昭和、男もつらかった 182 田に水を引く(令和の現状)

 昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語。目下昭和30年代後半から40年代前半を書いている。

 前項では用水路から田に水を引く作業について述べたが、思い出したことがある。当時ではなく現在のことだ。

 「昭和、男もつらかった」を綴っていて、娘の二三四(わたし)が知らない時代の二夫やその両親(祖父母)のことを誰か覚えていないだろうか、少しでも話を聞かせてほしい、という思いが強くなってきた。

 そこで、先月(2026年3月)法事で帰省するに当たり、二夫にとって従兄の子供(従甥姪)に当たる親戚に頼んで時間を作ってもらった。そのお宅は二夫たちの住まい(つまり二三四の実家)とはまさに目と鼻の先だった。5人いるきょうだいの末弟・Tさんは昭和29(1954)年生れ、二三四たち兄妹にとってはお兄さんのように親しい間柄だ。

 そのTさんに頼んで、昭和17(1942)年生れの長兄・Kさんに「父や祖父母の昔の話を聞かせてほしい」とお願いしたのだった。

 結論から言うと、Kさんは二三四が期待するような話はしてくれなかった。中学卒業後いまでいう職業訓練校で建築を学んだあと、長らく東京にいたため「地元」の話には疎かったのだろうし、中学までは近隣の親戚づきあいにはあまり興味がなかったのかもしれない。

 それは別として。話はいろいろな方向に及んだのだが、興味深いことを聞いた。

 Kさんは結婚を機に40代で帰郷し、大工をしながら家の田畑仕事も担ってきた。弟のうち二人はその手伝いをすることもあるが主導権はKさんだ。話題は自ずと農業、そしてコメ作りに及んだ。Kさん曰く。

「自分たちが食べる分だけ作ろうと思っていたが、お金を払うからウチの分も作ってくれ、と言われてしまい、いまや何軒分も作っている。労力もさることながら、近年は肥料代、農機具を動かす油代(軽油か?)などが上がって困る。年の初めにコメの値段を決めたら、あとで費用がかさんでも追加でもらうわけにいかないし」

「たしかに肥料の高騰は、ウクライナ戦争以降あちこちで問題になってますよねぇ」などと相槌を打ちつつ聞いていたら、予想外の話が出た。
「水代もかかるしな。年間(1シーズン)3万円も取られる」

「えっ。用水路から引くんでしょう? お金が要るの?」と二三四。
「川からポンプで水を揚げて用水路に流すのにカネがかかるらしい」

 あまりの驚きに、その「水代」は誰(どこの組織)が集めているのか聞き損ねた。農業委員会だろうか。地区のどのあたりの田んぼなのか、田んぼが散在しているとすればその合計なのか、面積当たりで計算するのかなどの計算基準も突っ込めなかった。とにかく驚いたのである。

 田に引く水も、いまや有料か……。肥料になるレンゲソウしかり、水しかり、自然の恵みと循環に調和しながら動いていた昭和の農業とは、ずいぶん姿かたちが違ってきているのだなぁ。

 としみじみ思ったのであるが、本稿を書きながら「待てよ」と考えた。もしかすると二夫が現役だった頃に、すでに「水代」の制度はあったのではないか? 稲作のコストなど知らなかった二三四が「用水路の水はタダ」と思い込んでいただけではないだろうか。

 あるいは。仮に二三四が実家にいた昭和50年代半ば頃までは「水代」制度がなかったとして、その後徐々に、水代も払うシステムになっていったのだろうか。もしそうなら、水は天からの恵みと思っていた多くの農家――もちろん二夫も含まれる――は、どんな思いを抱いただろう。

 ともあれ、日が照り土と水があれば作物が育つ、という時代では(とうに)なくなったことだけは確かである。戦中や終戦直後からいろいろな意味ではるかに遠いところまで来てしまった。

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