#363 住民は「お客様」なのか――行財政改革の原点を整理する
前回は、現場の提案を組織の提案にするために必要な考え方を話しました。今回は、行財政改革の原点について、少し考えてみたいと思います。
もう30年位前、「CS運動」という言葉がよく使われていました。CSとは、Customer Satisfaction、つまり「顧客満足」のことです。
民間企業では、お客様に満足してもらうことが企業活動の基本です。商品を買ってもらう。サービスを選んでもらう。繰り返し利用してもらう。そのためには、品質を上げ、対応を良くし、利用者の声を聞きながら改善を続ける必要があります。
この考え方を行政にも取り入れよう、という流れがありました。
行政も、役所の都合だけで仕事をしていてはいけない。住民から見てわかりやすいか。使いやすいか。説明責任を果たしているか。成果が出ているか。そういう視点から、行政の仕事を見直していこうという考え方です。
それまでの行政には、どうしても「制度どおりに処理する」「前例どおりに進める」「内部の都合で仕事を組み立てる」という傾向があり、窓口の対応の悪さに批判が集中していました。ですから、住民の視点、利用者の視点を入れていこうとしたことは、行政改革の一つの大きな転換点だったと思います。
ただ、今あらためて振り返ると、このCSという考え方は、行政の中で少し違った方向に広がってしまったのではないか、という気もしているのです。
品質改善の原点は、ものづくりの現場にあった
CS運動や経営品質という言葉を考える前に、まず押さえておきたいのが、日本のものづくりにおける品質改善の歴史です。
戦後の日本では、統計的品質管理という考え方が広がっていきました。製品に不良が出てから検査で取り除くのではなく、そもそも不良が出ないように工程を管理する。データを取り、原因を分析し、現場で改善を重ねる。そうした考え方です。
この流れの中で、W・エドワーズ・デミング博士の影響はとても大きかったと言われています。日本科学技術連盟によると、デミング賞は、戦後の日本に統計的品質管理を普及させ、日本製品の品質向上の大きな礎を築いたデミング博士の業績を記念して、1951年に創設されました。(品質管理なら日本科学技術連盟)
その後、QCサークルという現場改善活動も広がっていきます。QCサークルは、1962年に発刊された『現場とQC』をきっかけに、職場の中で品質管理を学び、改善に取り組む小集団活動として生まれました。(品質管理なら日本科学技術連盟)
つまり、日本の品質改善は、現場の仕事の中に改善を組み込んでいく活動として広がっていったのです。もちろん、最終的にはお客様に満足してもらうことが大切です。しかし、その前提として、製品そのものに不具合がないこと、安定して供給できること、安全であること、コストが適正であること、工程が管理されていることが必要です。
品質改善とは、利用者に「どうしたらいいですか」と聞くことではありません。利用者が安心して使える製品を届けるために、専門性を持った人たちが、工程を見直し、標準をつくり、データを確認し、異常があれば原因を探り、再発防止を徹底する。そこに本質があります。
トヨタ生産方式とは何か
この品質改善や業務改善の象徴として、よく語られるのがトヨタ生産方式です。トヨタ自身は、トヨタ生産方式を「ムダのない生産活動」を実現するための考え方として説明しています。その中心にあるのが、「ジャスト・イン・タイム」と「自働化」です。(トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト)
ジャスト・イン・タイムとは、必要なものを、必要な時に、必要な量だけつくるという考え方です。
自動車は、3万点以上もの部品からできています。その部品はトヨタの工場だけでなく、多くの取引先の工場でつくられています。それらを無駄なく、遅れなく、過剰につくりすぎることなく、全体として同期させる必要があります。
そのためには、どの工程で何が必要なのか。どこで停滞が起きているのか。どこに余分な在庫があるのか。どこで情報が止まっているのか。そういうことを一つひとつ見えるようにし、工程全体を整えていく必要があります。
もう一つの柱である「自働化」は、単なる自動化ではありません。トヨタの説明では、そのルーツは豊田佐吉の織機にあります。糸が切れた時に機械が直ちに止まり、不良品をつくり続けない仕組みを組み込んだことが、「異常が発生したら機械やラインが止まる」という考え方につながっています。(トヨタ)
問題が起きても流し続けるのではなく、異常があれば止める。止めて原因を確認する。原因を直してから、再び動かす。つまり、品質を最後の検査で守るのではなく、工程の中でつくり込むという発想です。
トヨタの75年史でも、TQCの考え方が浸透するにつれて、「検査をすれば品質がよくなる」という考え方から、「品質は工程で造りこむ」という意識に変わっていったと説明されています。(トヨタ)
トヨタ生産方式は、「お客様に何をしてほしいか聞く」ことから始まったわけではありません。お客様に満足してもらうために、専門性の高い現場が、工程、標準、情報、異常対応、改善の仕組みを徹底して磨いていったのです。
顧客満足は「結果」であって、改善の中身ではない
民間企業において、顧客満足はとても重要です。
しかし、顧客満足とは、最終的な結果です。
たとえば、自動車であれば、利用者は「安全に走る」「壊れにくい」「燃費がよい」「乗り心地がよい」「価格に納得できる」といったことが求められます。けれども、その裏側にある設計、部品調達、生産工程、品質検査、物流、販売後のメンテナンスの仕組みについて、一般の利用者がすべて判断できるわけではありません。
もちろん、利用者の声を聞くことは大切です。
乗りにくい。見えにくい。使いにくい。故障が多い。価格が高い。こうした声は、改善の重要な手がかりになります。
しかし、利用者に「どの工程をどう変えればよいですか」「どの部品をどう設計すればよいですか」「どの生産方式を採用すればよいですか」と聞くわけではありません。
そこは専門家が判断する領域です。
利用者の声を受け止め、それを専門的な改善に翻訳するということです。
行政に入ってきたCSと経営品質
1990年代から2000年前後にかけて、行政の世界にも、民間企業の経営手法を取り入れようという流れが強くなりました。
その一つが、CS、つまり顧客満足の考え方です。
また、経営品質という言葉も広がりました。日本経営品質賞は1995年に創設され、1996年には経営品質協議会が設立されています。その後、2000年頃からは、自治体においても経営品質モデルを行政経営改革に活用する取り組みが広がったとされています。(経営品質協議会)
この背景には、NPM、ニュー・パブリック・マネジメントの流れもありました。
NPMは、民間企業の経営手法を行政に取り入れ、効率的で成果志向の行政運営を目指す考え方です。日本総研は、NPMの構成要素として、成果志向、組織内分権、市場機構の活用、顧客志向を挙げています。(JRI)
自治体の改革事例としてよく語られるのが、三重県の「さわやか運動」です。三重県は、1995年度に始めた「さわやか運動」以降、「生活者起点の県政」を掲げ、従来の「業務管理型」から「目的達成型」への転換を図ってきたと説明しています。(三重県公式サイト)
この流れの中で、行政の中にも「住民本位」「生活者起点」「住民満足度」「説明責任」「成果指標」といった言葉が広がっていきました。
私は、この流れそのものを否定したいわけではありません。
むしろ、それまでの行政があまりにも内部の論理で動いていたことを考えれば、住民の視点を入れることは必要でした。窓口対応を改善する。手続きをわかりやすくする。無駄な事業を見直す。成果を説明する。こうした改革は、行政にとって確実に必要だったと思います。
問題は、その先です。
住民は「顧客」なのか
行政におけるCSを考える時、認識しておくべきは、民間企業の顧客と、行政における住民は同じではないということです。
民間企業の場合、顧客は商品やサービスを選んで買います。気に入らなければ、別の商品を選ぶことができます。別の会社に乗り換えることもできます。
だから企業は、選ばれるために品質を上げます。価格を工夫します。サービスを改善します。競争の中で、より良い商品を提供しようとします。
一方、行政の場合、住民はその自治体のサービスを日々受ける存在であると同時に、納税者であり、有権者であり、地域社会の構成員でもあります。住民は、単なるサービスの利用者ではありません。
また、行政サービスは、商品を買うように自由に選べるものでもありません。もちろん、住む場所を変えることはできますが、日常的に「今日はこの自治体の福祉サービスを使い、明日は別の自治体の道路を使う」というような選択はできません。
さらに、行政の目的は、売上を伸ばすことでも、顧客満足度を最大化することでもありません。
地方自治法では、地方公共団体は「住民の福祉の増進」を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を担うとされています。(e-Gov 法令検索)
ここでいう「住民の福祉の増進」は、単に住民の希望をかなえることではありません。
安全に暮らせること。必要な行政サービスが持続すること。弱い立場の人が取り残されないこと。災害に備えること。将来世代に過度な負担を残さないこと。限られた財源と人員の中で、地域全体にとって必要なことを選び取ること。
これらは、住民満足度調査で測れるものではありません。
CS運動がもたらしたもの
行政のCS運動は、たしかに行政を変えました。
窓口の対応は良くなりました。説明資料もわかりやすくなりました。住民アンケートや満足度調査も増えました。事務事業評価や成果指標も導入されました。行政が「住民にどう見えているか」を意識するようになったことは、大きな前進だったと思います。
けれども、その一方で、少しずつ別の問題も生まれてきたように感じます。
それは、「住民の声を聞くこと」が目的化してしまったことです。
本来、住民の声は、政策を考えるための大切な材料です。
住民が何に困っているのか。どこに不便を感じているのか。どのような情報が届いていないのか。実際にサービスを使ってみて、どこに使いにくさがあるのか。
これらは、行政が把握しなければならない重要な情報です。
しかし、住民の声を聞くことと、住民に判断を委ねることは違います。
行政が専門的に判断しなければならないことまで、住民の意見に委ねてしまう。あるいは、住民アンケートやワークショップの結果をもって、「住民がこう言ったから」という形で行政判断の根拠にしてしまう。ここに、私は大きな危うさを感じます。
誰が、何を、誰に聞くのか
行政が住民の声を聞く前に設計しなければならないことがあります。
それは、誰が、何を、誰に聞くのかということです。
たとえば、公共施設の再編を考える場合、住民に聞くべきことはあります。今の施設がどのように使われているのか。どこが不便なのか。地域にとってどのような意味を持っているのか。利用者が何に困っているのか。代替策にどのような不安があるのか。
こうしたことは、住民に聞かなければわかりません。
しかし、施設を今後も維持できるのか。耐震性や老朽化の状況はどうか。更新費用はいくらか。人口減少の中で利用者数はどう変化するのか。類似施設との統合は可能か。将来世代にどの程度の負担を残すのか。
これらは、行政が専門的に分析し、判断しなければならない領域です。
学校給食でも同じです。
子どもたちの食べやすさ、保護者への情報提供、献立への感想などは、利用者の声として大切です。
しかし、衛生管理、栄養管理、調理方式、施設整備、アレルギー対応、調理員の確保、配送計画、財政負担などは、専門性を持って判断しなければなりません。
ですから、私はワークショップ開催を求められた際には、「調理場を自校方式にするか、共同調理場にするかは、住民判断で決められるものではなく、行政がその専門性と責任を持って判断します」とお答えしていました。
住民に聞くべきことと、行政や専門職が判断すべきことは違います。
そこを整理しないまま、「住民参加」を議論すると変なことになってしまうのです。
行財政改革とは、人気取りではない
本当の行財政改革とは、何でしょうか。
私は、行財政改革とは、限られた財源と人員の中で、地域にとって本当に必要な公共サービスを持続可能な形に組み直すことだと思います。
そのためには、やめることも必要です。統合することも必要です。負担をお願いすることも必要です。行政だけで抱え込まず、地域や民間と役割分担することも必要です。
しかし、それはとても難しいことです。
なぜなら、何かをやめる、縮小する、統合するという判断は、必ず誰かの不満を生むからです。
だからこそ、行政には説明責任があります。専門的な分析が必要となります。首長の政治判断があります。議会の議論があります。そして、住民との対話があります。
この順番を間違えてはいけないと思います。
大切なのは、事実に基づき、専門性に基づき、将来への責任に基づいて選択肢を示し、そのうえで住民と対話することです。
行政側は、まず内部で「考え抜く」ことが求められます。
住民は「要求する人」ではなく、自治の主体である
CS運動が行政にもたらした最大の功績は、行政を住民本位に近づけたことだと思いますが、その解釈を間違えると、住民は「自治の主体」ではなく、「行政に要求するお客様」になってしまいます。
お客様であれば、要望を言うことができます。
もっと便利にしてほしい。もっと安くしてほしい。もっと近くに施設を残してほしい。もっとサービスを増やしてほしい。
民間企業であれば、それに応えることが競争力になるのでしょう。
しかし、行政の場合、その要望に応える財源は、住民自身が負担する税金です。職員も無限にいるわけではありません。施設も永遠に維持できるわけではありません。
人口が減り、働き手が減り、税収が伸び悩み、インフラや公共施設が一斉に老朽化していく中で、行政がすべてを引き受けることはできません。
そして、その負担は未来の住民に先送りされてしまいます。
これから必要なのは、「行政に何をしてもらうか」だけではなく、「地域として何を引き受けるのか」「何を手放すのか」「何を次の世代に残すのか」を考えることです。
つまり、住民をお客様として扱うのではなく、自治の主体として位置づけ直す必要があるのだと思います。
行き過ぎた住民参加への違和感
最近、行政の現場では、住民の意見を聞くワークショップや、住民参加型の計画づくりがとても増えています。
もちろん、住民参加そのものが悪いわけではありません。むしろ、地域の実情を知るためにも、住民との対話は欠かせません。
けれども、私は時々、これは少し行き過ぎているのではないかと感じることがあります。
本来、行政や専門職が責任を持って判断すべきことまで、住民ワークショップに委ねてしまう。財政的にも、技術的にも、将来的にも難しいことを、あたかも住民の話し合いで決められるかのように扱ってしまう。
そして、その結果が地方政治の選挙と結びついてしまう。
「住民が望んでいるから残します」
「住民の声を聞いて実現します」
「みんなで決めたことだから進めます」
こうした言葉は、一見すると民主的に見えます。
しかし、そこに財源の裏付けはあるのか。将来負担は説明されているのか。専門的なリスクは共有されているのか。少数派や将来世代の利益は考慮されているのか。行政としての責任ある判断はどこにあるのか。
ここを曖昧にしたまま住民参加だけを強調すると、CS運動が目指したはずの「住民本位の行政」は、いつの間にか「住民要望に引っ張られる行政」になってしまいます。
そして、それが選挙と結びつくと、さらに難しくなります。
本当は見直さなければならない施設や事業が、住民の反対を恐れて残される。将来の負担を説明しないまま、目の前の満足度を優先する。専門的な判断よりも、選挙で受け入れられやすい言葉が前に出る。
それは、本当に自治と言えるのでしょうか。
人口減少社会への適応に必要なのは、住民をお客様にすることではなく、住民とともに地域の未来を引き受けることではないでしょうか。
「住民は顧客だ」「その住民に選ばれた首長の言うことは絶対だ」と言う言葉が、CS活動を導入した当時よく聞かれていました。窓口対応などは確かによくなりましたが、もう窓口もDX化して無くしてしまう時代です。責任逃れのために住民の意見を聞くというのは、それ自体が行政にとっては負担になってきてると思います。
