文字を持たなかった昭和 六十三(成長)
ミヨ子と二夫(つぎお)は最初の子を死産で亡くすという不運に見舞われたが、昭和35(1960)年ようやく授かった長男・和明は、家族の願いが届いたのか元気に育っていった。
それでもたまに熱を出したりすることがあった。その都度周りは「男の子は女の子より育てにくいから」と頷き合った。
和明の体調が悪くなると、ミヨ子たちは病院に連れて行った。「当たり前」と思われそうだが、昔の農村では体調が悪くなるといわゆる民間療法で対処するのが当たり前で、それゆえにお年寄りの経験と知恵は重宝された。病院自体町に数えるほどしかないうえ、近くにはなかった。もし近くにあったとしても、収穫物が売れてはじめて収入を得られる農家にとって、治療費をその都度現金で払うことはかなりの負担だった。だから、使った分だけの薬の代金を払えばよい富山の薬売りは重宝だった。簡単に言えば、農家の暮らしは万一のときも含め、自給自足が基本だったのだ。
戦後経済成長が続き、新しい社会制度も導入される中で、ミヨ子たちのような農家の暮しも変わりつつはあったが、習慣はなかなか変えられなかったし、ひと世代上の舅たちに理解してもらうのはもっと難しかった。ことに、一代で土地や屋敷を買い集めた倹約家の舅・吉太郎と、吉太郎と同じくらい働き者の姑・ハルは、大事な跡取りであっても病院に連れて行くことにいい顔はせず
「子供はしょっちゅう熱を出したりお腹をこわしたりするものさ」
が口癖だった。
それでも和明が体調を崩し、寝かせておいたぐらいではよくならなそうなときは、ミヨ子がバスで隣り町の個人病院まで連れていった。ここのY先生は、ミヨ子が独身時代工場勤めだった頃に罹った結核を治してくれた恩人でもあった。
Y先生に診てもらうことは、ようやく授かった男の子を今度こそ無事に育てるための守り札でもあった。
