昭和、男もつらかった 210 子供たちの環境
昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。
昭和40年代のエピソードとして、昭和35(1960)年生れの長男・カズアキと二つ下の二三四(わたし)、二人の子供たちの様子を述べた。
その頃の二夫たちの地域の、子供をとりまく環境、ことに男女の差はどんなものだったのか。
「子供(こどん)なんだ、てので遊(あす)じょれば何(ない)でん覚ゆったいが」*
(子供なんて、連れ立って遊んでれば、何でも覚えるものさ)
というのが、大方の大人たちの考え方だった。
実際、「郷中教育」〈374〉という薩摩藩の青少年の集団教育の名残が残り、年の違う子供どうしで遊ぶ中で、上の子が下の子にいろいろなことを教える、というやり方は、二夫たちの地域にも色濃く残っていた。
なにより、子供の数が多かった。徒歩圏内の集落を加えれば、カズアキの遊び友達は20人ほどもいた。
ただし「郷中教育」は男児だけのものである。女児を束ねるグループはなかった。そもそも女児は外で「てので」(つるんで)遊びまわるものではなく、家の手伝いをするか、手伝いがなければごく近所の友達と遊ぶぐらいのもの、と相場が決まっていた(まったく、いつの時代だ!)。家事や世間の常識は母親や祖母、近隣の大人の女性たちから学ぶのだ。
自然、男児と女児の遊び、それに遊ぶ場所ははっきり分かれていた。二夫の子供時代のような「おなごなんどと遊(あす)っがないもんか」(女子なんかと遊べるもんか)という感覚は、口に出すかどうかは別として、昭和40年代もまだ残っていた。女児は女児で、男児たちの中に入っていく気はない、というよりそんなことは考えもしなかった。〈374〉
もちろん大人たちの意識がもっと明確なことは言うまでもない。この大人たちあってこの子供たちあり、なのだった。
令和のいまのジェンダー意識に照らして、当時を批評、批判することは簡単だが、これを書いている大人になった二三四は「あの頃は遅れていた」「大人たちは考えが古かった」と断じることはできない。社会の秩序は、家、地域といった共同体のそれぞれが同じ価値観を保つことで維持されていたからだ。時代の要請が違ったとも言える。
そのことに疑問は持つべきではないとされたし、疑問を持つほどの教育はそもそも行き渡っていなかった。二夫の子供たちが大きくなる頃には少しずつ変わっていくが、それとて都市部ほど変化は速くなかった。
〈374〉薩摩の「郷中教育」が残っていたことについては、二夫の子供時代を述べた「30 郷中(ごじゅ)教育」で、(女子なんかと遊べるもんか)という感覚は同じく「25 幼少期①」でそれぞれ触れた。
*鹿児島弁参考:【公式】鹿児島弁ネット辞典>てのん
