mikvehについて――ミシュナ「Mikvaot(ミクヴァオット)」が規定する祭儀的清めの6等級と論理構造(前編)
*聖書学において「mikveh(ミクヴェ)」の理解は不可欠だが、その実態は驚くほど正しく紹介されていない。本稿では、口伝律法ミシュナ「Mikvaot(ミクヴァオット)」の厳密な記述に基づき、水の分量や性質によって区分される「6つの等級」のうち、第4等級までを徹底解説する。
40セアという水量の根拠から、作物の汚れを左右する「machushirin(マフシリン)」の概念、人の意図が介在した水(sheuvin)について網羅し、2,000年前の「律法の現場」にある論理を白日の下に晒します。
これまで私の記事では何度かmikveh(ミクヴェ)について触れてきた。
しかし記事について必要な限りにとどめておいたので、ここで一端mikvehについてまとめたいと思う。
祭儀的清め(taharah;タハラ)と汚れ(tamei;タメイ)の定義
mikvehとは簡単に言うと、祭儀的に汚れた状態(tamei;タメイ)を清い状態(taharah;タハラ)に戻すための、自然の水を用いた儀式用浴場の事である。
祭儀的な汚れとは、その状態では聖なるものに触れてはならないことを言う。例えば神殿の中に入ってはならないとか、terumah(テルーマー)に触れてはならないとかある。
terumahとは収穫の中から祭司の為に与えられるものである。それは聖性を持っているから、tameiの状態では近付いてはならない。terumahについては以前の記事で詳しく書いているので、自信の無い方は以下のリンクから確認して欲しい。
◉なぜ聖書にない「手洗い」で弟子は責められたのか?――旧約聖書の掟と伝統の絡む迷宮を解き明かす
https://note.com/mishnah/n/nebef2767e821
一言でmikvehと言っても水の分量やその状況によって、清める次元も異なり、全部で6段階ある。本稿ではそれを2回に分けて解説する。
まず、「Mikvaot」1章1節を見てみよう。
mikvehには6つの等級があり、それぞれ他のものよりも高い。1等級は水溜りの水である。もし汚れた人がそれから飲み、tahorの人がそれから飲むなら、彼は汚れる 。もしtameiの人がそれから飲んで、誰かがtahorの器の中に水を組むなら、それは汚れる。もしtameiの人がそれから飲んで、terumahが一切れ落ちるなら、―もし彼がそれを洗うなら、それは汚れる。もし洗わないなら、tahorのままである。
第1等級:水溜りの性質と「汚れ」の伝播
最初にmikvehには6つの等級に分けられることを言っている。ここでは一番低い等級について述べている。本文のtahorとtameiは冒頭でも少し触れたが、それぞれの次のことを言っている。
①tahor(タホル)
祭儀的に清いこと。
②tamei(tamei)
祭儀的に汚れていること。
一番低い等級のmikvehは水溜りである。具体的には雨が降った後に溝や穴に溜まっただけの、「40セア(約600リットル)に満たない、流れていない水」を指す。
この水の性質を一言で言うと、「汚れを移すが、清めることはない」である。
「もし汚れた人がそれから飲み、tahorの人がそれから飲むなら、彼は汚れる」とは、tameiの人がそれから飲み、その後tahorの人がそこから飲むなら、後者も汚れるという事である。
それは道具も同じである。ただし、そのプロセスについて注意しなくてはならない。
後でそこから飲んだ人が汚れるのは、水溜りが汚れたからではない。それは地面の上にあり、そこから上に離さない限り、汚れる状態にはならない。
問題になるのは、汚れた人の口に含んだ水、またはその皮膚に触れた水がtameiになったという事である。彼が水溜りから飲んだ時、否応なしにその水は水溜りの中に落ちる。
この規模の水溜りは清める力を持たないので、汚れた水はそのまま漂うことになる。その為、後の人が触れてtameiになるという流れになる。
この節最後の「tameiの人がそれから飲んで、terumahが一切れ落ちるなら、―もし彼がそれを洗うなら、それは汚れる」について、これは少し異なるテーマが入り込んでおり、難しい。machushirin(マフシリン)と呼ばれるものの問題である。
律法学的考察:マフシリン(machshirin)と所有者の意思
少し話が逸れるが、この後も出てくるので簡単に触れる。まずはトーラ(モーセ五書)から引用する。
種もみが水に浸されていて、その上に死骸が落ちた場合、種もみは汚れる。
収穫した作物は、基本的にそのままでは汚れを受けることはない。所有者の意思で水分に晒した場合に、汚れを受ける状態になる。例えば野菜を収穫し、水で洗ったなら、その時点でその野菜は汚れを受ける状態になるから、扱いに注意しなくてはならない。
これをmachushirinと言う。対象となる液体は水だけではなく、他にも存在する。それは口伝律法ミシュナ「Machushirin」6章4節に挙げられている。
7つの液体がある。露、水、ぶどう酒、オリーブ油、血、ミルク、蜂蜜。
しかし作物がこれらの液体に触れたなら、自動的に汚れを受ける状態になるのではない。基本的に所有者の意思が重要であり、それの介在なしに水気に晒されても、汚れを受ける状態になっていない。
例えば所有者でない者が水気に晒した場合である。そこには依頼されたとか、習慣的に行っていることを代行したとかいう事情が無いならば、所有者の意思は介在しているとは見なされない。
以上の前提で「Mikvaot」1章1節に戻るが、「もしtameiの人がそれから飲んで、terumahが一切れ落ちるなら、―もし彼がそれを洗うなら、それは汚れる。もし洗わないなら、tahorのままである」とある。
tameiの人がそこから飲み、tameiの水が水溜りに漂っている。誰かがterumahを落としたので、洗おうと思い、その水を使うなら、それは汚れる。しかしただ「不意に」落ちて濡れてしまっただけであるなら、汚れることはない。
最初この箇所を見た時は難しいと感じたであろうが、このように見ると簡単明瞭であると思う。以上で最も低い等級の水の基本について説明した。
次にこの1等級の置かれる具体的な状況を扱う。下のように書かれている。
第1等級の具体的判定:季節と場所による変遷
もし遺体がその中に落ちたり、tameiの人がその中を歩いて、tahorの人がそれから水を飲むなら、彼はtahorのままである。
水溜りの水、水槽の水、溝の水、洞窟の中の水、湧き水だが現在出ていない水 、40セアを含んでいないmikvehは皆同様である。
雨季の間、それらは皆tahorであると見なされる。雨が降らなくなると、町や道に近いところのものはtameiであると見なされる。しかし遠くにあるものはtahorと見なされる。多くの人が旅に出るような時まで。
1段落目「もし遺体がその中に落ちたり、tameiの人がその中を歩いて、tahorの人がそれから水を飲むなら、彼はtahorのままである」とあるのは、水溜り自体は地面に付着、付従しており、そこから意図的に離されない限り汚れない原則を言っている。
2段落目のリストは40セア(約600リットル)に満たない、地面に付従した水溜りという括りである。
3段落目「雨季の間、それらは皆tahorであると見なされる」とは、雨季の間は人々が外に出て、それらから水を飲むことがないと考えられるので、1等級の水溜りもtahorとされる。
「雨が降らなくなると、町や道に近いところのものはtameiであると見なされる」とあるのは、雨季が終わると状況が変わったと見なされる点を指摘している。
「しかし遠くにあるものはtahorと見なされる。多くの人が旅に出るような時まで」とあるのは、雨季が終わってから水の貴重さが大きくなるまで、遠くの水溜りはtahorと見なされることを言っている。
以上で1等級の水について解説した。続いて2等級の話に移ろう。
第2等級:湧き水と清める能力の発生
これより高い等級は、湧き水で、湧き続けているものである。もし汚れた人がそれから飲み、tahorの人がそれから飲むなら、彼はtahorのままである。もし汚れた人がそれから飲み、彼がtahorの器に汲むなら、それはtahorのままである。もし汚れた人がそれから飲み、terumahが一切れ落ちるなら、たとえ彼がそれを洗っても、それはtahorのままである。
この節では40セアには満たないが、水が湧き出ている状況について扱っている。1等級と異なるのは、これが清める能力を持っていることである。
従って1等級ではいずれも汚れが発生する事態でも、tahorとされる。
続いて3等級に移る。次のように書かれている。
第3等級:40セアの基準と「全身」の浸し
これより高い等級 は40セアを含んでいるmikvehである。というのも、その中に人は自分を清めることが出来るし、物を清めることも出来る。
40セアは上述の通り約600リットルである。ただし自然の雨水を溜めたものでなくてはならず、流れていてもならない。これよりわずかでも水が足りないなら、人を清めることは出来ない。典拠はトーラから求められている。
もし人に、精の漏出があったならば、全身を水に浸して洗う。
これは清める時には「全身」を浸さなくてはならないことを言っている。平均的な体格の人がすっぽり水に浸かるには、40セアが必要と解釈されている。
道具の全体を浸す為には、明らかに40セアも必要ではない。聖書次元でも全体を浸すことが出来れば、清めることが出来ると解釈される。しかしラビたちは人と同様の基準を定めたものである。
4等級目に移る。次のように書かれている。
第4等級:泉とsheuvin(シェウーヴィン;汲まれた水)の接触
これより高い等級は泉であり、わずかな水で、多くのsheuvinが加えられたものである。これは静止した状態でのみ清めることが出来る点で、mikvehと同じである。また、これは如何なる分量であっても物を清めることが出来る点で、泉と同じである。
まず「sheuvin」についてだが、これは人間の手や道具(容器)を介して運ばれたり、貯められたりした水のことを指す。例えばバケツに汲んだ水である。
人や道具を清めるのは、天から降ったままで溜めた水に限られる。あるいは湧き水である。人の意図が介在した場合、清めの能力は失われる。これがsheuvinと呼ばれる水の性格である。
ここではわずかな量だけ湧き水が出ているが、それにsheuvinが加えられたものである。sheuvinは一端清める力を失ったが、この湧き水に接触することで、再びその能力を取り戻すことを言っている。
「これは如何なる分量であっても物を清めることが出来る」とされる。湧き水にsheuvinが加えられたものに道具を沈め、清めることが出来る。しかし「静止した状態でのみ清めることが出来る」ともされており、それは3等級の水と同じである。
「静止している」というのだから、湧いている量が少なく、sheuvinを加えると流れているのが確認出来ないという事になるだろう。
以上で今回の解説を終わりにする。次回5等級、6等級について扱う。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
次回の記事はこちらからご覧になれます。
◉mikvehについて――ミシュナ「Mikvaot(ミクヴァオット)」が規定する祭儀的清めの6等級と論理構造(後編)
https://note.com/mishnah/n/nc7351f2c06da
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
