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ボーディングスクールに留学しても視野は広がらなかった|教育重課金のデメリット?

私は1歳の頃、まだメジャーではなかった英語保育のプリスクールに週5通い、3歳でほとんど外国籍しかいないインターナショナルスクールに入った。

小学校と中学校はインターではなく日本の学校に通ったが、毎年夏休みは国内・海外のサマースクールに参加していた。

高校で単身渡米し、ニューヨーク州とマサチューセッツ州のボーディングスクール(寄宿学校)に通った。夏にはオックスフォード大学のキャンパスで開講される高校生向けプログラムにも参加したこともある。そして大学はニューヨーク州の美大に進学した。

両親は転勤族ではない。ネットがない時代に本屋で教育書を読み漁り、自分たちで情報を集めた。今でいう「教育重課金」の走りが、おそらく私たちの世代(2000年前半生まれ)だ。

私のこの経歴を見て、「色々なことを経験していて、さぞかし視野が広いのではないか」と大半が思うだろう。

現在日本では、インターナショナルスクールへの進学を見据えて、親自身が英語塾に通い始めたり、スイスやイギリスの寄宿学校を選択肢に入れるために、早い段階からその国との接点を持とうとしたりする家庭の話も珍しくない。その中の理由の1つに「子供の視野を広げたい」というものがある。

しかし海外経験は魔法ではない。留学したからといって視野が広がるとは限らない。そしてそもそも「視野を広げる」とは何なのか。

ボーディングスクールに実際に行ったことある見としてリアルな意見を述べようと思う。

そもそも視野が広がるとは

視野が広いと言われる状態には少なくとも2つの異なる能力が含まれている。

能力①:異なる前提が存在することを知っている」という知識的な広さ

人種差別がある社会、宗教が日常に組み込まれた社会、母語が通じない社会。日本にいると「知識として知っている」ことはあっても「体験として知っている」ことにはならない。
日本人として日本にいる限り、日本語は当たり前に通じるし、人種差別も基本合わないし、神社にいきながらクリスマスも楽しめる。しかし留学はこの体験的な知識を強制的にインストールする。これは留学の明確な効果だ。

能力②:目の前の状況を複数の角度から見ることができるという思考的な広さ

こちらは留学とは無関係に、個人の知的姿勢に依存する。異なるデータを持っていることと、異なる角度で考えられることは違う。「アメリカではこうだった」と比較対象を持っていること自体は視野の広さではなく、単にデータベースの拡張だ。データベースが大きくても、そこから引き出す思考の角度が1つしかなければ、視野は狭い。「日本は遅れている」「日本人は視野が狭い」という結論に固定されている時点で、その人の思考角度は1つしかない。

留学経験者の多くは、①を手に入れたことで②も手に入れたと錯覚している。この記事で問いたいのは、この錯覚の構造だ。

どの層が留学するのか

基本的に、海外に長期留学する日本人はとても少ない。当時私が通っていたアメリカの大学では全校生徒3500人中2000人が留学生だったが、日本人はわずか20人しかいなかった。なので人種、言語、文化、宗教という点では確かに新たな発見がある。

留学すると視野が広がるという通説の前提は、留学先で「自分とは異なる世界」と接触することだ。しかしそもそも、どの層が海外留学をするのかに着目してほしい

アメリカの高校に留学する場合、ほとんどの家庭はまず留学エージェントに相談する。エージェントは長年の関係がある、留学生の受け入れに慣れた学校を紹介する。さらに、アメリカの制度上、留学生が公立高校に通えるのは最長1年間だ。高校の全期間をアメリカで過ごすなら、私立のボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)に入るしかない。年間費用は学費・寮費・食費で高級車が買える値段が標準ラインだ。

制度とコストの二重のフィルターによって、教室に座る生徒の顔ぶれは入学前から決まっている。世界中の富裕層の子供たちだ。


年間高級車1台分かかる教室の風景

私が最初に通っていたニューヨークのボーディングスクールでは、ファーストクラスを通り越してプライベートジェットで新学期にやってくる生徒がいた。制服の上に羽織るカーディガンは1着10万円のトムブラウン。卒業アルバムの写真には50万円のヴァンクリーフのネックレスをつけた女子生徒が何人もいた。足元はルブタン、鞄はイッセイミヤケ。高校生が1着数十万の服を着て通学することが普通の世界だった。

15~18歳の子供がこれらを親から買い与えられていること自体が、異常だとわかるだろう。

アメリカでも、「普通の生徒vs留学生の服装の違い」のmemeの動画が複数作られているぐらいだ。リアルでこんな感じだった。

ただ、当時の私にはブランドの価値がまったくわからなかった。ABCマートのスニーカーを履き、JansportのバックパックというThe日本の高校生スタイルで通学していた。トムブラウンの4本線を見ても「今年の流行は線なんだな〜」としか思えなかった。トムブラウンだと気づいたのは成人してから、卒業アルバムを見返した時だ。大体の人が「ブランドってこういう柄の特徴があるよね」と認識するのは成人してからだろう。

留学生を受け入れているボーディングスクールはどこも「多様性」を掲げる。確かに言語は違う。国籍は違う。宗教も違うかもしれない。しかし階級は同じだ。

実際、教室の中にはナイジェリアの子供もブラジルの子供もいる。しかしナイジェリアの子供の親は財閥の経営者であり、ブラジルの子供の親は不動産王だ。国旗は違う、しかし銀行口座の桁数は同じだ。これは多様性ではない。均質性の国際版だ。

この環境では、親がお金を持っていること、住む場所にも食にも困らないこと、将来の選択肢が複数あることが、空気のように共有されている。教室にいる全員がこの前提の内側にいるから、誰もそれを前提だと認識しない。水の中の魚が水を意識しないのと同じだ。

人種の差は目に見える。言語の差は耳に聞こえる。しかし階級の差は、同じ階級しかいない空間では透明になる。留学は人種と言語と宗教の差には触れさせるが、経済的現実の差は構造的に視界の外に置かれたままだ

留学先から帰国した子供は、英語が話せるようになり、異文化の友人ができ、「世界を見てきた」という感覚を持つ。この感覚が「自分は視野が広い」という自己認識になる。しかしその「世界」は、年間高級車1台分の学費を払える家庭の子供だけが集められた教室から見た世界だ。日本人留学経験者がよく言う「アメリカではこうだった」は、正確には「アメリカの富裕層が集まる学校ではこうだった」に過ぎない。アメリカの中間層や貧困層の現実は知らない。しかしアメリカに住んでいたという事実が、この一般化に偽の権威を与える。


週末に「どこか出かけよう」という話になった際に、近場ではなく「ハワイに行こう」といった提案が、冗談ではなく現実的な選択肢として語られることもあった。外食ひとつとっても一人分の会計が数万円をすることもあり、こうしたやりとりの中で、自分が育ってきた環境や金銭感覚との隔たりを、否応なく意識させられることが多く。次第に金銭感覚が全く合わない友達と、どこか出かけることがなくなった。

私はこの環境が窮屈に感じ、わずか1年で、留学生が30人しかおらず極端な富裕層が少なめの高校に転入した。住む世界が違いすぎたのだ。

「階級の壁」が視野を遮断するメカニズム

なぜ同じ階級の人間だけが集まると視野が広がらないのか。それは問いが生まれにくいからだ。

視野が広がる瞬間は、必ず「なぜ」から始まる。なぜあの人は食べるものがないのか。

「なぜあの人は学校に行けないのか」
「なぜ自分にはこれがあって、あの人にはないのか」

これらの問いは、自分と異なる現実を目撃した時にしか生まれない。全員が同じ前提を共有している空間では、前提を疑う理由がない。疑わないから問わない。問わないから考えない。考えないから視野は広がらない。

しかし、同じ階級でも人種や宗教が違えば問いは生まれる。
黒人の富裕層の子供がタクシーを拾おうとして無視される。隣にいた白人の富裕層の子供には即座にタクシーが止まる。銀行口座の残高は同じでも、社会が二人に向ける目はまったく違う。この場面は「お金では解決できない問題がある」という問いを確かに生む。

ムスリムの同級生が毎日決まった時間に教室を出て祈りに行く姿は、「なぜこの人は毎日祈るのか」「なぜ自分にはそういうものがないのか」という、信念体系の根幹に触れる問いを投げかける。これらの気づきは本物だ。

しかし、同じ差別でも、親がすぐに弁護士をたてて学校へ抗議できる黒人の子供と、貧困地区で警察に射殺される黒人の子供では、まったく違う人生の帰結をもたらす。

ムスリムの断食も、栄養士がサポートし日没後に高級レストランで食事を取る同級生と、断食中に体力を失いながら肉体労働を続ける人間では、同じ行為が持つ重みがまるで違う。

富裕層の留学環境で触れる差異は本物だが、その差異がもたらす痛みの持続時間と深度は、経済的安全網によって構造的に短縮されている。差異の中を見学したのと、差異の中で生きたのとでは、根本的に異なる体験だ。

視野が広がるとは、より多くの情報を得ることでも、より多くの国を知ることでもない。自分が今どこに立っているかを知ることだ。

多様性の縦軸と横軸

多様性には2つの軸がある。
横軸は、地理的・文化的な多様性だ。 言語、人種、宗教、国籍。これは国境を越えることで触れやすくなる。留学が提供するのは、基本的にこの横軸の拡張だ。
縦軸は、経済的・階級的な多様性だ。 富裕層、中間層、貧困層。同じ国の中にも、同じ街の中にもこの差は存在する。そしてこの縦軸は、留学では広がりにくい。ボーディングスクールに通う時点で、縦軸の一番上に固定されるからだ。

重要なのは、この縦軸の固定は留学に限った話ではないということだ。日本国内でも同じ構造は存在する。例えば慶應幼稚舎に入り、慶應の中等部・高等部を経て慶應大学に進む子供は、幼稚園から大学までの16年間、基本的に同じ経済階級の人間としか接触しない。名門私立の一貫校はどこでもそうだ。制服は違う。校風は違う。しかし教室に座っている生徒の家庭の経済水準は、驚くほど似通っている。

つまり、ボーディングスクールの教室で起きていることと、日本の名門私立一貫校の教室で起きていることは、構造的に同じだ。留学組は横軸が広い分「多様な環境で育った」と感じやすいが、縦軸が動いていない以上、見えていない世界の大きさは変わらない。

高層ビル30階から地上を見下ろしているようなものだ。

視野を広げなくてもいい人間と、広げなければ死ぬ人間

ここまで、視野を広げることをあたかも無条件の善のように扱ってきた。しかし本当にそうなのか。

例えば、富裕層の子供が富裕層の子供とつるみ、その人脈で仕事をつかむ。これは極めて合理的な生存戦略だ。富裕層のコミュニティは富裕層のコミュニティ内で経済的に循環しており、そのコミュニティに所属していること自体が最大の資産だ。親の会社の取引先の子供と小学校で一緒になり、大学卒業後に仕事を一緒にする。この人脈の連鎖は、異なる階級の人間と接触することでは得られない実用的な価値を持っている。

田舎出身の子供も同じだ。地元の友達とつるみ、地元の仕事を見つけ、地元で家庭を持つ。このコミュニティの中で幸せに生きている人間に「あなたは富裕層の現実を知るべきだ」と言うことに何の意味があるのか。

また、同じ前提を共有する人間同士は、いちいち前提を説明する必要がない。「タワマンに住んでいる」と言った時に「すごいね」と言われるのではなく「私もそう」と返ってくる環境は、自分の存在を説明する負荷がゼロになる空間である。自分と似た環境の人間に囲まれることで、「自分は普通である」という感覚が維持される。これは精神的な安定に直結する。

それぞれのコミュニティで完結する人生を送る限り、視野の広さは生存に必要ない。同じ前提を共有する空間は快適で合理的だ。

しかし、前提が自分を苦しめている場合、その空間は苦しみを強化する装置になる。

たとえば受験。東アジアの富裕層の教育コミュニティには「いい大学に入らなければ人生が終わる」という前提が空気のように存在している。ボーディングスクールにいてもこの前提は消えない。むしろ強化される。周囲にはハーバードやスタンフォードを目指す生徒しかいない。第一志望に落ちることは人生の失敗を意味し、友人の合格は祝福ではなく敗北になる。この苦しみを同じコミュニティで打ち明けても「わかる、私も」と返ってくるだけで、前提そのものは疑われない。

しかし別の世界では「いい大学に入らなければ」という発想自体がない。地元の工務店を継いだ人間は大学に行っていない。大企業の経営者には中卒の人もいる。彼らの前で「第一志望に落ちて人生終わった」と言えば「なんで?」と返ってくる。この「なんで?」だけが前提を揺さぶる。同じ受験戦争の渦中にいる人間からは、この反応は絶対に生まれないからだ。

幸せに生きている人間には視野を広げるメリットはない。しかし「いい大学に入れなかった自分には価値がない」と毎日思っている人間にとっては、その前提が前提に過ぎなかったと気づくことは生死に関わる。

「留学経験ある人としか合わない」の正体

留学経験のある人間はよく口を揃えてこう言う。「結婚するなら留学経験ある人がいい」「友達は大体留学経験ある人しかいない」。

本人たちの中にある理屈はこうだ。「留学経験がある人は視野が広い。視野が広い人の方が話が合う。だから留学経験者同士が集まるのは自然なことだ」

しかし実際にフィルタリングされているのは、視野の広さではなく経済的前提の共有だ。日本において「留学経験がある」とは、間接的に「ある一定以上の経済階級に属している」を意味する。高級車相当の学費を負担できる家庭の子供同士が「話が合う」のは当然だ。「あのレストラン知ってる?」「あのブランドはNYの方が品揃えいいよね」。これらの会話に必要なのは留学経験ではなく同じ水準の消費経験だ。「話が合う」の正体は「消費の水準が合う」であり、階級の一致だ。

もちろん海外に出る方法は、ボーディングスクールだけではない。アルバイトで貯めたお金でワーホリに行く人もいれば、交換留学で現地の公立高校に入る生徒もいるし、成績が優秀であれば返済不要の奨学金で私大に通う生徒もいる。しかし重要なのは、どのルートで海外に出たかによって、安全網の厚さが変わり、安全網の厚さによって体験の質が変わるということだ。

親のお金でのボーディングスクール留学は、安全網が最も厚い。学校が合わなければ転校でき、金が足りなければ送金され、限界なら帰国できる。長期休暇にはヨーロッパ旅行に行き、夏休みには別のサマープログラムに参加する。交換留学の生徒は学費こそ免除されるが、ホストファミリーとの相性に生活が左右され、学校もプログラムも自分では選べない。奨学金で入った生徒は富裕層と同じ教室に座りながら、生活費をうまく工面しないといけない。周りが当然のようにヨーロッパ旅行の話をしている横で、寮が閉まる休暇期間の滞在先を探している。ワーホリには安全網そのものがない。金が尽きたら終わりだ。

交換留学の生徒はホストファミリーの食卓で初めて「中間層のアメリカ」を知る。奨学金の生徒は富裕層の同級生との消費水準の差に毎日静かに直面している。留学経験者同士が「話が合う」と感じる時、無意識にフィルタリングされているのはこの安全網の厚さだ。

長期留学経験者同士が共有しているのは、海外での知識でも異文化理解でもない。「失敗しても死なない」という前提だ。彼らが将来の話をする時に「食べていけるかどうか」は議題にならない。「何がやりたいか」が議題になる。やりたいことを語れるのは、食べることが解決済みの人間だけだ。

ただ、このことに自覚的な人はほとんどいない。「私は同じ経済階級の人としか友達にならない」とは誰も言わない。そんなふうに自分を捉えたい人はいないからだ。だから「話が合う」「価値観が近い」「視野が広い」といった言葉に自然と置き換わる。本人の中では純粋に相性の問題として処理されている。しかし構造を見れば、その「相性」の土台にあるのは経済的前提の一致だ。これは誰かが悪いという話ではない。自分がどの前提の中にいるかが見えにくいという話だ。

日本にいても視野は広げられるか

前提が崩壊するのは、自分が立っている地面が唯一の地面ではないと気づいた瞬間だ。この気づきに必要なのは物理的な距離ではなく、前提と前提の間の落差だ。ニューヨークと東京の間には物理的な距離があるが、港区の富裕層とマンハッタンの富裕層の間の前提の落差は小さい。一方、港区のタワマンと同じ港区の公営住宅の間には物理的な距離はほとんどないが、前提の落差は巨大だ。

つまり視野を広げるために必要なのは日本を出ることではなく、自分の生活動線を出ることだ。すべての人間は、自分の生活動線の中で暮らしている。家と職場の往復、いつものスーパー、いつものカフェ、いつもの友人。この動線の中にいる限り、出会う人間の前提は自分と似ている。これは日本にいてもアメリカにいても同じだ。

しかし生活動線を出るだけでは足りない。外国人の同僚と仕事をしても、仕事という構造の中では前提の崩壊は起きにくい。観光地を巡り、高級ホテルに泊まり、ガイドブックに載っているレストランで食べても、国境を何度越えても、自分の前提の境界線は一度も越えていない。

前提が崩壊する深さの接触が起きるのは、自分が弱い状態にある時だ。安全網が完全に機能している時は、異なる前提を持つ人間と接触しても「面白い経験だった」で終わる。

しかしお金がない、頼れる人がいない、言葉が通じないなど安全網が機能していない時、自分の力だけで生き延びなければならない。そういう状態で他者と関わると、相手の現実が自分の内部に直接侵入してくる。

そして視野が広がる瞬間は、結局のところ事故のようなものだ。自分の前提が崩壊することを計画して崩壊させた人間はほとんどいない。崩壊は向こうからやってくる。崩壊した後に振り返って、「あの経験で視野が広がった」と言語化する。これはメリットとして計算できるものではなく、前提の崩壊という事故の結果だ。

しかし自分が弱い状態で他者と関わるという条件は、富裕層にとって最も難しい。富裕層の安全網は「弱い状態にならないこと」を保証するために存在しているからだ。お金があれば大半の問題は解決できる。親が助けてくれる。弁護士を雇える。転校できる。引っ越せる。弱くなる前に安全網がキャッチする。弱くならないから、前提が崩壊する深さの接触が起きない。

この記事で言いたいのは、留学に意味がないということではない。経済格差だけが問題だということでもない。「留学で視野が広がる」という言葉が、あまりにも無条件に信じられすぎていること。そしてその信仰の裏側に、自分たちが見ていない構造的な盲点があること。その盲点の中でも特に見えにくいのが、経済的階級の均質性だということだ。

ここまで「前提の崩壊」を視野が広がる条件として語ってきたが、正直に言えば、前提が崩壊しただけでは能力①「知らなかった現実を知る」が手に入るだけだ。冒頭で述べた能力②「同じ状況を複数の角度から見る力」は、崩壊の後に「なぜ自分はあの前提の中にいたのか」「その前提は誰にとって都合が良かったのか」「自分の今の視点にもまた盲点があるのではないか」と問い続けることでしか身につかない。

つまり能力②とは、前提が崩壊した後に、崩壊そのものを分析対象にできるかどうかだ。多くの人は前提が崩壊すると、古い前提を捨てて新しい前提に乗り換える。「日本は遅れている」から「いや日本にも良さがある」へ。しかしそれは前提Aから前提Bへの移動であって、思考角度が増えたわけではない。

思考角度が増えるのは、「自分は今、前提Bの中にいる」と認識しながら、前提Aも前提Cも同時に視界に入れておける状態になった時だ。

【最後に】

この記事を書いている私自身が、教育重課金の産物だ。私が「経済的多様性がない」と指摘できるのは、その均質な環境の内側にいたからだ。しかし私自身が今も見えていない前提は確実にある。前提とはそういうものだ。見えた瞬間にそれは前提ではなくなる。

この記事を読んで「確かにそうだ」と思った人は、おそらく私と似た前提の中にいる。「当たり前のことを言っている」と思った人は、とっくにこの前提の外にいる。「何を言っているかわからない」と思った人は、私とはまったく異なる前提の中にいる。その人の前提を、私はまだ知らない。

留学に意味がなかったということではない。異なる文化の人間と過ごしたことは、私の人生を確実に豊かにした。両親に心から感謝している。しかし「視野が広がった」かと聞かれれば、留学そのものが広げてくれたわけではない。留学先で広がったと思い込んでいた視野が実はまったく広がっていなかったと気づいた瞬間、その気づきの方が、はるかに大きく視野を広げた。

視野が広がるとは、見えるものが増えることではない。見えていなかったものがあったと知ることだ。


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