。
上達の保証もない。
何のためにやっているのかと問われれば、「究極に無駄なことをしているだけ」と言えてしまう世界である。
他方、老荘思想に触れて感じること。
「何が正しいのか」「何が真なのか」は、一方的な価値観では測れない、という感覚だ。
そもそも、自分が見ているこの世界ですら、本当は夢なのかもしれない。
世界には、完璧な答えは存在しない。
それでも社会では、「正解」が求められる。
しかし、「答えがない=失敗」なのではない。
「答えがない=生きている状態」なのではないだろうか。
人間も世界も、清濁併せ持つからこそ、そこに魅力が生まれるのである。
先日、「小学生と不登校」に関する記事を書いたところ、フォロー外の方にもたくさん読んでいただいた。
このテーマが、それだけ多くの人にとって、身近で切実なものであることを、改めて実感した。
不登校のことは、簡単には理解できない。
ただ、最近ぼんやりとした一つの仮説が輪郭を帯びてきた。
それは、不登校という現象が、この社会に蔓延する「二元論」と、「宙ぶらりん」という角度から見つめることができるのではないか、ということだ。
今の子どもたちは、「自由」や「多様性」という建前の中で生きている。
しかし、その裏側には、しっかりとした二元論が存在する。
そして厄介なのは、その二元論が、大人の都合によって使い分けられるダブルスタンダードとして機能している点だ。
たとえば、先の記事にも書いた、昭和時代よりもキッチリした「家庭学習」という名の宿題管理。
話し合いを重視すると言いながら、道徳の授業では先生から模範解答を提示される。
音楽や図工など、表現系の教科にすら、規律や競争で優劣をつける。
個性を認めると言いながら、最終的な判定は試験や受験で決められる。
成功や安泰を願う親心から、「普通の人生」という型に、はめ込もうとする大人たちの動き。
そして、大人の世界にも、同じ構図が存在する。
「女性活躍」という言葉は、一見すると解放的に響く。
しかし実際には、「働け」「子を産め」「家事をしろ」「介護をしろ」という、複数の役割を同時に課す呪いの言葉として機能している場面も少なくない。
そのような社会の写し鏡のような学校という場所に、子どもたちは、どのように適応しているのだろうか。
学校に行くことをやめた子どもたちは、「不登校」という選択を通して、自らダブルスタンダードの世界から飛び出し、「宙ぶらりん」の状態を選び取っているようにも見える。
一方で、学校に通い続けられている子どもたちは、この社会に埋め込まれたダブルスタンダードの中で、自分なりの「ほどよい宙ぶらりん」を見つけ、やり過ごしている存在なのかもしれない。
たとえば、宿題や授業を、少しだけさぼってみる。
先生や友だちの言葉を、すべて真に受けない。
そうした小さな「ゆるみ」が、何とかバランスを保っている。
しかし、その糸を、外側から急に強く引っ張られたならば。
誰であっても、バランスを崩す可能性はある。
これは、大人の世界でも同じである。
仕事や家庭、地域社会の人間関係の中で、「宙ぶらりん」でいることを許される余白があるのか。
それとも、自分自身を追い詰めてしまう構造の中にいるのか。
答えは、まだ出ていない。
ただ私は今、この宙ぶらりんでいる力を、もう少し丁寧に見つめてみたいと考えている。
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