昭和、男もつらかった 37 由緒ある(?)学校
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
昭和9(1934)年の春、二夫は尋常小学校(以下、小学校)へ入学したのだが、当時の校舎などの学校全体の佇まいがどうであったかはもはや知る由はない。インターネット上で現在の小学校を検索しても、昭和初期の姿を偲ばせるような画像は見当たらない(いつか小学校の資料室や地元の教育委員会などで古い卒業写真などを見せてもらえる機会があればいいのだが)。
なお、二夫の母校(このnote記事を書いている娘の二三四、つまりわたしの母校でもある)は、じつはかなり由緒ある学校だ。その沿革を、現在の小学校のホームページから拝借してみる。
明治5(1872)年 湊郷校設立(旧番所跡) 崎野郷校設立(旧海岸寺跡)
明治9(1976)年 市来小学校設立(島内来迎寺跡)
明治11(1878)年 湊小学校設立(下等科、上等科)、崎野小学校設立
大正9(1920)年 鹿児島県第二師範学校の新設により同年9月附属小学校となる
昭和5(1930)年 町制実施に伴い、市来尋常高等小学校と改称
昭和9(1934)年 第二師範学校廃止により附属小学校解消
昭和21(1946)年 市来小学校と改称
……といったところだ。ここにはないが、もちろん戦時中は昭和16(1941)年の『国民学校令』により「市来国民学校」に改称されたはずだ。
城下町でもないのに明治の初めには早々に郷校が、ほどなく小学校ができ、のちに県立師範学校の付属小学校に「昇格」するなど、地方の教育施設としては由緒ある学校だと言えるのだろう。実際二三四の小学生時代も「この学校は歴史が古い」「町全体で教育熱心だ」と聞かされたものだ。
ところで、沿革にあるとおり、二夫の生まれ故郷は昭和5(1930)年に町政へと変更された。明治の中頃まで一帯は市来郷と呼ばれていたが(上級官庁は郡治所)、明治22(1889)年に東市来村と西市来村に分離、西市来村がのちの市来町へと受け継がれた。
つまり、二夫が生まれた頃――生年は昭和2年だが戸籍上の記載は昭和3年――行政単位は「村」だったことになる。もっとも物心つく頃には「町」になり「平成の大合併」まで「町」が続くのだから、おおかたの住民の意識は長い間「町民」だった。
ちなみにこの小学校は、戦後昭和32(1957)年に国立鹿児島大学教育学部地方実習校に指定されている。昭和31(1956)年に学校給食が開始、昭和41(1966)年に屋内運動場竣工。木造校舎が鉄筋校舎になるのは、昭和47(1972)年に一期工事竣工、全体の鉄筋化は昭和48(1973)年である。その鉄筋化工事が行われている時期に、二三四は小学生時代を過ごしたのだった。
《出所、参考》
市来小学校公式ホームページ>学校概要
いちき串木野市ホームページ>市のあゆみ
