民数記19章「赤い雌牛の灰」の完全解読:ミシュナ『Parah(パラー)』に見る儀式の構造と政治的背景
*民数記19章に記された「赤い雌牛の灰」。死者による汚れを拭い去る「清めの水」の原料となるこの灰は、古代イスラエルにおいて最も厳格かつ特殊な手順で作られていました。
なぜ祭司は石の部屋に隔離されたのか。なぜ神殿からオリーブ山まで特殊な「空中回廊」が作られたのか。そして、なぜ儀式の直前に祭司を「わざと汚す」必要があったのか。
口伝律法ミシュナ『Parah(パラー)』を紐解き、福音書に記されたイエスの言葉とも交差させながら、当時の人々が汚れ(tumah:トゥマ)を徹底的に排除しようとした執念と、その儀式に込められた宗教的・政治的背景を解説します。
はじめに:民数記19章の難解な規定
前回の記事で、死者によって汚れた人の清めの手続きとして、「清めの水」を振りかける次第を説明した。そこでは「清めの水」の準備については立ち入らないこととした。
(前回の記事はこちらです)
◉聖書時代の墓の構造と口伝律法:ミシュナ『Bava Batra(バヴァ・バトラ)』から読み解く「空の墓」の真実
今回はそれに立ち入りたいと思う。まずは民数記19章から見てみよう。
主はモーセとアロンに仰せになった。
主の命じる教えの規定は次のとおりである。イスラエルの人々に告げて、まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。そして、彼の目の前でその雌牛を焼く。皮も肉も血も胃の中身も共に焼かねばならない。祭司は、杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む。祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。雌牛を焼いた者も、自分の衣服を水洗いし、体に水を浴びる。彼は夕方まで汚れている。それから、身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される。雌牛の灰を集めた者は自分の衣服を洗う。彼は夕方まで汚れている。これは、イスラエルの人々にとっても、彼らのもとに寄留する者にとっても不変の定めである。
この箇所は大変に難解で、読解力で理解出来るものではない。実際に理解し、納得して実践する為には、口伝律法ミシュナを参照する必要がある。
祭司の隔離と「石の部屋」の論理
まず口伝律法ミシュナ「parah(パラー)」3章を最初から順番に確認する。
Parahを焼く7日前に、彼らは祭司を隔離する。その者がparahを焼くのであるが、彼の家からbirahの前の部屋まで。神殿の北東の角である。それは「石の部屋」と呼ばれており 、彼にmei chatatを7日間ずっとかける 。そこにある灰から作られた水で。
順番に説明する。
まず、parah(パラー)とは赤い雌牛を指す。parah(パラー)を焼く担当の祭司は、「7日前に隔離される」とある。
清めの水を構成するのは、地上から湧き出る水と赤い雌牛の灰であるが、これらのものは聖なるものであり、汚れたら使えなくなる。
そこで、祭司たちは7日前から隔離され、汚れないように配慮されるという事である。
なぜ7日前からなのかというと、死者による汚れが7日間だからである。たとえ本人の気付かない内に死者による汚れを受けていたとしても、この期間に清められる状況を担保する。
「Parahを焼く7日前に、彼らは祭司を隔離する。その者がparahを焼くのであるが、彼の家からbirahの前の部屋まで。神殿の北東の角である」とは、隔離される祭司は「birahの前の部屋」まで行くとされる。
「birah」とは基本的に神殿の敷地全体を指すが、もっと特定した箇所を考える者もいる。いずれにしても、神殿の北東部分のエリアに「石の部屋」と呼ばれる部屋があることが明記されている。
「彼にmei chatat(メイ・ハタート:清めの水)を7日間ずっとかける。そこにある灰から作られた水で」とは、これからparah(赤い雌牛)を焼いて清めの水に混ぜる灰を作ろうとしている祭司自身が、清めの水(mei chatat)を毎日振りかけられることを言っている。
死者によって汚れた場合は3日目と7日目に水を振りかけるが、祭司がいつ死者の汚れを受けていてもいいように、念には念を入れて毎日振りかけるとしている。
次に祭司が隔離される部屋が石作りである理由だが、これは単純に石が汚れないからに他ならない。口伝律法ミシュナには次のように書かれている。
もし道具がフン、石、焼いていない土で作られているのなら、それらは全て清いままである。
祭司はこのような環境に置かれ、可能な限り絶対に汚れないように配慮される。
空中回廊の謎:地下の死者を避ける建築学
口伝律法ミシュナ「Parah」の続きは以下の通りである。
彼らは神殿の丘からオリーブ山までスロープを作るが、屋根の上に屋根をかける形である。深い所の死者への懸念の為に。というのもparahを焼く祭司、parah、従者たちは神殿の丘からオリーブ山まで行くからである。
parah(赤い雌牛)を焼いて灰にするのは、神殿から1キロ程のオリーブ山である。歩いてそこに到達する前に、人知れず地中に埋まっている死体によって汚れる恐れがある。
これは知っておかないとならないが、死体が地中にあった場合、その上を歩く者は汚れる。ルカによる福音書11章にも次のように書かれている。
あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。
話を戻すが、祭司が地中にあるかもしれない死体によって汚れることのないように、神殿からオリーブ山まで、特別な通路が作られている。これは「屋根の上に屋根をかける形」とされている。
上にリンクを付けた前回の記事でも述べたが、死者による汚れは同じ屋根の下にあるものを汚す。しかし屋根があるなら、それより上のものは汚れない。
そこで、赤い雌牛の灰を作る際、アーチ状の形を通路の中に作り、それを2段かけることで、つなぎ目においても死者の汚れが上昇しないようにされている。この上を歩く限り、祭司が汚れることはない。
サドカイ派との対立:あえて祭司を「汚す」逆説
「Parah」の続きには次のように書かれている。
イスラエルの長老たちが一行を先導し、徒歩でオリーブ山まで行く、そこには清めの場所がある。彼らはparahを燃やす祭司に汚れを移す。
この「イスラエルの長老たち」とは最高法院の議員たちを指す。赤い雌牛の灰を準備するのは私的なものではなく、イスラエル全土に関わる国家行事であることを示す為である。
彼らは律法に関する最高権威の者たちであったので、儀式がモーセ五書(トーラ)と口伝律法(ミシュナ)の規定通り執り行われているか、監視・承認する役割も担っていたであろう。
「そこには清めの場所がある」とは、mikveh(ミクヴェ)があることを言っている。儀式の前に祭司たちがそこで身を清める。
「彼らはparahを燃やす祭司に汚れを移す」は極めて難解な箇所である。ここまで彼らは式の7日前から祭司を隔離し、毎日清めの水を振りかけ、オリーブ山までの道も特別な仕様で準備していた。
ここに来て、儀式を行う祭司にあえて汚れを移すのである。それは口伝律法ミシュナの正統性を否定し、モーセ五書(トーラ)を字義通りに解釈しようとするサドカイ派を意識したものである。
汚れを負った者は一般的に、mikveh(ミクヴェ)に浸かり、日没を待って完全に清くなる。mikvehに入ってから日没までの時間はtevul yom(テヴル・ヨム)と呼ばれる。それは汚れは取れているのだが、完全に清くなったとはされない状態である。
サドカイ派は「tevul yomは赤い雌牛の準備をすることが出来ない」と主張するので、あえてここで祭司に汚れを移し、すぐにmikvehで身を清めることとしている。
オリーブ山での儀式:神殿を見据える「西向き」の配置
祭司はこのようにして、tevul yom(テヴル・ヨム)になって儀式を行う。次である。
彼らは彼の上に按手して言う、「私の主人である大祭司よ、身を清めて下さい」。彼はmikvehに入り、身を清め、体を乾かす。
そこに木材を準備しておく。杉、月桂樹、ツゲ、いちじくの木いずれでもよい。
彼らはそれで一種の塔を作り、窓を開け、その前面が西を向くようにする。
最初の文章は、最高法院の議員たちが祭司に手を置くことを言っている。彼をイスラエル全体の代表者として任命する意味がある。モーセもヨシュアを後継者として任命する際、彼に按手した(民 27:18〜23)。
議員たちはここで彼を「大祭司よ」と呼んでいるが、実際に大祭司である必要はない。この重責を担う者への敬意を表したものである。
「彼はmikvehに入り、身を清め、体を乾かす」については、既に述べた。サドカイ派の説を公式に退ける意味がある。
「木材を準備しておく。杉、月桂樹、ツゲ、いちじくの木いずれでもよい」(ibid.)とは、赤い雌牛を燃やすものについて言っている。これらは煙がよく出、灰が良質に保たれるとされる。
「彼らはそれで一種の塔を作り、窓を開け、その前面が西を向くようにする」とは、薪をただ積み上げるのではなく、中が中空の「塔」のような形に組み上げたことを言う。これは風通しを良くして火力を強める為である。
「西向き」については、オリーブ山から見て西の方角は、神殿の方角である。これについては、すぐ後の箇所で語ることにする。
彼らはparah adumahをいぐさのロープで縛り、薪の上に寝かせる。頭は南側に向け、その顔は西へ向ける。
祭司はその東側に立ち、顔を西へ向ける。彼は右の手でparah adumahを屠り、その血を左手で受ける。
「parah adumah」は「赤い雌牛」を表す。赤い雌牛を縛り、薪の上に寝かせるが、その顔は西の方角へ向ける。神殿の聖所のある方角である。
祭司はそのこちら側、つまり東側に立ち、やはり顔は西に向けている。そこで赤い雌牛を屠り、その血を左手で直接受ける。次である。
彼は自分の指を血に浸し、至聖所の方角へ向かって7回振りまく。1回毎に指を浸すものとする。
振りまくのが終わったら、彼はparah adumahの体で血を拭き取る。
彼は薪の山を降り、幹に火を点ける。
祭司は左で受けた血に右の指を浸し、「至聖所の方角へ向かって7回振りまく。1回毎に指を浸すものとする。」(ibid.)
その後も律法本文そのままである。「振りまくのが終わったら、彼はparah adumahの体で血を拭き取る。彼は薪の山を降り、幹に火を点ける。」(ibid.)ここから赤い雌牛が燃やされることになる。次である。
雌牛の切開と三つの象徴物
Parah adumahは引き裂かれ、祭司は穴の外に立ち、杉やeizouの茎、赤い羊毛を手に取る。彼は彼らに向かって言う、「これが杉である、これが杉である。これがeizovである、これがeizovである。これが赤い羊毛である、これが赤い羊毛である」、それぞれについて3回唱える。彼らは彼に言った、「そうである、そうである」、それぞれについて3回である。
まず「Parah adumahは引き裂かれ」の箇所であるが、これは雌牛が火に包まれ始めたところで、祭司がその腹部などを大きく切り開くことを言っている。民数記19章には「祭司は、杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む」(民19:6)とあり、翻訳では分かりにくいが、ラビたちは雌牛の中で「杉の枝、ヒソプ、緋糸を焼く」と解釈している。
祭司は赤い雌牛を燃やしている場所から少し離れ、以下の3つのものについて、それぞれ3回ずつ列席の者たち(最高法院の長老たちや会衆)と確認する。
杉
eizov(ヒソプ)
緋糸
このように確認するのは、万が一にも別の植物を投げ入れて儀式が無効にならないようにしたものともされる。
なお、杉は高慢を表し、eizov(ヒソプ)は謙遜、緋糸は罪を表すものとされる。これらのものを赤い雌牛と焼き、清めの水の為の灰を作ることになる。
次が最後である。
結び:灰の三分割とイスラエル全土への波及
祭司は杉、eizovを赤い羊毛で縛り、その束をparah adumahの火の中に投じる。・・・(中略)・・・彼らは灰を3つに分ける。1つはcheilに置かれ、1つはオリーブ山に置かれ、1つは警護する者たちに分けられる。
出来上がった灰を3つに分け、以下の3つの場所に置く。
①cheil
大雑把に言うと神殿に保管したことを言う。厳密には神殿の敷地のすぐ外側で、かつsoreg(ソレグ)と呼ばれる壁の内側である。
②オリーブ山
次に新しい赤い雌牛を焼くことになった際、その儀式を担当する祭司を7日間隔離して清める為に使う灰を保管する。
③警護する者たち(mishmarot:ミシュマロット)
mishmarot(ミシュマロット)とは神殿奉仕の当番グループのことを言う。ここでは文字通りには、神殿を警護する者たちの場所に、灰を置いたことになる。
しかし別の説では、これはエルサレムを離れ、イスラエル全土の各地にある「祭司の町」に運ばれたものとされる。
イスラエル各地で死体によって汚れてしまった人々が、わざわざエルサレムまで行かなくても、近くの祭司のもとで「浄めの水」を作ってもらい、清めを受けられるようにする為である。こちらの方が納得はしやすい。
今回の解説は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
