ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第3回:胎児・四肢の聖性伝播論争と「temuraはtemuraを生まない」というhalachah(ハラハー)
*本稿では、口伝律法ミシュナ第5部『Kodashim(聖物)』の『Temura(テムラー)』1章3節および5節の厳密な法理を解明する。レビ記27章における「家畜(behemah)」の定義を巡り、胎児や動物の体の一部(四肢)が交換(temura)の対象となり得るかという多数派とラビ・ヨセの論争、そして「temuraはtemuraを作らない」および「献げ物の子」の聖性伝播に関するハラハー(法的結論)について、伝統的註釈に基づき手加減なしに詳解する。
前回の振り返り:異種・異性・異質間交換と数量論争
前回は、ミシュナ第5部『Kodashim(聖物:コダシーム)』の『Temura(テムラー』第1章2節の法理を解説した。交換における動物の種類・性別・質の要件について、また交換する数量を巡るラビたちの論争について詳解したものである。
主な内容は以下の通りである。
【1】異種・異性・異質間における交換の有効性
レビ記27章10節の「それを他のものと替えてはならない」という規定に基づき、たとえ種類や性質が異なる家畜間であっても、交換を宣言した場合にはtemura(法的な効果)が成立し、両方の家畜が聖別される。
①種類の違い
牛と羊・山羊(tzon:ツォン)の間、また羊と山羊の間での交換も有効である。
②性別・質の格差
雄と雌、あるいは傷のないものと傷のあるものの間での交換も、法的に有効と見なされる。
【2】「悪いものを良いものに」の厳密な定義
律法で禁じられている「悪いものを良いものに替える」という行為について、以下のような詳細な法的解釈がされている。
①聖別後の傷
元々は無傷で聖別されたものの、その後で傷を負った家畜(悪いもの)を、傷のない家畜(良いもの)に替えようとすることを指す。
②無効なケース
最初から傷があった家畜はそもそも聖別できないため、それを対象とした交換宣言は法的に無効となる。
そこで「悪いものを良いものに替える」とは、「元々は無傷で聖別されたものの、その後で傷を負った家畜の代わりに、別の家畜を聖別しようとすること」と解釈される。
この行為はtemuraであり、認められない。
【3】交換する「数量」を巡る法理論争
1つの聖別された家畜に対して、何頭の普通の家畜(chullin:フーリン)の交換が成立するかという「数量」の解釈において、見解が分かれている。
①多数派の見解(複数代替の容認)
1頭(1匹)に対して2頭、あるいは100頭であっても、またその逆(複数対1)であってもtemuraは成立すると考える。
根拠として、レビ記27章10節の「家畜」という単数形の表記は、ヨナ書4章11節の表現(behemah rabah)と同様に、言語学的に「複数」を包含すると解釈出来るから。
②ラビ・シモンの見解(1対1限定論)
交換は「1つのいけにえに対して1つの家畜」の1対1に限られると主張する。
根拠として、同じくレビ記27章10節において、代名詞(「それ」など)がすべて単数形で一貫して書かれていることを重視し、字義通りの単数として解釈すべきであるとしている。
以上の内容に不安を感じる方は、以下リンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Temura(テムラー)』の法理 第2回:『Temura』 1章2節における家畜の異種間・複数代替の法理
https://note.com/mishnah/n/nacf37cdc07c8
ミシュナ『Temura』1章3節:胎児および体の一部(四肢)における交換の不成立性
今回はその続きである。口伝律法ミシュナ「Temura」1章3節を引用する。
私たちは聖別された胎児の為に、体の一部を、聖別された体の一部の為に胎児を、聖別されたいけにえの為に体の一部や胎児を、それらの為に動物のいけにえをtemura出来ない。
箇条書きで順番に解説する。
①「聖別された胎児の為に、体の一部をtemura出来ない」
動物の子どもが生まれる前に、聖別することは可能である。ここでは聖別した胎児の代わりに、世俗の家畜の体の一部をtemuraしようとした場合である。結論としてtemura出来ない。
代わりにしようとした体の一部は聖別されない。
逆に聖別された体の一部の為に、世俗の家畜の胎児を代わりにしようとしても、胎児にtemura出来ない。
②「聖別された体の一部の為に、胎児をtemura出来ない」
すぐ上の①で述べた通りである。聖別された体の一部の為に胎児を代わりにしようとしても、胎児は聖別されない。
③「聖別されたいけにえの為に、体の一部や胎児をtemura出来ない」
胎児や体の一部の間だけでなく、献げ物の資格のあるいけにえの代わりに、体の一部や胎児をtemuraすることも出来ない。
④「聖別された胎児や体の一部の為に、動物1頭(1匹)をtemura出来ない」
すぐ上の③の逆の場合である。聖別された胎児や体の一部の代わりとして、動物1匹全体をtemuraしようとしても無効である。
以上の①~④によって、胎児や体の一部はtemuraに関わることが出来ないことが示されている。その理由はレビ記27章10節に根拠があるとされている。
もし、その家畜を他の家畜と替えるならば、それも、替えたものも、聖なるものとなる。
この箇所の「家畜」はヘブライ語の「behemah」であるが、牛や羊、山羊、ロバなどを指す。胎児や体の一部はその概念に含まれない。
従って胎児や体の一部はtemuraに関わることがないと解釈されている。
続きは次のように書かれている。
ラビ・ヨセの聖性伝播論:レビ記27章9節「未完了形」解釈による全体聖別
ラビ・ヨセは言う、「聖別されたいけにえの為に体の一部をtemura出来るが、体の一部為に動物のいけにえをtemura出来ない」。ラビ・ヨセは言った、「しかしもし誰かが『この動物の足が焼き尽くす献げ物になるように』と言うなら、その全体が焼き尽くす献げ物として聖別されるように、『聖別されたいけにえの為に足が代わりになるように』と言うなら、全体がtemuraになるのではないか ?」
ラビ・ヨセは聖別されたいけにえの為に、体の一部のtemuraは成立すると主張する。その理由は後半の「この動物の足が焼き尽くす献げ物になる」という彼の言葉に示されている。
ラビ・ヨセによると、もしも動物の体の一部を聖別するなら、動物全体が聖別される。その根拠はトーラから取られている。
もし、主への献げ物として家畜を携える場合、主にささげるものはすべて、聖なるものとなる。
日本語の翻訳では「聖なるものとなる」と現在形で書かれているが、原文では未完了形であり、英語では「shall be holy(聖なるものとしなくてはならない)」と訳される。
ラビ・ヨセはここから、「体の一部を聖別するなら、その動物全体が聖別される」と解釈する。
そこで「聖別されたいけにえの為に体の一部を代わりにしようとする」ことは、事実上「聖別されたいけにえの為に、他の動物を代わりにしようとする」ことに他ならない。
以上の論理で、ラビ・ヨセは「聖別されたいけにえの為に体の一部をtemura出来る」と主張している。ただし彼においても、逆は成立しない。つまり体の一部だけ聖別されているなら、それから他のものをtemuraすることは出来ない。
次に「Temura」1章5節に進む。次のように書かれている。
ミシュナ『Temura』1章5節:terumahの重複不可と「temuraはtemuraを生まない」という原則
terumahの後にterumahはなく、temuraはtemuraを作らない。献げ物の子はtemuraを作らない。
まず「terumahの後にterumahはない」についてだが、作物が共有されている状況が前提とされている。ここでは農夫Aと農夫Bとしておこう。
農夫Aが作物からterumahを取り分けたなら、その後農夫Bが取り分けた分は無効である。ただし農夫Aが十分なterumahを取り分けていなかった場合、不十分な分量について、農夫Bのterumahは有効となる。
つまり「terumahの後にterumahはない」ことになる。
次に「temuraはtemuraを作らない」であるが、ここでは動物A、動物B、動物Cとしよう。
所有者は動物Aをいけにえとして聖別した。このいけにえの代わりに動物Bを使おうとした。動物Bはtemuraとして聖別されることになる。
今度は「temuraによって聖別された動物B」をベースにして、さらに別の動物Cを身代わりにしようとしても、それは無効になる。
つまり「temuraはtemuraを作らない」ことになる。その根拠はレビ記27章10節から取られている。
もし、その家畜を他の家畜と替えるならば、それも、替えたものも、聖なるものとなる。
この内「それも、替えたものも、聖なるものとなる」の部分が、「いけにえの聖性によって他の動物においてtemuraが成立する」ことが示されていると解されている。言い換えると、temuraから更に他の動物へ聖性を移すことは出来ない。
次の「献げ物の子はtemuraを作らない」についだが、いけにえとして聖別されたものの子は、母親と同じ程度に聖別されている。この「子供」をベースにして、temuraは成立しないという事である。
その根拠は「temuraはtemuraを作らない」の箇所と同様であり、レビ記27章10節から取られている。
母親をベースにしてtemuraは成立するが、母親が聖別されたことによって聖別される子供から、temuraは成立しないという事である。
続きには次のように書かれている。
ラビ・ユダは言う、「献げ物の子はterumahを作る。」彼らはラビ・ユダに言った、「聖別されたものはtemuraを作るが、献げ物の子やtemuraはtemuraを作らない。」
ラビ・ユダは「temuraはtemuraを作らない」ことに同意するが、「いけにえの子はterumahを作る」と主張する。
次の「彼ら」とはラビたちのことであるが、彼らは上記の「temuraはtemuraを作らない」、「献げ物の子はtemuraを作らない」原則を主張し、ラビ・ユダと対立する。
halachah(ハラハー:ハラーハーとも表記される)はラビたちの見解である。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Temura』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n6974756a85bf
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
