口伝律法『ミシュナ』におけるkeritot(断絶)の法理学的考察(上):36の禁止規定と天の法廷――トーラ(モーセ五書)による刑罰規定、来たるべき世における生命への影響、および祭儀的不備(piggul/notar)という条件
(本記事は、古代イスラエルの律法(モーセ五書および口伝律法ミシュナ)における法的権利と賠償制度を、宗教史・法制史の観点から解説する学術的考察です。一部、当時の法律用語に基づいた表現を含みます)
*旧約聖書の最高権威であるトーラ(モーセ五書)において言及される「民から断たれる(karet)」の真意を、口伝律法ミシュナ『Keritot(ケリトット)』および中世ユダヤ教の権威Rambanの註釈に基づき厳密に定義する。
本稿では、地上の法廷と天の裁きの管轄権の差異を明示し、意図的犯行が魂の継続に及ぼす影響を法理的に解明する。36の断絶項目の内、性的禁忌、偶像崇拝の具体的奉仕、異教の神々に対するavodah、および祭壇奉仕における時間的不備(notar)・意図的不備(piggul)が、いかなる条件でkaretの前提条件を構成するのかを詳説する。
「民から断たれる」ことの定義とRambanの見解
旧約聖書の最高権威であるトーラの中には、時々「民から断たれる」という表現が見られる。幾つかの例を挙げる。
26あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。 27血を食用に供する者はすべて自分が属する民から断たれる。
よく知られているように、血を食べてはならない。この戒めを破る者は「民から断たれる」。
31聖なる聖別の油は、代々にわたってわたしのために使うべきものである。 32一般の人の体に注いだり、同じ割合のものを作ってはならない。それは聖なるものであるから、聖なるものとして扱いなさい。 33類似したものを混ぜ合わせて、一般の人に塗る者は、その民から断たれる。
これは祭司や祭器具を聖別する為の油である。これを勝手に作る者、その他のイスラエルの民に塗るものは「民から断たれる」。
この他にも、多くの箇所で同じ表現が使われている。しかし「民から断たれる」の罰則の内容が如何なるものであるのか、トーラには具体的には書かれていない。
「民から断たれる」という表現は箇所によって若干異なるが、上記レビ記7章27節では「魂は断たれる」という仕方で言われている。そこから推測されるのは、犯した者の身体のみに関わらず、魂にも関わるものという事である。
「民から断たれる」こと自体は一般的にkaret(カレート)と呼ばれる。複数形はkeritot(ケリトット)である。
著名なラビであるRambanは、次の見解を示している。
①禁止された脂肪部分を食べたり血を飲んだりする者は、もし他の部分において正しいなら、60歳以前で死ぬとしても来るべき世における分を失わない。
②もしこの罪に加えて多くの罪まで犯しているのなら、死後の魂にまで影響する。天における生命から切り離されるのである。この種の罪人はむしろこの世において若死にしない。
Rambanによると、食べてはならない脂肪部分(後述)や血を飲む者は、他の部分において正しく生活しているなら、天の法廷から60歳以前という死を受けることになる。
しかしもしも他にも多くの罪を犯しているなら、その者の死後の魂にまで影響する。この場合はむしろ若死にすることなく、死後に最も過酷な罰、つまり復活の命に与れないという報いを受ける。それがこのケースのkaretである。
従って、karetの内容はその人によって異なると言える。
トーラには次の表現も見出される。
聖書法における重複表現「断たれ、断たれるだろう」の重層的解釈
彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う。
「必ず断たれる」は意味を正しく伝えているが、原文の表現は伝わっていない。これは文字通りに訳すと「断たれ、断たれるだろう」と2回「断たれる」ことを言っている。
ここに2重の意味での「断たれる」ことが示唆されているとも解釈される。つまりこの事案(偶像崇拝)の罪を犯すなら、この世でも若死にするし、来るべき世でも分を失うという事である。
ただ、以上の議論は専門家によっても解釈が多少異なるであろうから、この程度にしておく。
導入は以上である。次に如何なる罪がkaretに相当するのかを解説する。口伝律法ミシュナ「Keritot」1章1節から引用する。
ミシュナ『Keritot』1章1節:15の性的禁忌とレビ記20章の刑罰規定の照合
トーラでは36のkeritotが挙げられている。1、母を犯す者、2父の妻を犯す者、3、義理の娘を犯す者、4、男と寝る者、5、獣姦する者、6、獣姦される女、7、女とその娘に近付く者、8、既婚者を犯す者、9、実の姉妹と寝る者、10、父の姉妹と寝る者、11、母の姉妹と寝る者、12、妻の姉妹と寝る者、13、兄弟の妻と寝る者、14、父の兄弟の妻と寝る者、15、月経中の女と寝る者、
ここではまず、karetになる罪は36あると明言する。それが以下に列挙されており、これらの罪を意図的に犯したなら、何らかの意味で「断たれる」ことになる。
しかし注意しなくてはならないのは、karetになるのは、天の法廷によって裁かれるのは、地上において裁かれない場合がほとんどであるという事である。
天の裁定と地上の司法権:証人の警告要件を欠く事案におけるkaretのプロセス
ユダヤ法で刑事罰に関して有罪になるには、基本的に2人の証人によって事前に警告され、それでも犯されるという過程を要する。
ここで列挙されている罪は、もしも有効な証人たちに警告され、それでも犯されたので告発されたという要件が満たされるなら、死刑か鞭打ちになるものが多い。
逆に言うと、この条件を欠いている場合、地上の法廷で有罪宣告にすることは出来ない。この場合に天によって裁かれる、karetになる。
また、karetになるには「意図的に」犯した場合に限られる。不注意で犯してしまった場合は、贖罪の献げ物を献げることになる。これについては次回に扱う。
話を戻すが、上に引用した1番から15番までの多くは、レビ記20章11節~18節で列挙されている。両者を照らし合わせて確認して欲しい。
父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
嫁と寝る者は両者共に必ず死刑に処せられる。この秩序を乱す行為は死罪に当たる。
女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
一人の女とその母とを共にめとる者は、恥ずべきことをしたのであり、三者共に焼き殺される。あなたたちの中に恥ずべきことがあってはならない。
動物と交わった男は必ず死刑に処せられる。その動物も殺さねばならない。
いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
自分の姉妹、すなわち父または母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、女はその兄弟の裸を見るならば、これは恥ずべき行為であり、彼らは民の目の前で断たれる。彼は自分の姉妹を犯した罪を負わねばならない。
生理期間中の女と寝て、これを犯した者は、女の血の源をあらわにし、女は自分の血の源をあらわにしたのであって、両者共に民の中から断たれる。
ここで1つ注意して欲しいのは、「13、兄弟の妻と寝る者」(上掲 Keritot 1:1)である。これには重要な例外があり、もしも兄弟が子供を得られず、妻を残して死んだのなら、残された兄弟がその妻を娶り、家名を存続させるという掟である。
兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
次に16番から19番を確認する。以下の者も意図的ならkaretになる。
16、冒涜する者、17、偶像崇拝者、18、モレク神に自分の子供を捧げる者、19、ovを行う者、
まず「冒涜する者」とは神聖四文字を口にして、神を呪うことである。
偶像崇拝におけるavodah(奉仕)の峻別:四種の樞要奉仕と通常の礼拝行為
17番の「偶像崇拝者」とは、一般的にはあいまいな仕方で使われているが、ここではもっと具体的に規定されており、次の2つの仕方でする礼拝行為を指す。
①如何なる神々であれ、その通常の仕方で礼拝する者
これはその神に対する礼拝として、一般的に行われている仕方で礼拝することを指す。
従って「石を投げつける」というような、普通は軽蔑的な行為でも、それが通常の礼拝行為であるなら偶像崇拝と見なされる。
②神殿におけるavodah(アヴォダー)に相当することを行った場合
神殿における動物のいけにえの奉仕として、次の4つがavodah(アヴォダー)と呼ばれる枢要な奉仕となっている。
【1】shechitah
屠ること。
【2】kabbalah(カバラー)
屠られたいけにえの血を祭器具kli shareit(クリ・シャーレット)で受けること。
【3】holachah(ホラハー)
血を祭壇に運ぶこと。
【4】zerikah(ゼリカー)
血を振りかけること。
これらの奉仕を異教の神々に行った場合、偶像崇拝と見なされる。それは、これらの神々にとって通常の仕方の礼拝行為でなかったとしても、同じである。
「18、モレク神に自分の子供を捧げる者」については、トーラで言及されている。次の通りである。
自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
この行為が禁止される。
死者交信(ov)および脂肪・血の食用制限:祭壇献げ物の不可侵性
「19、ovを行う者」とは死者とコミュニケーションを取る者を言う。レビ記19章に次のように書かれている。
霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。わたしはあなたたちの神、主である。
この「霊媒」が「ovを行う者」である。
次に20番から28番まで確認する。
20、安息日を汚す者、21、汚れているのに聖なるものを食べる者、22、汚れているのに神殿の敷地に入る者、23、脂肪を食べる者、24、血を飲む者、25、残された献げ物の肉、26、piggul 、27、神殿の敷地の外で屠る者、28、神殿の敷地の外で焼く者、
「20、安息日を汚す者」については、既に詳しく解説している。不安な方は下のリンクから確認して欲しい。
◉安息日に禁じられた39のmelachah(メラハー):ミシュナ「Shabbat(シャバット)」により解明される、幕屋建設に関わる創造的活動
https://note.com/mishnah/n/n3c7de6af9a9c
「21、汚れているのに聖なるものを食べる者」についても、ここまで学んでこられた読者の方々には問題ないと思われる。例えば祭司が祭儀的に汚れた状態で、terumahを食べるような行為である。
「22、汚れているのに神殿の敷地に入る者」は趣旨としてはこれと同じである。神殿には聖性があり、汚れた状態のまま入ることは許されない。
「23、脂肪を食べる者」とは、端的に言うと祭壇に献げるいけにえについて、祭壇上で燃やさなくてはならない部位を食べる者である。基本的には肉を覆っている膜のような脂肪であり、引き剥がすことが出来る部分である。
トーラには次のように書かれている。
燃やして主にささげる物の脂肪を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。
「24、血を飲む者」については既に述べた。
祭儀的瑕疵の法理:時間的超過(notar)と祭司の不当意図(piggul)による無効化
「25、残された献げ物の肉」については、献げ物の肉については、献げ物の種類に従っていつまでに食べなくてはならないか決まっている。
屠った後の夜までというものもあるし、次の日の夜までのものもある。これについては、各種の献げ物について取り上げる記事で詳しく述べる。
「25、残された献げ物の肉」とは、この時間を経過したものを指す。これはnotar(ノタール)と呼ばれる。
「26、piggul」についても簡単にのみ述べるが、これは上記のavodahの間に、祭司が本来の意図とは異なる目的を明示し、奉仕した場合のものである。
たとえば、屠る時(shechitah)、それが和解の献げ物であるのに、「焼き尽くす献げ物である」と明示して屠った場合である。その時点で献げ物は無効になる。
それを食べるなら、karetになるという事である。
聖域外屠殺および焼尽の禁止:レビ記17章3節の解釈と空間的制限
「27、神殿の敷地の外で屠る者」については、トーラには次のように書かれている。
イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、 4それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。
文字通りの文章の意味では、いけにえを自分の宿営や宿営の外で屠ることが出来るかのように読めるが、ここでは「いけにえを聖域以外では屠ってはならない」の意味に解されている。
これに違反すると、karetになる。
「28、神殿の敷地の外で焼く者」については、いけにえを臨在の幕屋(神殿)の祭壇以外の所で焼くことである。
今回の解説は以上である。次回は29~36番と、karetに関するそれ以外の項目を扱う。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
