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ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第7回:賠償の献げ物(asham)における雄規定の論理、および初子(bechor)・家畜の十分の一税(maaser beheimah)の売却に関する法理

*本稿はモーセ五書(トーラ)レビ記27章が規定する「いけにえの交換(temura)」の禁止命令について、口伝律法ミシュナ第5部『Kodashim』の『Temurah(テムラー篇)』を参照して解説するシリーズ7回目である。

 今回は『Temura(テムラー)』第3章3節後半〜5節を取り上げ、賠償の献げ物(asham)における雄規定の論理、および初子(bechor)と家畜の十分の一税(maaser beheimah)に固有の売却・贖いに関する法理を成文律法(トーラ)の根拠(民数記18章・レビ記27章)から実証する。

 また、その「固有の売却方法」として、リトラ(正確な重量)計測による世俗的売買の禁止理由、硬貨への聖性移転(贖い)の不可能性を詳解すると共に、Halachah LeMoshe MiSinai(ハラハー・レモーシェ・ミシナイ:シナイ山におけるモーセの伝承)に基づくchatatとashamの構造的差異にも触れる、手加減抜きの専門的論考である。


前回の振り返り: todah・olahの聖性継承とdichuiの原則


 前回は、ミシュナ『Temura』第3章2節~3節を扱い、temuraを使う場合の感謝の献げ物(todah)におけるパンの免除、焼き尽くす献げ物(olah)の聖性継承、および不適格な献げ物を巡る「dichui(ディフイ)」の原則について解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】感謝の献げ物(todah)におけるパンの免除規定

 通常のtodahは40個のパンを伴うのが特徴であるが、その子やtemuraについては扱いが異なる。

①継承と例外

 todahの子、todahのtemura、およびそれらの子孫はすべてtodahそのものとして献げられるが、パンを添える必要はない。

②聖書学的根拠

 レビ記7章12節の「感謝の献げ物」という言葉に定冠詞が付けられていることから、パンを伴う義務は「元の(最初に指定された)献げ物」に限定されると解釈されている。

【2】焼き尽くす献げ物(olah)の聖性継承と雄規定

 olahのtemuraやその子孫も、元のolahと同様の聖性を持ち、皮を剥ぎ、分割して完全に焼くという通常の手続きが行われる。

 olahは「無傷の雄」でなければならないと律法(レビ記1章)で定められている。

【3】不適格な聖別と「dichui(排斥)」の原則を巡る論争

 誤って雌をolahとして聖別してしまった場合、その動物やそこから生まれた「雄の子」をどう扱うかについて、以下の論争がある。

①dichui(ディフイ:排斥)の原則

一度献げ物として不適格になったものは、後に条件(不適格事項の解消)が整っても適格には戻らないという原則を指す。

②匿名ラビ(多数派)の見解

 母親が雌(不適格)である以上、そこから生まれた子がたとえ雄であっても、聖性は母親から受けているため祭壇に献げることは出来ない。

 この場合、子は傷を負うまで放牧された後に売却され、その代金で新たにolahを購入する必要がある。

③ラビ・エルアザルの見解

 「生きている家畜にdichuiは適用されない」と主張した。子が雄であれば「olahは雄であること」という条件を満たしているため、そのままolahとして献げることができると説いた。

【4】聖性の起源による差異

 匿名ラビは「元の聖性が適格であったか」を重視する。

 最初から雌をolahに指定した場合は、その子も不適格になるが、元のolahが雄(適格)で、そのtemuraが雌となり、その雌が雄の子を生んだ場合、その子はolahとして献げることが出来る。

 これは、起源となる聖性が「雄」であり、olahとしての適格性を担っていたためであると説明される。

 以上の内容に不安を感じる方は、以下リンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第6回:第3章2節~3節における感謝の献げ物(todah)の子・temuraにおける「パン随伴義務」の不適用、焼き尽くす献げ物(olah)の聖性継承、およびdichui(排斥・押しのけの原則)を巡る論争とハラハーの整合性

https://note.com/mishnah/n/n936107741012


賠償の献げ物(asham)における雌の聖別と「神殿の自発的な献げ物の箱」への帰属法理


 今回はその続きである。口伝律法ミシュナ「Temura」3章3節の続きを引用する。

 もし誰かが雌を賠償の献げ物としたなら、それは傷を負うまで草を食むことになる。それから売られ、所有者はその売上でashamを献げる。もし所有者のashamが持って来られているのなら、その売上は神殿の自発的な献げ物の箱に入る。ラビ・シモンは言う、「それは傷がなくても売られるべきである。」

(Temura 3:3)

 賠償の献げ物(asham:アシャム)もolahと同じく、雄でなくてはならない。そこで雌をashamとして聖別してしまったなら、傷を負うまで放牧することになる。

 傷を負った後に売却し、その売上で改めてashamとなる家畜を購入する。

 ashamがolahと異なるのは、olahは自発的に献げることが出来るが、ashamは罪の贖いの為であり、トーラで定められた場合に義務的にしか献げることが出来ない。

 そこで、誤ってashamとして聖別した雌が傷を負う前に、雄でashamを献げ終わるのが通常のあり方と思われる。

 このような場合、雌が傷を負って売却した時には、その売上金をashamの為に使うことが出来ない。そこで、売上金は「神殿の自発的な献げ物の箱」に入れるように、ここで明記されている。

 神殿の祭壇は常に献げ物を献げる状態であるように配慮される。もしも何も献げるものが無い時には、共同体としてolahを献げる。

 「神殿の自発的な献げ物の箱」の中に入れられた寄付は、このolahの費用に当てられる。

 続きには次のように書かれている。

Halachah LeMoshe MiSinai(ハラハー・レモーシェ・ミシナイ)におけるchatat(罪の献げ物)とashamの構造的・生物学的差異

 ashamのtemuraとtemuraの子について、無限に至るまで傷を負うまで草を食むことになる。それから売られ、その売上は神殿の自発的な献げ物の箱に入る。

(Temura 3:3)

 olahやshelamimの場合とは異なり、ashamのtemuraと、temuraの子孫は、全く祭壇に献げることは出来ない。

 たとえそれがashamの条件を満たす雄であっても、不可である。

 シナイ山におけるモーセの伝承(Halachah LeMoshe MiSinai:ハラハー・レモーシェ・ミシナイ)によると、chatatのtemuraは餓死させなくてはならない。また、chatatを餓死させなくてはならない場合、ashamの場合は傷を負うまで草を食むことになるとされている。

 この理由はashamのtemuraの子孫には適用されない。なぜなら、Halachah LeMoshe MiSinaiでは、chatatの子供は餓死させられるが、ashamの子供を放牧させるとは教えていない。

 chatatについては、献げる人の立場に従って、雄である場合も雌である場合もある。従ってその子供は問題になり得る。

 他方でashamは雄しか献げることが出来ないので、子供を産まない。従って「ashamの子供」は問題になり得ない。

 そこで、本節の「ashamのtemura、temuraの子孫を献げることが出来ない」理由は、別に求められることになる。それは賠償の献げ物を献げることの本質にあると見られている。

 ashamは罪の贖いである。罪の贖いを達成するのに、律法で禁止されたものを用いることは不適切であるという事である。トーラには次のように書かれている。

 (いけにえを)他のものと替えたり、良いものを悪いものに、あるいは悪いものを良いものに替えてはならない。もし、その家畜を他の家畜と替えるならば、それも、替えたものも、聖なるものとなる。

(レビ27:10)

 結論として所有者は賠償の献げ物の為にashamのtemuraも、その子孫も献げることは出来ないとする。

 次は「Temura」3章5節に進む。

初子(bechor)と家畜の十分の一税(maaser beheimah)における無限の聖性継承と放牧規定

 初子とmaaser beheimahのtemuraについて、それらの子、それらの子の子、無限に至るまで、これら全ては元の初子及びmaaser beheimahと同じである。しかし傷を負った時、食べられる。

(Temura 3:5)

 ここでは初子(bechor:ベホール)と家畜の十分の一税(maaser beheimah:マアセル・ベヘマー)について述べている。具体的には次の場合を扱っている。

①bechorのtemura

②bechorのtemuraの子

③maaser beheimahのtemura

④maaser beheimahの子

⑤maaser beheimahのtemuraの子

 なお、「bechorの子」は含まれないと解される。bechorはそもそも雄だけの話であるので、それから生まれる子供は問題にならないから。

 maser beheimahに雌雄の区別は無いので、maaser beheimahの子孫はあり得る話になる。

 上記①~⑤は「無限に至るまで。これら全ては元の初子とmaaser beheimahと同じである」とされている。つまり子孫は元の初子とmaaser beheimahと同じ聖性を持つ。

 ところでbechorとmaaser beheimahは傷を負った後でも、公の場所で売却することが禁止されている。その根拠はトーラに記されているが、所有権を移転した場合を扱う本記事の最後で、掲載する。

上記①~⑤も、公の市場で売ることは出来ないとされている。

 ただ、上記のミシュナに書かれている通り、「傷を負った時、食べられる」。傷を負うまで放牧され、その後食べられるのである。

 この点がbechorとmaaser beheimahの独特の性格であることについて、続きのミシュナ本文で語っている。

通常のいけにえとの対比:市場での売却・屠殺・リトラ計測の禁止理由

 初子またはmaaser beheimahと、他の全ての献げ物の違いは何であろうか?全ての献げ物は初子とmaaser beheimahを除いて、市場で売られ、屠られ、リトラで計られる。全ての献げ物は贖われるし、それらのtemuraは同様に贖われる、初子とmaaser beheimahを除いて。

(Temura 3:5)

 この節の冒頭の「初子またはmaaser beheimahと、他の全ての献げ物の違いは何であろうか?」における「他の全ての献げ物」とは、「傷を負った他の種類のいけにえ」の意味である。

 傷を負った他の種類のいけにえは、公の市場で売ることが出来る。祭壇で献げられるべきいけにえが、傷を負った後であっても、世俗の市場で売られるのは、商業的であり、祭壇への敬意を欠いたあり方のようにも思えるが、それは認められている。

 しかしbechorとmaaser beheimahについては、傷を負った後でも市場で売ることは出来ない。この点について、上で「リトラで計られる」ことについて述べられている。

 「リトラで計る」とは、正確な肉の分量を計測し、売却することを指している。通常のいけにえは傷を負って売る時には、肉の分量を正確に計り、売ることが出来る。

 この売買方法は、事実上世俗の肉と同じように売ることを意味する。

 bechorとmaaser beheimahについては、「リトラで計って」売ってはならない。公の市場で売ってはならないし、私的な場所で所有権を移転する場合も、概算で売らなくてはならない。

なぜならbechorの売上は祭司のものとなり、maaser beheimahの売上は所有者のものになるからである。

 「bechorの売上は祭司のもの」になるのは、トーラに次のように書かれているからである。

 人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなた(祭司)のものとなる。

(民18:15)

 他方でmaaser beheimahについては、和解の献げ物についての規定が準用され、その肉は所有者のものである。従って「maaser beheimahの売上は所有者のもの」になる。

 このように、bechorとmaaser beheimahに関しては、その売上は「自発的な献げ物の箱」に入れられることがなく、代わりのいけにえとなる家畜に使われるのでもない。個人のものとなる。

 トーラの掟によって取り分けるいけにえが市場価格で売られ、その売買利益が個人に行ってしまうのは、適切ではない。

 そこでこれらのものは公の市場で売ってはならず、もしも売るなら私的な場所で、正確な秤を用いないで売らなくてはならない。

 なぜなら概算にすることで、所有者は安く売るように促されるからである。

成文律法(トーラ)に基づくbechor(民数記18章)とmaaser beheimah(レビ記27章)の贖い不可法理


 次の「全ての献げ物は贖われるし、それらのtemuraは同様に贖われる、初子とmaaser beheimahを除いて」とは、一般的に献げ物のいけにえが傷を負い、売却した場合、その聖性は代価としての硬貨に移ることを前提にしている。

 例えばolahのいけにえが傷を負い、売却したなら、代価である硬貨に聖性が移される。元の所有者はその硬貨を用いて、改めてolahにする家畜を購入する。

 bechorとmaaser beheimahに関しては、上記のように私的な場所、私的な仕方で売却する。しかしその聖性は硬貨に移らない。bechorを贖うことが出来ない点については、トーラに次のように書かれている。

 牛、羊、山羊の初子は、贖ってはならない。これらは聖なるものである。

(民18:17)

 maser beheimahを贖うことが出来ない点については、トーラに次のように書かれている。

 この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。

(レビ27:33)

 最後に「買い戻すことはできない」と訳されているが、硬貨によって、代価で贖うことが出来ないことを意味している。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Temura』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n6974756a85bf


 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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