見出し画像

留学したら「自分が何者か」わからくなった話|アイデンティティ・クライシスからの脱出

「自己紹介をしてください」

そう言われた時、私たちの多くは決まったパターンで答えるだろう。

「私の名前はmiyuu。東京都出身で、美術大学に通っていて、アメリカに留学していました。性格はENFPです」

名前、出身地、性別、肩書き、そして最近流行りのMBTI。これが現代の「自己紹介」の定型文だ。

でも、もし相手がこう切り返してきたらどうだろうか。

「全然違う。MBTIの4文字でもなく、『東京都出身』という産まれでもなく、『学生です』という立場でもなく。あなたが何を美しいと思い、何に怒りを覚え、何を信じているのか。そういう、誰かが用意した枠組みではない言葉で、あなた自身を紹介してみて」

その瞬間、頭が真っ白になるだろう。

15歳でアメリカに単身で渡った時、私はまさにこの問いを突きつけられ、一言も答えられない自分に愕然とした。


日本がどこか知らない人たち

アメリカの高校では30カ国からきた留学生がいた。私は幼稚園の時にインターナショナルスクールに通っていたが、それでもなお日本で住んでて一度も出会ったことのない国の人たちが沢山いた。

アメリカ人、ブラジル人、中国人、メキシコ人、韓国人、スイス人といろんな国から来た人が集まっている初日のクラスで私は緊張しながら自己紹介をした。

「I'm Japanese(私は日本人です)」

その瞬間、周りの留学生たちの顔に浮かんだのは、無関心だった。

日本といえば、アニメ、寿司、任天堂、ポケモン、Kawaiiと強力な文化的資産があるはずだ。でも彼らは何も知らない。日本を知っているのは、アニメ好きな人ぐらいしかいない。私は無意識に日本という単語が持つイメージや記号に自分のアイデンティティを委ねていた

きっと私が日本人ということで興味を持ってくれるのではないかと思ったが、全く反応は違った。 「ん?日本ってどこ?」「日本は何が有名なの?」っていうのが大半のリアクションだった。「日本文化は世界で愛されている」という国内で流布されるナラティブの限界を感じた。文化的記号への過信がいかに脆いものか。メディアや社会の空気感を通じて内面化した「日本は特別」という感覚は、実際には限定的な文脈でのみ通用する相対的な価値だったのだ。

先生が「あなた自身は、どんな人?」が問いかけてきた。

でも私には、その「何か」が何ひとつ思いつかなかった。記号を剥ぎ取られた時、語るべき「私」が存在していなかった。

私は答えられなかった。「日本人」という記号の後ろに、何もなかったから。

自分が何に美しいと感じるのか。
何に怒りを覚えるのか。
何を信じているのか。

そういう「私」が、存在しなかった。

私は何者なのだろう。

何者かわからない自分が恥ずかしかった。 「私は日本人」これは広い海の先では、何の意味も持たなかった。この体験は既存のラベルや記号に頼らず、ゼロから「私」を構築する必要性を突きつけた。

「日本人」という記号が通用しない環境に置かれることで、私は初めて一人の人間として、純粋に個人的な魅力や深みで勝負することを求められた。


アイデンティティ・クライシスという名前のついた地獄

この状態をアイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機)と言う。
自分が何者であるか見失い、存在意義や目標への迷いから深刻な不安・混乱に陥る心理状態のことだ。就職や進学、結婚や離婚など、人生の大きな変化をきっかけに起こる。

そして特に、留学経験者はこの危機に陥りやすい

日本という慣れ親しんだ環境から突然切り離され、自分を説明する記号が通用しなくなる。そこで初めて「あなたは何者?」という問いに、裸で向き合わされるからだ。

私の場合、その危機は毎日の授業で容赦なく襲いかかってきた。

「発言しない=存在しない」の恐怖

アメリカの授業では、ディベートが日常だった。本当に、毎日のように。

完璧な意見なんて求められていない。英語がおかしくても構わない。答えが間違っていても問題ない。でも、自分の頭で考えた何かを発言することが絶対条件。沈黙は「何も考えていない人間」と見なされる文化だった。

日本では、沈黙は美徳とされ、慎ましさや謙虚さを表す。アメリカでは沈黙は「思考の不在」、ひいては「人格の不在」だあった。「I think(私は考える)」と発声しない限り、「I am(私は存在する)」とは認められない。

私にとって、それは地獄だった。

ディベートが始まる気配を感じると、心臓がバクバクと音を立て始める。みんなが手を挙げ、次々と意見を述べていく中で、私だけが何も発言できない。

自分の意見がない。そもそも、自分の意見がわからない。

英語の問題だけではなかった。言葉にできる「中身」が、私には何もなかった。教室のあちこちから手が次々と挙がり、環境問題、移民政策、宗教、フェミニズム。次から次へと飛び交う意見の渦の中で、私だけが時間から取り残されたように固まっていた。

何度も、私はトイレや保健室に逃げ込んた。「お腹が痛い」「頭が痛い」嘘ではなかった。本当に身体が拒絶反応を起こしていた。


他の国の学生たちとの絶望的な差

一方で、他国から来た留学生たちは違った。
サウジアラビアから来た学生は中東情勢について自国の視点から語り、ブラジルから来た学生は環境問題について熱帯雨林の現状を交えて主張する。フランスの学生は自国の文化政策について、批判も含めて建設的に議論していた。

みんな自分の国の政治を理解していて、文化を理解していて、歴史を理解していた。そして何より、その中での「自分の立場」をちゃんと持っていた。母国語以外の言語でも、アメリカ人とも対等に意見を交換していた。

彼らにとって国籍は単なる記号ではなく、思考の土台であり、世界と対峙するための武器だった。そして何より、その中での「自分の立場」を明確に持っていた。

私は日本人だ。でも、日本についてすら何も語れない。

日本文化と聞かれると、口から出てくるのは「sushi」「anime」「Harajuku」といった、海外向けに消費されやすい表層的なイメージばかりだった。

日本の政治?よくわからない。
社会問題?ニュースで見たことはあるけど、自分の意見はない。
文化?寿司とアニメと原宿ぐらいしか思い浮かばない。
高齢化、少子化、ブラック企業。言葉だけは知っているのに、自分の意見がない。

日本で育った私にとって、日本は「普通」で「当たり前」で「空気」のようなものだ。意識して外側から考えたことがなかった。言葉にしたことがなかった。

そんな状態で言う「I'm Japanese」は、ただの出生地の報告でしかない。
日本について深く知らず、日本について考えたこともなく、日本について自分の立場を持てていない「日本人」。それは自己紹介ではなく、自分の空虚さのささやかな告白だった。


「異国」としての日本を学び直す

それから私は、必死に日本のことを調べた。

深夜の寮で、まるで初めて訪れる異国の文化を学ぶかのように、母国・日本について調べた。歴史、政治、社会問題、文化的背景。今まで「当たり前」として素通りしてて、教科書でさらっと流された項目のひとつひとつを、今度は「テストのため」ではなく、「自分のため」に読み直した。

「次のディベートでは、ちゃんと発言できるはずだ」「今度こそ、『日本人としての意見』が言えるはずだ」そう信じていた。知識さえあれば、あの教室で感じた「空っぽな自分」が埋まると思った。

でも、すぐに新しい壁にぶつかる。

日本についての知識は日ごとに増えていき、頭の中には情報が詰まっている。高齢化率、経済成長率、教育制度の問題点。でも授業で手を挙げようとすると、また言葉が出てこなかった。

なぜなら、それらはすべて「誰かの意見」だったからだ。ニュースサイトで読んだ専門家の分析、評論家の主張、統計データの解釈。私はそれらを暗記しただけで、自分が日本に対してどう感じるのかは、相変わらずわからないまま。

それらを暗記して、「知っているふり」をすることはできる。でも、「で、あなたはそれをどう感じているの?」と問われた瞬間、私はまた沈黙するしかない。知識を増やすことと、意見を持つことは、まるで別物だった。

どの学校でも日本人留学生はかなり少なかった。私はずっと、「日本人の視点から、何か言わなきゃ」「日本代表として、ちゃんとしたことを言わなきゃ」と考えていた。でもそう考えれば考えるほど、言葉はどんどん遠ざかる。

よくクラスメイトの発言に耳を傾けると、「〇〇人としての正しい公式見解」でも「〇〇代表としての模範解答」でもない。彼らが話していたのは、「私は、自分の国で起きているこの現実を、こう感じている」という、たったひとりの人間としての実感だった。

私にとって必要だった主語は「日本人としてどう思うか」ではなく、「私はこの世界をどう見ているのか」「私」という主語を獲得するまで長い時間がかかった。 

グローバル社会における真のコミュニケーションとは何か。それは国と国のぶつかり合いではなく、個人の思想、感情、そして物語の交換だったと15歳の時に気付かされた。


自分は平凡だった

アメリカの高校には、「カレッジエッセイ」という授業があった。それは単なる作文の時間ではなかった。

日本では、入試は数字で決まる。偏差値、点数、順位。客観的で、匿名的で、ある意味では公平な数値。そこに「あなたは何者か」という問いは存在しない。正解を選び、正しく計算し、高得点を取ればいい。自分という人間の内面を語る必要はない。

しかし、アメリカの大学入試は根本的に違った。成績やテストスコアは基礎的な条件に過ぎず、最終的な合否を分けるのは「エッセイ」だった。数百字から数千字の文章の中で、自分という存在を言葉で構築し、見知らぬ入試担当官に「この人間は入学させる価値がある」と納得させなければならない。それは、自分の人生を物語として再構成し、他者に向けて提示する、極めて大変な作業だった。

色濃いエピソードに勝てるわけがない

カレッジエッセイの授業では、生徒たちが自分のエッセイのドラフトを持ち寄り、互いに読み合い、フィードバックをする時間があった。

クラスメイトたちのエッセイは、驚くほど劇的で濃密だった。まるで映画のような、あるいは小説のような、圧倒的な人生の物語が次々と語られていった

1番印象的だったエッセイは、アフリカの紛争地帯で生まれたクラスメイトは、幼い頃に両親を目の前で殺されたことを書いていた。銃声、血の匂い、母親の最後の言葉。生々しい描写がページを埋め尽くしていた。彼はその後、アメリカのクリスチャンファミリーに養子として迎えられ、トラウマと向き合い、キリスト教という信仰を見つけ、今では平和活動に取り組んでいる。

明確な「困難」「闘争」「変容」というドラマチックな構造を持っているクラスメイトが多かった、主人公(書き手本人)が巨大な障害に直面し、それと闘い、最終的に成長する。

先生は彼らを絶賛した。「素晴らしい!これこそカレッジエッセイだ!」

そんな中で、私は自分のノートを前に完全に固まっていた。

私のバックグラウンドは、あまりにも平凡だった。戦争も、迫害も、貧困も、差別も、少なくとも生死に関わるような形では経験していない。両親は健在で、家族関係も特に問題ない。経済的にも困窮していない。身体的な障害もない。

私は、ただ日本で、平和に、無難に暮らしてきただけだった。私の人生には、「波乱万丈なエピソード」がなかった。
ドラマチックな転機も、命がけの決断も、奇跡的な救済もなかった。

I grew up in Japan, in a peaceful environment, with a loving family.
(私は日本で、平和な環境の中で、愛情深い家族とともに育ちました)

私の人生には、語るべきドラマがない。その事実が、じわじわと胸に広がっていった。私は、自分の経験を語る資格がないような気がしてきた。「あなたは何者?」という問いに対して、「私は、特に何も経験していない、平凡な人間です」としか答えられないような気がした。

戦争を経験しなかったこと。家族が健在であること。経済的に困窮していないこと。差別や迫害を受けていないこと。これらは、普通ではなく、幸運だった。世界の多くの人々にとって、それは当たり前ではない、なのに私は「書くべき苦難がない」と特権的な立場からの発言している。それに対しても嫌気がさした。

私は先生に相談した。
「私には、書くことがないんです。みんなみたいな、特別な経験が」

先生は、少し驚いたような顔をした。それから、こう言った。

「特別な経験がないって?あなたは日本から一人でアメリカに来て、母国語ではない英語で勉強して、新しい文化に適応しようとしている。それは十分に特別なことだと思うけど」

私は首を振った。「でも、それは留学生なら誰でも経験することです。クラスメイトみたいな、命に関わるような、ドラマチックな話じゃない」

先生は、少し考えてから言った。「カレッジエッセイは、ドラマチックさを競うコンテストじゃないよ。大事なのは、あなたが何を経験したかじゃなくて、その経験を通してあなたが何を学んだか、どう変わったか。平凡に見える日常の中にも、深い洞察はある。あなたは、自分の経験を過小評価しすぎている」

先生は私に、「その経験を通して、あなたは何を感じ、何を考え、どう変わったのか」という、内面の解像度の大切さを教えてくれた。

アメリカで言葉が通じない孤独。文化の壁にぶつかって砕け散ったプライド。アメリカに馴染めないという疎外感。そして今、こうして「自分には何もない」と絶望しているこの瞬間の苦しみ。

これらは、銃弾や飢餓に比べれば贅沢な悩みかもしれない。でも、私にとってはリアルな痛みだった。

銃声が聞こえなくても、心の中で何かが壊れる音はする。
劇的な救出劇がなくても、自分で自分を救い出す瞬間はある。
誰も死なない、爆発も起きない。ただ、一人の日本の高校生が、異国の地で「自分」という殻を破ろうともがこうとする地味な葛藤。

それもまた、確かに私が生きた証であり、私だけのものだった。


自分を取り戻す、いや作り始める作業

「どうやって自分を取り戻したか」
この問いには、根本的な誤解が含まれている。まるで、かつて確かに存在していた「本当の私」が、どこかで失われてしまったかのような響きがあるからだ。

しかし、私の場合、取り戻すべき「私」は最初から存在していなかった。アメリカの教室で「あなたは何者?」と問われて言葉を失ったとき、失われたのは「私」ではない。そもそも「私」が構築されていなかったことが露呈しただけだった。

だから正確に言えば、私がしたのは「自分を取り戻す」ことではなく、「自分を初めて作り始める」ことだった。

私」を作り始めるために、まず私がしなければならなかったのは、自分に貼り付いていた無数の記号を一枚ずつ剥がしていく作業だった。

「日本人」これは最初に剥がれた記号だった。アメリカの教室で「I'm Japanese」が何の意味も持たなかった瞬間、この記号は効力を失った。私は、自分が日本人である前に、まず一人の人間であることを学ばなければならなかった。

「女性」これは私を深く規定していた記号だった。日本では「女の子らしく」「はしたない」「女性なんだから」という言葉が、知らず知らずのうちに私の行動、思考、さらには夢までも制限していた。

「高校生」これもまた、私を縛っていたラベルだった。「高校生なんだから」「まだ若いんだから」年齢という記号は、私に何を考え、何を言うべきかを暗黙のうちに指示していた。大人の前では謙虚であれ、意見を持ちすぎるな、まだ人生経験が浅いのだから、そんな声が常に頭の中で響いていた。

これらすべてを剥がしたとき、残ったのは何だったのか。
「日本人でもなく、女性でもなく、高校生でもない、ありのままの自分」

私は、美術が好きだ。
私は、辛いものが苦手だ
私は、コーヒーが嫌いだ。
私は、小さい動物が好きだ。
私は………。

何が好きか。何が嫌いか。何が心地よいか。何が不快か。その感覚のひとつひとつが、「私」を作っていった。

今、私は胸を張って言える。私は何者でもないかもしれない。立派な肩書きも、ドラマチックな経歴もないかもしれない。でも、私は私が何を感じ、何を愛し、何を拒絶するかを知っている。その確信さえあれば、どんな場所に行っても、どんな記号を貼られそうになっても、私はもう「私」を見失うことはない。

「私は美術が好きだ。私は辛いものが苦手だ。私はコーヒーが飲めない、動物が好き」これらの小さな宣言が、記号に頼らない「私」の最初の言葉だった。そして、その言葉を積み重ねていくことで、私は「私」を作り始めたのだ。

「自分を取り戻す」という言葉には、どこか「完成形」があるかのような響きがある。まるで、いつか「本当の私」に到達し、それ以上変わらない確固とした自己像を手に入れられるかのような。

しかし、実際には、「私」は常に変化し続ける。新しい経験をするたび、新しい人と出会うたび、新しい本を読むたび「私」は少しずつ変わっていく。10年前の私と今の私はまったく違う人間だ。そして、10年後の私は、今の私とはまた違う人間になっているだろう。

「私」を作ることは、一度きりのプロジェクトではない。それは、生涯続く作業だ。常に自分と向き合い、問い続け、修正し続ける。その終わりのないプロセスを、自分の心にしたがって正直に生きることが、「私」を生きるということなのだ。


現在の日本、MBTIの罠

今日本では爆発的に、MBTIが流行っている。若者なら自分がどのタイプなのか把握しているだろう。「私、INFPだから繊細なの」「あの人はESTJっぽいよね、リーダー気質だし」まるで血液型占いが心理学の衣を纏ったかのように、この診断ツールは日常会話の隅々まで浸透している。

私がアメリカから帰国し、日本の美大に入ってアルバイトを探していたとき、ある面接で衝撃的な質問を受けた。履歴書でも志望動機でもなく、面接官が最初に口にしたのは「MBTIはなんですか?」だった。私は深い違和感を覚えた。それは「あなた自身を語ってください」ではなく、「あなたを簡単に分類させてください」というメッセージだったからだ。16種類のどれかに当てはめれば、私という人間を理解した気になれる。効率的で、便利で、安全だ。私はそこを蹴った。

10年前のアメリカで出会った診断の本来の姿

実は、私にとってMBTIは目新しいものではない。日本で流行り出すよりもずっと前、2016年の高校生時代にアメリカでこの診断を受けている。当時、クラス全員で受けたその診断で、私は「ENFP-T」という結果を得た。外向的、直感的、感情優位、柔軟性。これらの特性を持つとされるタイプだ。

あれから10年、私は何度診断を受けても変わらずENFP-Tだ。留学を経験し、アイデンティティ・クライシスに苛まれ、「私」という主語を獲得するまでの長い道のりを歩んでもなお、この4文字だけは一貫している。

しかし、アメリカでのMBTIと日本でのそれは、使われ方が根本的に違う。アメリカではあくまで自己理解のツールとして機能していた。診断結果は出発点であり、「あなたにはこういう傾向がある。では、それを踏まえてどう生きるか」を考えるための材料だった。それは自分を縛るラベルではなく、自分を知るための一つの手段のような存在だった。

対して、日本では「自己説明のラベル」として消費されている。診断を受けた瞬間に自分探しが「完了」し、その4文字が「私」のすべてを説明してくれると錯覚してしまう人が多く見受けられた

記号に逃げ込む日本社会

日本社会には、生身の人間そのものよりも、その人を取り巻く「所属」や「役割」によって定義しようとする感じがした。
「○○会社の社員」「○○大学の学生」「長男」「母親」「日本人」
これらはすべて外部から貼り付けられた記号であり、内面から湧き出る「自分」ではない。

そして今、そのレッテルコレクションに「ENFP」「INTJ」といったMBTIタイプが新たに加わった。MBTIの4文字は、血液型や星座よりもはるかに精密で、それらしい言葉で人格を語ってくれる。「ENFPは情熱的で、人とのつながりを大事にする」「INTJは戦略的で、合理的な完璧主義者だ」。読めば読むほど、自分がわかった気になる。分類される快感と、理解されたような安心感が、じわじわと広がる。

だが、そこに書かれているのは、世界中に散らばる「ENFP一般」の特徴であって、「この環境で、この親のもとに生まれ、この時代を通過し、この傷と喜びを抱えてきた一人の人間としての私」ではない。

自分の行動や感情を、MBTIという外部の権威に説明してもらうことで、自分自身と向き合う作業を放棄している。

なぜ私は人と話すのが好きなのか。なぜ計画を立てるのが苦手なのか。なぜ感情的になりやすいのか。これらの「なぜ」に、自分の経験や記憶を掘り下げて答えるのではなく、「ENFPだから」という一言で片付けてしまう。これは自己理解ではなく、自己理解の放棄だ。

私がアメリカで経験した孤独も、保健室の天井を見つめながら感じた無力感も、深夜に母国について調べ直した焦燥感も、「私」という主語を獲得するまでにかかった長い時間もMBTIは、そのどれも説明してくれない。

結局のところ、「自分は何者か(名詞)」を問うのをやめ、「自分は何を感じ、何をするのか(動詞)」にフォーカスすることで自分を見つけていけられる

私は今でも、自分が何者なのか、完璧な言葉で定義することはできない。相変わらずMBTIはENFPが出るし、パスポートは日本のままだ。しかし、今の私はその記号に怯えてはいない。


⚪︎自己紹介⚪︎

⚪︎関連記事⚪︎


いいなと思ったら応援しよう!