ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第6回:第3章2節~3節における感謝の献げ物(todah)の子・temuraにおける「パン随伴義務」の不適用、焼き尽くす献げ物(olah)の聖性継承、およびdichui(排斥・押しのけの原則)を巡る論争とハラハーの整合性
*本稿はモーセ五書(トーラ)レビ記27章が規定する「いけにえの交換(temura)」の禁止命令について、口伝律法ミシュナ第5部『Kodashim』の『Temurah(テムラー篇)』を参照して解説するシリーズ6回目である。
今回は『Temura』3章2~3節を取り上げ、感謝の献げ物(todah:トダー)の子とtemuraにおけるパン免除の聖書学的根拠(レビ記7章12節の定冠詞解釈)から、焼き尽くす献げ物(olah)の雌雄適格、および不適格の固定化原則「dichui(ディフイ)」について、ラビ・エルアザルと匿名ラビの法理論争までを詳解する。
前回の振り返り:ミシュナ『Temura』第3章1節の総括
前回は、ミシュナ『Temura』第3章1節を扱い、「和解の献げ物(shelamim)」から生まれた子、およびそのtemuraの法的地位と聖性の継承について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】聖性の自動継承と無限の連鎖
「和解の献げ物」の子、およびそのtemura(身代わりとして聖別されたもの)は、元のいけにえと同じ聖性を持ち、同様に祭壇に献げることが出来る。
①継承の範囲
この聖性の継承は、子から孫、ひいては「無限の世代」にまで適用される。
②temuraとの違い
「temuraのtemura(二重のtemura)」は無効であるが、「temuraの子」や「いけにえの子の子」については聖性が維持されるという点が重要な法理である。
【2】祭壇奉納における義務規定
kodashim(いけにえ)の子、kodashimのtemura、及びそれらの子や孫を献げる際には、通常の和解の献げ物と同じ以下の手続きが必要となる。
①所有者はいけにえの頭に按手(semichah:セミハー)すること。
②穀物の献げ物(minchah:ミンハ)とぶどう酒を献げること。
③奉納(tenufah:テヌーファー)すること。
【3】ラビ・エリエゼルとラビたちの論争
「いけにえの子」を実際に祭壇で献げてよいかを巡り、見解が分かれている。
①ラビ・エリエゼルの主張
いけにえの子を献げることを禁じ、餓死させるべきだと説いた。
献げることを認めると、飼い主が「群れ」を作る誘惑に駆られ、その間にいけにえを労働させたり毛を刈ったりするので、餓死の規定が定められたと主張する。
つまり、「いけにえの子」は献げ物として許容されないとする。
②ラビたちの主張(多数派)
そのような規定は過去になく、子も祭壇で献げることができると反論した。
【4】歴史的証言と最終的な法的結論(ハラハー)
①実証的証言
ラビ・ヨシュアとラビ・パピアスは、実際にshelamimの雌牛と、その雌牛の子をshelamimとして食べた事実を証言し、ラビたちの正当性を裏付けた。
②最終結論
中世の権威であるRavやRambam(ランバム:マイモニデス)らは、この議論を総括し、「子も孫も、何代先であっても和解の献げ物として献げることができる」という見解を示している。
大多数のラビもこの見解を支持している。
以上の内容に不安を感じる方は、以下リンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第5回:第3章1節における献げ物(kodashim)の子およびtemuraの子の聖性継承法理、ならびにラビ・エリエゼルとラビたち(Chachamim)による論争とhalachah(ハラハー)の確定
https://note.com/mishnah/n/n98e6faf62d01
ミシュナ『Temura』第3章2節の法理:todahおよびolahの聖性継承
今回はその続きである。口伝律法ミシュナ「Temura」3章2節に進む。
todahの子、todahのtemura、todahの子とtemuraの子、その子の子、これらは皆todahそのものと同じように扱われる。ただしそれらにパンは不要である。
todah(トダー)は日本語では「感謝の献げ物」と訳されている。todahは重病からの回復や海路の旅など、生命の危機を免れた場合に献げるものであるが、shelamimに分類されるものであり、いけにえの他に40個のパンを伴う点に特徴がある。
詳しい内容は以前の記事で扱っているので、不確かな方は下のリンクから確認して欲しい。
◉和解の献げ物(shelamim:シェラミーム)の法学的解析:ミシュナ『Zevachim(ゼヴァヒーム)』に基づく聖別規定と空間的・時間的境界線の詳解
https://note.com/mishnah/n/n7c8199ad8cf6
さて、「todahの子、todahのtemura、todahの子とtemuraの子、その子の子」の射程範囲があいまいに見えるが、todahの直接の全ての子孫及びtemuraの直接の全ての子孫を指す。
「これらは皆todahそのものと同じように扱われる」とあるので、通常のtodahと同様に献げられる。つまりshelamimの手続きで献げられることになる。
「ただしそれらにパンは不要である」とあるのは、40個のパンを伴わない点では唯一異なっているという事である。根拠はトーラ本文に求められている。
それを感謝の献げ物としてささげる場合、献げ物にする動物のほかに、オリーブ油を混ぜて焼いた小麦粉の輪形のパン、オリーブ油を塗った薄焼きパン、上等の小麦粉にオリーブ油を混ぜて練って輪形にした物をささげる。
原文の「感謝の献げ物」には定冠詞が付けられている。この定冠詞は元のtodahを指していると解釈され、元のtodahを献げる時、トーラ本文の各種のパンを伴うとされている。
逆に言うと、元のtodahでない限り、40個のパンを一緒に献げてはならない。
続きには次のように書かれている。
焼き尽くす献げ物(olah)の聖性継承と雄規定の原則
olahのtemura、そのtemuraの子、その子、その子の子、無限に至るまで、これらは皆olahと同じように見なされる。皮を剥ぎ、各部に分割し、完全に火で焼かれる。
olahは焼き尽くす献げ物を表す。todahの場合と同様に、olahのtemura及びその子孫はolahと同様に見なされる。
ただしshelamimと異なり、olahは雄でなくてはならない。トーラには次のように書かれている。
牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。
羊または山羊を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。
「皮を剥ぎ、各部に分割し、完全に火で焼かれる」とは、olahの通常の手続きである。トーラには次のように書かれている。
6奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、 7祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、 8分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。
ここではolahの子、olahの子の子・・に言及していないが、親の聖性は子に移るので、同様に扱われると思われる。
次節に進む。
ミシュナ『Temura』第3章3節の法理:olahにおける雌の聖別とdichuiの原則
もし誰かが雌をolahとして、それが雄を生んだなら、それは傷を負うまで草を食むことになる。それから売られ、所有者はその売上でolahを献げる。ラビ・エルアザルは言う、「子はolahとして献げられる。」
すぐ上で書いたように、olahは雄でなくてはならない。ここでは雌をolahとして聖別してしまった場合を扱っている。
この場合、まずその雌は祭壇に献げることは出来ず、傷を負うまで草を食むことになる。傷を負ったなら売却し、その売上でolahを改めて購入する。
この雌が雄を生んだ場合、その聖性は母親から受けているものであるので、祭壇に献げることは出来ない。母親を祭壇に献げることが出来ないので、雄であっても、その子を祭壇に献げることは出来ない。
この雄は傷を負うまで草を食むことになり、傷を負ったなら売却し、その売上でolahを購入する。母親と同じである。
ラビ・エルアザルはこの点で異論を唱え、子供が雄であるならば、olahとして献げることが出来ると主張する。
ラビ・エルアザルの考えを理解する為に、dichui(ディフイ:押しのけること)について解説する。
dichui(ディフイ:排斥)の原則と生きている家畜への適用限界
献げ物に関して言うなら、一度不適格になってしまったなら、その後でその不適格事項がクリアになっても、献げ物として不適格という位置付けは変えることが出来ない。
この原則をdichuiと呼ぶ。
ここでは母親は雌であるので、献げ物として不適格となっていた。子供が雄であることによって「olahは雄でなくてはならない」という条件はクリアしたのだが、母親の代で不適格になっているので、子どもの代になっても回復しない。
ラビ・エルアザルは生きている家畜に関しては、dichuiは適用されないと考えているようである。すなわちその不適格条件がクリアされるなら、献げ物としての適格を得るという事である。
ここでは母親は不適格になったが、子供の代でその不適格事項が克服されている。そこでolahとして聖別された子が雄であるなら、olahとして献げることが出来ることになる。
この節の最初の見解(匿名のラビの見解)に戻る。
彼は「もし誰かが雌をolahとして、それが雄を生んだなら、それは傷を負うまで草を食むことになる」と主張していた。このラビは次のように考える。
ミシュナ本文の通り、「もしも雌をolahとして、それが雄を生んだなら、それは傷を負うまで草を食むことになる」。しかし元のolahが雄であり、そのtemuraが雌であり、雌のtemuraが子を生んだ場合、「雌であるtemuraの子」はolahとして献げることが出来る。
なぜなら元の聖性は雄であり、olahの適格を担っていたからである。彼の場合、「最初の聖性が継承される」点で一貫していることになる。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Temura』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n6974756a85bf
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
