昭和、男もつらかった 181 田に水を引く
昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語。目下昭和30年代後半から40年代前半を書いている。
前項では、まだ水を入れない田んぼの土を耕す「田起こし」について述べた。その次は田んぼに水を引いて田植の準備をしていく。
当時は、というよりそれよりもっとあとまで、少なくとも娘の二三四(わたし)が高校卒業後県外に出た昭和50年代後半あたりまでは、田んぼの水は共用する用水路から直接引いてくるものだった。
「水田」と言うだけあって、稲作のための田んぼと水は切り離せない。水を持って来られるか、どこからどのくらい引いてくるかは、農家というか百姓にとっての命綱だったはずだ。水を巡る諍いや、用水路の整備など水を得るための労苦など、水(農業用水)にまつわるエピソードや言い伝えはあちこちの農村にある。
二夫たちが住む地域は、川を挟んで、西の東シナ海側と東の山側に分かれていた。海側には漁業に従事する家や若干の商家もあったが、地域住民の多くは兼業を含む農家だった。地元で「大里川」と呼ばれる川は二級水系で、農業用水の供給に重要な役割を果たしていた。それは令和のいまも同様である。
そもそもこの地域の水田は江戸時代地元の有力者が中心となって整備したものだ〈370〉。それ以前は川の氾濫あり、旱魃ありで、稲作にも障害が多かったと思われる。
昭和の後半頃には、川を挟んだ一帯は、ありきたりに言えばのどかな田園地帯になっていた。田んぼにはもともと河川敷だったところも含まれていたはずで、クリークとまでは言わないまでも、遠くまで田んぼが広がる風景である。
二夫一家の田んぼの何枚かも、その一角にあった。川の東側(山側)には、川に沿うように深めの用水路が設けられていた。山側からは大里川の支流とも言える上流から水が流れ込んでおり、一部は大里川へ、一部は用水路に流れていた――という感じではなかったかと思う。高低差や本流と支流の関係を改めて考えると、大里川のほうから東側の用水路に水を引くには、揚水する必要があるからだ。
ただし、田んぼの位置によっては、山側からの水が十分に流れていない場所もある。そういうところにはポンプで揚水して水を入れたのかもしれない。
ともあれ、流域の田んぼは大里川を中心とする用水路から水を引いた。二夫も、田んぼに水を入れる時期がくると用水路の堰を上げて水を流した。そのタイミングの見計らいと堰を上げる作業は、二夫が担った。
こういった作業は戦後二夫が復員するまでは父親の吉太郎(祖父)が担っていたが、初孫のカズアキが生まれた頃には傘寿を迎え、「最前線」からはとうに身を退いていた。言い換えれば、農作業のことは何につけ二夫が差配するようになっていた。
〈370〉水田の整備を成し遂げたことを祝い、後々までの豊作を願って、旧暦の七夕の頃に地域の神社に踊りを奉納する祭りが始まった。この「七夕踊り」については、二夫の妻・ミヨ子(母)の来し方を綴った「文字を持たなかった昭和」の「百三十六 七夕踊り、その一」~同「その五」で詳しく述べた。
※トップ写真の用水路はnoteからいただいたもの。
