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「それは逆ギレです」と苦笑されるイエスの弁論。安息日の掟と、ダビデのパンに隠された本当のルール

 マタイ12章の安息日論争。イエスが展開した「ダビデのパン」の反論は、当時のユダヤ教法理(halachah:ハラハー)に照らせば、実は「逆ギレ」とも言える次元の飛躍を含んでいました。本稿では、安息日に死刑を回避させる「警告」のシステムから、ダビデがパンを食べるために必要だった「射精による不浄」についての確認、そして祭司の決断した特例措置までを解説します。


マタイによる福音書12章における、安息日に落ち穂を拾う場面

 今回は安息日違反に関する箇所を取り上げたいと思う。まずはマタイによる福音書12章の冒頭からである。

 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。

(マタ12:1~4)

 旧約聖書の中では全体に渡って安息日の禁止について扱っている。勿論トーラ(モーセ五書)の中にも幾つかの箇所で命じられているが、出エジプト記31章には次のようにある。

 安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。

(出31:14~15)

 ここでは「安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」とまで言われている。私たちは「このような掟であるのなら、何と簡単に彼らは死刑にしてしまうのだろう」と感じるものである。

 先に進む前に、安息日について詳しい記事を読みたい方は、以下参照して下さい。

◉ 安息日に禁じられた39のmelachah(メラハー):ミシュナ「Shabbat(シャバット)」により解明される、幕屋建設に関わる創造的活動

https://note.com/mishnah/n/n3c7de6af9a9c

 しかし実際に法廷で裁きを宣告する前に、幾つもの段階が存在する。ここではその1つとして、口伝律法ミシュナ「Sanhedrin(サンヘドリン)」5章1節を見てみよう。

(sanhedrinサンヘドリンとは、イスラエルにおける合法的な法廷を指します。ミシュナ「Sanhedrin」という巻は、法廷に関する事項の口伝律法をまとめたものとして伝わっています)

 判事たちは証人に7つの質問をする。7年サイクルの何年目か。何月か。その月の何日か。何曜日か。何時か。どこの場所か。ラビ・ヨセは言う。いつの日か。何時か。どこの場所か。あなたは彼を確かに認めたか。彼に警告したか。偶像崇拝に関しては、彼らは尋ねる。何を拝み、どのように礼拝していたか。

(Sanhedrin 5:1)

「安息日の死刑」と構成要件― 警告(ハトラー)という慈悲


 これは実際に裁判になった場合のことについて言っているが、文中の1つ1つを取り上げることはせず、今のテーマに必要な限り解説する。今回の場合では、安息日に麦の穂を積んでいた弟子たちが被告になる。

 判事たちは証人に質問する。「あなたが見たというその違反は何年のことか、また何月何日か」等、7つのことについて尋ねる。これは死刑に関わる重大な審理であるから、少しでも矛盾ある証言をするならば、被告は放免される。

 少し話はそれるが、次の原則についてよく言われる。もし証人が偽証して被告が死刑を宣告され、それが偽証であると判明するなら、偽証した証人が死刑を受けることになる。しかしこの原則はもう少し繊細であり、細かいところまで理解する必要があるのだが、それは別の回に譲りたいと思う。

 ラビ・ヨセという人が補足した1つの質問事項を見て欲しい。「あなたは彼を確かに認めたか。彼に警告したか」とある。この意味は次の通りである。つまり「今やっていることは死刑に値する重罪であるから、今すぐやめなさい」と警告したかという事である。

 従ってユダヤ教の文脈で述べるなら、マタイによる福音書12章のファリサイ派の人たちは、イエス一行を批判しに来たのではなく、弟子たちが重大な間違いをしていたので、注意したのである。

 ここでイエスが素直に聞き従い、安息日に麦の穂を摘むのをやめるように命じたたなら、問題は解決である。しかし彼は言っている。

 ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。

(マタ12:3~4)

逃亡者ダビデと「ノブ」の聖所 ― 聖別されたパン(lechem hapanim:レヘム・ハパニーム)の正体


 イエスが挙げたダビデに関するエピソードはサムエル記上21章1~7節に書かれている。サムエルに追われ、逃亡生活にあったダビデは当時聖所のあったノブに到着する。この「聖所」とは臨在の幕屋や祭壇を指す。

 この点は少し説明を要する。荒野の放浪時代、臨在の幕屋はシナイ山の麓で初めて立てられ、その後移動に伴って運ばれた。ヨシュアの時代イスラエルがカナンの地に入ってからは、しばらくはギルガルという地に置かれていたが、土地を分配した後はシロに移された。

 このシロに369年間臨在の幕屋はあったのだが、ペリシテ人たちに襲われ、契約の箱を奪われたのである。その次第はサムエル記上4章に書かれている。

 シロが破壊されてからは、聖所である臨在の幕屋はノブに移された。ダビデが逃げてきたのは、このノブである。

 飢えていたダビデの一行は、祭司にパンを与えてくれるように頼む。この時祭司は答えている。

手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。

(サム上21:5)

 この「聖別されたパン」について、ここで詳細に説明出来ないが、簡単に言うと次のようになる。聖所(臨在の幕屋)の中にはテーブルがあり、そこに1週間12個のパンを置くことになっていた。それは安息日に持ち込まれ、次の安息日に持ち出して、祭司たちが食べるのである。代わりに新しい12個のパンが聖所の中に置かれる。

 これは旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)では以下のように書かれている。

 アカシヤ材で机を作りなさい。・・・(中略)・・・この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。

(出25:23~30)

 この「アカシヤ材の机」は聖所の中に置かれている。その上に12個のパンを置くのである。

 あなたは上等の小麦粉を用意し、それぞれ十分の二エファの分量の輪形のパンを十二個焼く。それを一列に六個ずつ二列に並べ、純金の机の上に置いて主の御前に供える。各列に純粋の香料を添える。それはパンのしるしとして燃やして主にささげる。アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。これは永遠の契約である。このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。

(レビ24:5~9)

 ここから次のことが理解できる。

①1個10分の2エファのパンを12個焼く。
②純金の机の上に6個ずつ2列に置く。
③各列に香料を添えて置く。
④安息日ごとに取り替える。
⑤このパンは祭司しか食べることが出来ない。
⑥このパンは「神聖なもの」である。

 ダビデから求められた時、祭司が持っていたパンとは、この12個のパン(lechem hapanim:レヘム・ハパニームという)に他ならない。この点について、サムエル記上には次のように書かれている。

 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。

(サム上21:7)

 つまりダビデがノブに逃げてきたのは安息日であり、ちょうど聖所から古い12個のパンを取り下げたところであったのである。

 上記の通り、このパン(lechem hapanim:レヘム・ハパニーム)は祭司しか食べることが出来ない。しかし律法の遵守は、人の生命が関わる時には踏み越えてよいという原則がある。ダビデ一行は飢えており、食べ物が必要であったので、祭司は聖別されたパンを与える決断をしたと思われる。

 ここで祭司はダビデに対して、「女性に近付いていなこと」を条件としている。聖別されたパンという言い方は、単なる美辞麗句ではない。それは上記引用に「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである」(前掲レビ24:9)とある通りである。

 レビ記の清浄規定 ― 射精による汚れと、パンを食べるための条件
清い状態でないと食べてはならない。射精をした者には一定の清めの手続きが要求される。射精をした者はそのままなら、「汚れた状態」なのである。

 これに関してトーラでは次のように書かれている。

 もし人に、精の漏出があったならば、全身を水に浸して洗う。その人は夕方まで汚れている。その精が付着した衣服や革は水洗いする。それは夕方まで汚れている。精の漏出は男と寝た女にも当てはまる。二人とも身を洗う。二人は夕方まで汚れている。

(レビ15:16~18)

 ここは誤解しやすいが、性行為そのものが汚れになるのではない。男性の射精によって男性本人が汚れ、精液に触れた女性も汚れるのである。この仕方で汚れた場合「二人とも身を洗う。二人は夕方まで汚れている。」つまりmikveh(ミクヴェ)で体を浸さなくてはならない。

 ダビデの事件に戻るが、祭司が彼に質問した趣旨は「本来ならlechem hapanimは祭司しか食べることが出来ない。しかし今あなたたちは餓えの為に命の危機に迫られている。差し上げたいが、聖所のパンは聖別されているので、もしも射精して清めの手続きをしていないなら、差し上げることは出来ない」と心配している事になる。

 これに対して、イエスは次のように言っている。「ダビデもlechem hapanimレヘム・パニームを食べたではないか。なぜわたしたちが麦の穂を摘んではならないのか」。

 そして続けて言っている。

 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。

(マタ12:5)

神殿奉仕の特権と安息日禁止命令の矛盾


 これについても、少し解説を要する。この記事の冒頭に「安息日には仕事をしてはならない」という原則を確認したが、その「してはならない仕事」の中に、「屠ること」や「皮を剥ぐこと」も含まれている。

 これらの作業は一般の家庭で食べる場合だけでなく、神殿で献げ物をする時にも、不可欠な仕事である。いけにえを献げる必要があるからである。

 従ってこの原則が貫かれるなら、安息日に神殿で献げ物は出来ないことになる。しかしトーラには次のように書かれている。

 安息日には、無傷の一歳の羊二匹をささげ、上等の小麦粉十分の二エファにオリーブ油を混ぜて作った穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を添える。安息日ごとにささげるべきこの焼き尽くす献げ物は、日ごとの焼き尽くす献げ物とぶどう酒の献げ物に加えるべきものである。

(民28:9~10)

 明らかに家畜をいけにえとして献げており、屠ること、皮を剥ぐこともしなくてはならない。

 従って、トーラの中では、この点で相容れない律法が並存していることになる。一方は安息日に屠るな、皮を剥ぐなと命令し、他方でいけにえを献げるように命令している。

 これは次のように総合されている。「祭司は命じられている神殿奉仕をするにあたって、安息日の禁止規定を乗り越えることが許されている」と。

(結論の前に・・安息日に関する記事は以下からもご覧になれます)

◉「安息日の癒やし」の真実――ミシュナから読み解く、イエスと律法学者の攻防

https://note.com/mishnah/n/ndb103996ebde

結論:イエスの弁論と「安息日の主」という挑戦

 しかし「神殿にいる祭司が安息日に刈り入れ、収穫する行為をしてよい」とは解釈されていない。ユダヤ教の観点から言うなら、イエスの発言「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」という反論は、逆ギレ次元の無茶な論理である。

 しかし教会の信仰に拠るなら、イエスは神殿よりも偉大な者であり、「安息日の主」ということになるだろう。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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