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会社員 幸ナシ子の回顧録|第26話 炎天下

「会社を訴えるつもりか!」

電話に出た東条社長は、私が挨拶を始めるより先に怒鳴った。

真夏の公園で、私は携帯電話を耳に当てたまま、ベンチの上で小さくなっていた。

この日、私は突然、最終出勤日を迎えることになった。

だから、お世話になった人たちへ連絡をしていた。

東条社長にも、これまでのお礼を伝えたかった。

最後まで勤めきれなかったことを謝りたかった。

東条社長は、私がこの会社へ入るきっかけを作った人でもあった。

入社時に給与の交渉をしてくれたこともあった。

困った時に助けてもらったこともあった。

そして、私を会社へ紹介してくれた川村さんの元上司でもあった。

だから、最後くらいはきちんと挨拶をしたかった。

けれど、私の挨拶を受け取ってもらえる空気ではなかった。

東条社長は、すでに会社から一通りの話を聞いていたようだった。

「会社都合で退職なんて、会社にペナルティがあるんだぞ!」

会社都合で退職者が出れば、今後の採用や求人に影響が出る。

東条社長は、そういう趣旨のことを言っていたと思う。

細かな言葉までは、もうはっきりとは覚えていない。

ただ、会社都合で辞める私が、会社へ迷惑をかけていると責められていることだけは分かった。

私は、会社から退職を勧められた。

自分から辞めたいと言い出したわけではなかった。

退職日も、最終出勤日も、有給休暇の扱いも、弁護士の文書を出すまでは曖昧なままだった。

それでも、会社都合で退職することによって会社が困るのだと、私が責められていた。

新人を大切にしたいのなら、その前に、今いる社員を大切にすればいい。

心の中では、そう思った。

けれど、口には出せなかった。

東条社長は、さらに川村さんの名前を出した。

「川村だって、どうなるか知らないからな!」

その言葉が、何より怖かった。

私が会社と争おうとしたことで、川村さんの立場まで悪くなるのではないか。

川村さんまで、会社から何かされるのではないか。

そうにおわせる言葉だった。

私を責めるだけではなく、私が大切に思っている人まで持ち出された。

人質に取られたような気持ちだった。

私は、恩を仇で返すつもりなどなかった。

会社へ迷惑をかけるために診断書を書いてもらったわけでも、弁護士へ相談したわけでもなかった。

もう、この先も会社へ通い続けられる状態ではなかった。

自分の心と体を守るために、必要なことをしただけだった。

けれど、その場で説明しても届くとは思えなかった。

私は何度も謝った。

最後まで働けなかったこと。

迷惑をかけたこと。

そして、これまでお世話になったことへのお礼も伝えた。

本当は、お礼を伝えるためにかけた電話だった。

それなのに私は、公園のベンチで、ずっと頭を下げていた。

その日は、とても暑かった。

真夏の昼休み。

私は会社の中で電話をすることが怖くて、外へ出ていた。

以前、社内で仕事の電話をしている時に怒鳴られたことがあった。

それ以来、電話をする時は、なるべく会社の外へ出るようになっていた。

勤務時間中に個人的なことをしていると思われたくなかった。

仕事をさぼっているとも思われたくなかった。

だから、自分の昼休みを使った。

昼ごはんは食べられなかった。

電話は、1時間以上続いた。

相手が怒っていたため、こちらから切ることもできなかった。

休憩時間は、とっくに終わっていた。

早く戻らなければならない。

でも、電話を切れない。

焦りながら、それでも私は謝り続けた。

日差しは、ずっと首の後ろに当たっていた。

ベンチに座り、何度も頭を下げていたからだと思う。

首の後ろが、じりじりと焼けていった。

熱を持ち、やがて痛くなった。

今でもあの電話を思い出すと、首の後ろの熱まで一緒によみがえる。

謝り続けたこと。

頭を下げていたこと。

昼ごはんを食べられなかったこと。

会社へ戻る時間を気にして焦っていたこと。

そして、首の後ろが焼けるように痛かったこと。

私の中では、そのすべてが1つの記憶になっている。

電話の最後に、東条社長から個人の携帯電話番号を教えるように言われた。

教えたくなかった。

もう二度と会いたくないとも思った。

それでも、その場で断ることができなかった。

私は、自分の電話番号を伝えた。

ようやく電話が終わった。

私は会社へ戻った。

休憩時間は終わっていた。

昼ごはんも食べていない。

首の後ろは熱を持ち、痛かった。

それでも自分の席へ戻り、仕事の続きをした。

今日が最後の日だった。

会社から退職を勧められた私は、会社を困らせないように自分の昼休みを使い、1時間以上怒られ続けた。

それでも、定時まで働いた。

今振り返れば、そこまでしなくてもよかったのだと思う。

でも当時の私は、最後まできちんと働かなければならないと思っていた。

私に問題があったから辞めさせられたのだと、これ以上思われたくなかった。

勤務時間中は仕事をする。

挨拶の電話は休憩中にかける。

最後の日まで、社員として間違ったことをしたくなかった。

午後5時半。

私は最後まで仕事をした。

会社を出る時、

「お世話になりました」

と一言だけ伝えた。

誰かが特別に見送ってくれた記憶はない。

会社は、いつも通りだった。

社用車はすでに返していたため、私は駅まで歩いた。

天気は、腹が立つほどよかった。

暑さの残る道を、とぼとぼと歩いた。

つらかった。

悲しかった。

昼間に言われた言葉も、頭の中から離れなかった。

川村さんまで、不利益を受けるのではないか。

そのことが怖かった。

会社を出たあと、私は川村さんへ電話をかけた。

退職することになった経緯を、ほんの少しだけ話した。

二言、三言ほどだったと思う。

長く話すことはしなかった。

私と親しくしていると会社に知られたら、川村さんまで何かされるのではないかと思ったからだ。

私は、自分から距離を取った。

それをきっかけに、川村さんとは疎遠になった。

電車に乗り、家へ帰った。

心は、ずっと重かった。

それでも、ほんの少しだけ、肩の力が抜けるような感覚もあった。

これまでのつらい日々が、ようやく終わった。

もう、あの会社へ出勤しなくていい。

そのことだけが、私を少し軽くした。

けれど、会社との関係が終わったわけではなかった。

東条社長へ教えた個人の電話番号。

会社都合退職への非難。

川村さんの立場への不安。

そして、会社で何があったのかを、このまま終わらせてよいのかという気持ち。

最終出勤日は終わった。

でも、私の中では、何一つ終わっていなかった。

私はこのあと、会社の外にある場所へ相談に行くことになる。


※この物語は実体験をもとにしていますが、個人や団体の特定を防ぐため、登場人物名・社名・時期・一部状況を変更しています。
※記憶だけでなく、当時のメモや書類、録音を見返しながら整理しています。
※内容には職場でのハラスメント、メンタル不調、退職に関する話が含まれます。


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