ミシュナ『Oholot』の法理 第9回――口伝律法における「beit hapras」の収穫緩和措置と死体破片の飛散論理
*本稿では、ミシュナ『Oholot(テントの巻)』18章1節〜2節を扱い、死体の破片が混ざった疑いのある土地(beit hapras)におけるぶどう酒用ぶどうの収穫法理を網羅的に解説する。
聖書による禁止命令とラビによる規定の次元の相違を踏まえ、Beit HillelとBeit Shammaiによるアプローチの対比、および植物の引き抜きに伴う儀礼的汚れ(tumah)の飛散リスクについて、専門性を妥協せず徹底的に詳解する。
前回の振り返り
前回はミシュナ『Oholot(オホロット)』17章2節から18章1節に基づき、「beit hapras(ベイト・ハプラス)」の範囲が短縮される条件と、その場所でのぶどう収穫に関する祭儀的規定について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】汚れの範囲(100キュビット)が短縮される条件(17章2節)
原則として、死体の一部を掘り起こした場所から100キュビット(約50メートル)先までが汚れの範囲となるが、以下の場合はその地点で汚れの境界が止まる。
①物理的障壁
耕している最中に「岩」や「囲い(フェンス)」に当たった場合、死体の破片はそれ以上先に飛ばないと見なされる。
②農具の清掃
途中で「鍬(くわ)の土を振り落とした」場合、そこが汚れの終着点と見なされる。
【2】汚れの連続性に関する論争
幾つかの事例について2人のラビの見解が示されている。
①ラビ・エリエゼルの見解
beit haprasから100キュビット耕した後、同じ場所を再び耕した場合、「一つのbeit haprasは別のbeit haprasを作る」とし、隣の列もbeit haprasとして汚れが連鎖的に広がると主張した。
②ラビ・ヨシュアの見解
beit haprasから50キュビットを耕して隣の列に移動した場合、隣の列の50キュビットも汚れたものと見なすと主張した。
他方で100キュビット耕し終えてから隣の列に移っても、新たな汚れの範囲は作られないとした。
このようにラビ・ヨシュアは100キュビット耕せば、鋤の刃に死体の破片は残らないという原則を重視する。
【3】beit haprasにおける作物と「7つの液体」の原則(18章1節)
汚れた土地で育つ作物そのものが汚れるかどうかは、「machushirin(マフシリン)」の原則に従う。
①基本原則
作物は地面に生えている間は汚れない。収穫後も、「7つの液体(露、水、ぶどう酒、油、血、ミルク、蜜)」のいずれかによって湿らせない限り、汚れを受け入れる状態にはならない。
②ぶどう酒用ぶどうの例外
ぶどう酒にするためのぶどうは、収穫時に実から汁(液体)が出るが、これによって「収穫した瞬間に汚れの影響を受ける状態なる」と見なされる。
【4】実際の収穫プロセスと汚れの回避
beit haprasに立ち入る人や道具は、死体の破片に触れる可能性があるので、ラビの規定によって「汚れの父(av hatumah:アヴ・ハトゥマ)」と定められている。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Oholot』の法理 第8回――『Oholot』17章2節〜18章1節におけるbeit haprasの例外規定と、machushirinの原則(7つの液体)に基づく収穫物の祭儀的汚れ(tumah)の境界論理
https://note.com/mishnah/n/n863275e9b818
Beit Hillelによる「beit hapras」でのぶどう収穫法理
今回はその続きである。
beit haprasで作られたぶどう酒用のぶどうをどのように収穫するのかを扱う。まずは「Oholot」18章1節を引用する。
私たちはどのようにbeit haprasのぶどうを収穫するのだろうか?まず、私たちは収穫に用いる全ての人と道具に水を振りまかなくてはならない。私たちはそれを再び行い、それから摘んでbeit haprasから取り出す。他の人々がぶどうを受け取り、圧搾機まで運ぶ。もしこれらの人々があれらに触れるなら、彼らはtameiになる。これはBeit Hillelによる。
ポイントを再確認する。
beit haprasの土地自体は汚れていると見なされるが、そこで作られる作物はtameiではなく、tahorである。
これは上の「前回の振り返り」で確認した通り、作物は大地に付随している間は汚れることがないからである。
収穫して大地から切り離された時、ぶどうから果汁が出る。それがmachushirinの「液体によって湿らされる条件」に該当する。
ここで重要であるのは、「ぶどう酒用のぶどうを収穫した時、実から出る果汁によって、ぶどうは汚れを受容する状態になる」という命題は、ラビの規定によるという事である。
聖書次元では、まだこのぶどうはtahorである。
beit hapras(死体の破片を掘り起こした地点から向こう100キュビットは汚れている)という命題も、ラビの規定による。
従って問題は次のように整理出来る。
①beit haprasはラビの規定による。そこに入る者はav hatumahになる。
この労務者を仮にXとする。
②ぶどう酒用のぶどうは収穫した瞬間、ラビの規定により汚れを受容する状態になる。
③ラビによってav hatumahと見なされるXが、ラビによって汚れを受容すると見なされるぶどう酒用のぶどうを収穫する。
④ぶどう酒用のぶどうを汚さないで、どのように収穫出来るだろうか?
なぜならav hatumahは世俗の道具や食べ物も汚すから。
これを回避する為の方法として、「私たちは収穫に用いる全ての人と道具に水を振りまかなくてはならない。私たちはそれを再び行い、それから摘んでbeit haprasから取り出す。」(上掲Oholot 18:1)と定められている。
順番に解説する。
この「水」とは清めの水のことである。
死体によって汚れた人や道具は7日間の清めの手続きを要する。beit haprasに入って作業する人や道具は、その前にこの清めの手続きをすることが求められる。
その後にbeit haprasに入って収穫するのだから、明らかに不必要な手続きではある。しかしここでぶどう酒用のぶどうの収穫の為の特則、緩和措置を適用するので、その為の準備として、通常は行わない厳格な規定を定めたものである。
「私たちはそれを再び行い」とあるのは、清めの水は3日目と7日目に振りかけることを踏まえている。
「それから摘んでbeit haprasから取り出す」とは、2回の清めの水を受けた者がぶどうを収穫することを言っている。
続いて「他の人々がぶどうを受け取り、圧搾機まで運ぶ」と書かれている。これはbeit haprasの外にいる人が、beit haprasに入れていない道具を使って、ぶどうを圧搾機の場所まで運ぶことを言っている。
「もしこれらの人々があれらに触れるなら、彼らはtameiになる」の「これらの人々」はbeit haprasで収穫した人を指す。
圧搾機の所まで運んだぶどうに彼らが触れるなら、ぶどうは原則通り汚れたものと見なされる。
収穫した人はav hatumahであるからである。
「これはBeit Hillelによる」とあるのは、以上の見解はBeit Hillelによることを示したものである。
以上の回避措置は「より厳格な準備をするのだから、収穫にあたっては緩和措置を認める」意図である。
これが可能であるのは、それがラビが定めた規定に拠るからである。
トーラが禁止しているような事柄であるのなら、このような回避措置は許されない。
Beit Shammaiの原則的アプローチ:汚れない素材による物理的回避
次はBeit Shammaiの見解である。
Beit Shammaiは言う、彼はナツメヤシの植物で覆った鎌を持ち、または鋭い刃で刈り取り、ぶどうを圧搾機のバスケットに入れ、圧搾機へ持って行く。
Beit ShammaiはBeit Hillelの方法を受け入れられないとする。彼らは以下のように収穫するべきと主張する。
①労務者はbeit haprasに入るので、汚れる。彼はぶどうに触ってはならない。
②鎌に汚れを移さないように、柄の部分をナツメヤシで作った素材で包む。
これは汚れを受けないもので柄を包む措置である。
③もしくは刃の部分を石で作った鎌を用いる。
鉄は汚れを受けるが、石は汚れを受けない。
④圧搾機の場所まで運ぶ。
Beit Shammaiは原則に従った方法で、beit haprasに入った者がぶどう酒用のぶどうを汚さない仕方を提示する。
以上でBeit Shammaiの見解についての解説を終えた。
ラビ・ヨセの限定解釈:既設畑と意図的播種の峻別
「Oholot」18章1節の最後には、次のように書かれている。
ラビ・ヨセは言う、「どのような状況でこれらの事が言えるのだろうか?ぶどう畑がbeit haprasになる時である。しかしもし誰かがbeit haprasに種を蒔いたら、市場で売らなくてはならない。」
ラビ・ヨセによると、上記のような方法でのぶどうの収穫は、既に成長している畑で死体の破片が見付かった場合のものである。
もしもbeit haprasであると分かっている土地に種を蒔いたなら、ぶどう酒用のぶどうとして収穫することは出来ないとする。
従ってそのまま食べなくてはならない。「市場で売らなくてはならない」とは、収穫後に圧搾せずに売ることを言っている。
次節に進む。
死体破片の散らばった土地における3つの類型と農業規定
3つのタイプのbeit haprasがある。墓を掘り起こした人がいて、そこにおいて、掟は如何なる樹木を植えてもよいが、種は蒔いてはならない、ただし刈り取るものは除く。もし彼が植物を抜くなら、その畑に積まなくてはならない。それを2つのこし器でこすことになる。これはラビ・メイルの見解である。しかしラビたちは言う、「穀物は2つのこし器、豆類は3つである。藁ともみ殻は焼く。その土地は接触または運搬によってtumahを移すが、ohelによっては移さない。」
冒頭の「3つのタイプのbeit haprasがある」の意味が明確ではないが、おそらく下のことを言っている。
①死体の破片を掘り起こした場合
②死体の破片を掘り起こし、かつそれが散らばったと見なされる場合(本節)
③周辺に墓があることが分かっているが、正確な場所が不明になった場合(Oholot 18:3)
この内、③については次回扱う。
ここでは②の死体の破片を掘り起こし、それが既に散らばったと見なされる場合である。
植物の「引き抜き」と「刈り取り」がもたらす儀礼的汚れ(tumah)の飛散リスク
「如何なる樹木を植えてもよいが、種は蒔いてはならない、ただし刈り取るものは除く」とある。
この「樹木」の範囲については、専門家の間で必ずしも明確ではないので、ここでは立ち入らない。「種は蒔いてはならない、ただし刈り取るものは除く」に焦点を合わせて解説する。
これは死体の破片を掘り起こした場合、引き抜いて収穫するような作物の種は蒔いてはならないことを意味する。
なぜなら作物を引き抜くことによって、死体の破片が飛び散る可能性があるからである。
この点、実の部分を刈り取って収穫するようなものは許容される。土が掘り起こされ、死体の破片が飛び散る恐れが無いからである。
それが「ただし刈り取るものは除く」の意味である。
「もし彼が植物を抜くなら、その畑に積まなくてはならない。それを2つのこし器でこすことになる」とは、引き抜いたら根の部分に死体の破片が付着している可能性があることを踏まえている。
この場合、作物をすぐに畑の外に出してはならない。脱穀した後、2回こし器でこさなくてはならない。
「これはラビ・メイルの見解である」。文字通り、これはラビ・メイルの見解である。
その他のラビたちはこの点で、より細かいプロセスを求めている。
「穀物は2つのこし器、豆類は3つである」とあるのは、豆類のにはより多くの土が付着する見識を踏まえている。
「藁ともみ殻は焼く」とは、これらの部分はbeit haprasから出さないで焼くことを言っている。
穀物と豆類の残渣処理と汚れの伝播経路(maga・masa・ohel)
最後に「その土地は接触または運搬によってtumahを移すが、ohelによっては移さない」とあるが、これはここまで本稿を読んだ読者には説明は要らない。
死体の破片が散らばったと見なされる場合、maga、masaによって汚れを受けるが、ohelによっては汚れを受けないとされる。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Oholot』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n84019ea0b112
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
