Yom Kippur(ヨム・キップール:贖罪日)の法理と構造 11回目:アザゼルの雄山羊における按手・告白の法理と、安息日の道のりに基づく中継所設置の構造――ミシュナ「Yoma」6章2節~5節
*本稿は「ヨム・キップール(Yom Kippur:贖罪日)」の祭儀構造を、旧約聖書(トーラ)レビ記16章と、その実効的解釈を規定する口伝律法ミシュナ「yoma(ヨマ)」篇の原典に基づき解明するシリーズである。
今回は最重要儀式の一つ「アザゼルの雄山羊」の祭儀構造を精密に解読する。大祭司による按手(semichah:セミハ)と罪の告白の定型、さらにエルサレムから絶壁に至る12ミルの移動行程に設置された「10の中継所」の法理的意味を網羅。安息日の歩行制限という律法上の制約下で、いかにして国家規模の贖罪儀式が完遂されたのか。RashiやRambanの註釈を交え、硬質な原典解釈を展開する。
前回の振り返り:不測の事態における原状回復と聖性保持の総括
前回は以下の内容を確認した。
【1】奉仕順序の厳格性とやり直し規定
ヨム・キップールの奉仕は規定された順序通りに行うことが条件であり、順序を誤るとその部分は無効となる。
例えば、雄山羊の血を雄牛の血より先にまいてしまった場合、正しい順序(雄牛→雄山羊)でやり直さなければならない。
至聖所での奉仕中に血をこぼしてしまった場合は、単に代わりの血を持ってくるだけでなく、「屠殺→香を焚く→血を振る」という一連のプロセスを順番通りに再現して、奉仕の連続性を担保する必要がある。
【2】二匹の雄山羊の選別と死亡時の補充規定
「主のため」と「アザゼルのため」の2匹の雄山羊は、外見(色、体高)や価格が類似していることが望ましいとされる。
どちらかが死んだ場合、状況に従って次のように対応する。
①くじ引き前の死亡
1匹を新たに購入して補充すれば足りる。
②くじ引き後の死亡
すでに個体が聖別されているため、1匹だけの補充は出来ない。新たに1組(2匹)を購入し、くじ引きをやり直す必要がある。
【3】余剰となった聖別個体の法的地位と経済的還流
くじ引きのやり直しによって余った雄山羊(聖別された個体)は、勝手に処分したり世俗の用途に転用したりすることは出来ない。
個人の贖罪の献げ物の場合は餓死させられるが、共同体の献げ物であるヨム・キップールの雄山羊は、餓死させず、傷が生じるまで放牧して養わなくてはならない。
傷を負って祭壇に使えなくなった時点で売却され、その代金は共同体の「焼き尽くす献げ物」の購入費用として神殿の宝物庫に寄付される。
このように、ヨム・キップールの祭儀法理は、不測の事態においても「正しい順序による原状回復」と「聖性保持」、「経済的再利用」を両立させる緻密な構造を持っている。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉Yom Kippur(ヨム・キップール:贖罪日)の法理と構造 10回目:不測の事態における奉仕順序の有効性と共同体献げ物の法的地位――ミシュナ「Yoma」5章7節~6章1節 逐条解説
https://note.com/mishnah/n/n09fd5a65badf
アザゼルの雄山羊への按手(semichah:セミハ)と罪の告白の定型
今回はヨム・キップールの祭儀の流れに戻る。ここまでの流れは以下の通りであった。
⑳雄牛の血を聖所で振りまく。
㉑雄山羊の血を聖所で振りまく。
㉒雄牛の血と雄山羊の血を混ぜる。
㉓混ぜた血を聖所の祭壇に塗り、振りかける。
この後、いよいよアザゼルの雄山羊の祭儀に移る。次のように書かれている。
大祭司はそれからアザゼルの為の雄山羊の所に来て、両手で按手し罪を告白する。「主よ、あなたに求めます。あなたの国、イスラエルの家族は邪に振る舞い、反抗し、あなたの前で罪を犯しました。
按手の仕方は本文の通り両手でする。これは力いっぱい押さなくてはならない。レビ記の本文には次のように書かれている。
アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し
下は告白の続きである。
・・私は祈ります。あなたの御名によって。今邪な行い、反抗、罪をお赦し下さい。というのもあなたの民、イスラエルの家族は邪に振る舞い、反抗し、あなたの前で罪を犯しました。あなたのしもべモーセのトーラに書かれているように:「なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。」(レビ16:30)
ヨム・キップールにおける贖罪の限定性と対神・対人倫理の分離
ここでは、ヨム・キップールにおける罪の赦しについて、若干付言しておく。
その前置きとして、次の箇所を読んで欲しい。
第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。
この箇所はヨム・キップール当日に民は断食し、仕事をしてはならないことを言っている。
個々の民が苦しみ、創造的な仕事をしないことと、大祭司の行う祭儀が結び付き、神が悔い改めを受け入れて下さるという形になる。
従って個々の民がより良く生き、神の赦しに相応しい者になるかどうかは、本人にもかかっている。
逆に言うと、ヨム・キップールの祭儀が行われても、誰かが掟に従わず反抗的であるのなら、その者にも自動的に赦しが与えられるわけではない。
そして、タナハ(旧約聖書)で強調されているのは、赦される罪とは神に対するものという事である。人に対するものはある意味で含まれない。
例えば誰かに怪我を負わせ、あるいは大きな損害を与えても、祭儀が終われば罪に問われないなどということはあり得ない。
加害者は被害者に謝罪し、補償し、償いを果たしながら、神の赦しを求めるべきである。
この点、教会の赦しとは強調点が若干異なる。教会ではまず赦して下さる神がいる。
タナハの場合、律法の遵守、裁き、償いが強調される。しかしこの点はこれ以上立ち入らない。
次節に進む。
祭儀実務者の身分規定:祭司とイスラエルの法的境界
大祭司は雄山羊をアザゼルへ連れて行く者に委ねる。
誰でもそれを連れて行くことが出来るが、大祭司は規則を制定した。イスラエルにその役割を委ねることは出来ない。
最初の一文「大祭司は雄山羊をアザゼルへ連れて行く者に委ねる」について、この委ねられる者はヨム・キップールの前に任命されなくてはならない。
「誰でもそれを連れて行くことが出来る」とは、トーラの次元では祭司でなくてもアザゼルの為の雄山羊を連れて行くことが出来ることを言っている。
しかし「大祭司は規則を制定した。イスラエルにその役割を委ねることは出来ない」とは、この役割は祭司にのみ任せる規定を設けたという事である。
この伝承に異論を挟むラビもいる。
ラビ・ヨセは言った。「アルセラは雄山羊を連れて行った。彼はイスラエルであった。」
ラビ・ヨセは上記の伝承に異論を唱え、以前アルセラという者がアザゼルの雄山羊を連れて行ったことを証言している。アルセラは祭司ではなかったのである。
ここまでの流れについて、レビ記には次のように書かれている。
アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。
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儀式妨害の排除と「高く上げられた道」の建築的意図
彼らはこの為に高く上げられた道を作った。バビロニア人たちがその毛を掴み、言ったからである。「取っていけ!取っていけ!」
ここに書かれている「バビロニア人」は文字通りのものではなく、ユダヤ人に敵対的な人たちを指している。具体的には、アレキサンドリア出身の人たちだったらしい。
彼らはアザゼルの雄山羊を連れている男をからかって、「私たちの罪も持って、荒野へ行け。それをこの辺りに残しておくな」という風に嘲っていたようである。彼らは雄山羊の毛も掴んだ。
その為に道が作られたが、具体的な距離について2つの説が提示されている。しかしどちらも内容があいまいなので、ここでは記述しない。
心無い者たちから妨害されない為のものであったことを確認すれば、取りあえずは足りる。
12ミルの移動行程と10の中継所における距離
エルサレムの高位の者たちが何人か彼と最初の中継所までついて行ったものであった。エルサレムから絶壁まで10の中継所があった。90リス。1ミルは7と2分の1リス。
まず「最初の中継所」について。雄山羊が落とされる所まで、10箇所の休憩所が準備されていた。エルサレムの高官たちは、最初の休憩所まで同行したのである。
ヨム・キップールの祭儀が国家的な行事であったことが窺える。
「90リス。1ミルは7と2分の1リス」については、下のようにまとめることが出来る。
①90リス
これは全行程の総距離である。
②7.5リス = 1ミル
以上により、90リスをミルの単位に換算すると、
90 ÷ 7.5 = 12ミル
全行程は12ミルになる。
1ミル ≒ 約1キロなので、合計で約12キロメートルである。
そして、中継所は10あり、その間の距離は等しい。次の通りになる。
【1】第1の中継所まで
1ミル(1キロ)
【2】第1の中継所から第2の中継所まで
1ミル(1キロ)
(中略)
【10】第9の中継所から第10の中継所まで
1ミル(1キロ)
ここから崖までは、2ミル(2キロ)ある。これで合計12ミルになる。
次節に進む。
安息日の歩行制限と祭儀遂行の法理的整合性
全ての中継所で彼らは彼に言う。「食べ物も飲み物もあります」。そして彼らはその中継所から次の中継所まで同行する。最後の中継所を除いて。
アザゼルの雄山羊を連れる祭司も、ヨム・キップールなので断食中ではある。しかしもし体調の都合が生じたら、彼はこの休憩所で食べることが許される。
それぞれの休憩所で待機している人たちは、次の中継所まで同行する。しかし最後の休憩所の人たちは、アザゼルまで行くことが出来ない。
なぜならそこまで行くだけで、2ミルになる。
安息日に歩いてよい距離は約1ミルであるから、確実に超過する。
この点、各中継所の間隔は上記の通り1ミルであるから、歩いてよい距離なのである。
「アザゼル」という語については、RashiとRambanは「険しい」、「強い」という意味を見ており、岩を指すとしている。ここでは切り立った崖になる。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Yoma』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n7222129b891f
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
