会社員 幸ナシ子の回顧録|第27話 退職届
7月25日を最後に、私は二度と会社へ行かなかった。
会社を出たとき、つらかったことも、嫌だったことも、全部その日の自分に置いてきたつもりだった。
あの会社へ出勤することは、もうない。
上司の声を聞くこともない。
同じ部屋で、顔色をうかがいながら仕事をすることもない。
これで終わった。
当時の私は、そう思おうとしていた。
けれど、実際には何も終わっていなかった。
会社へ行かなくなったあとも、退職に必要な手続きは残っていた。
残っている有給休暇は何日なのか。
夏季休暇を挟んで、いつまで有給を消化するのか。
在籍するのは、いつまでなのか。
最終出勤日は決まった。
けれど、正式な退職日はまだ決まっていなかった。
会社から、後日メールで連絡をもらうことになっていた。
私は待った。
数日後、橘取締役からメールが届いた。
そのメールには、
【退職届について】
と書かれていた。
続けて、
「下記内容で、退職届の提出をお願いします」
という文章と、いくつかの項目が並んでいた。
当時使っていたメールアドレスは、現在もう使えなくなっている。
そのため、今はメールの全文を確認することができない。
けれど、退職届を提出するよう求められたことは覚えている。
私は、すぐには返信しなかった。
会議室で退職届をメールで送るよう言われたとき、私は、
「わかりました」
とだけ答えていた。
深く質問することはしなかった。
これ以上、何かを言われたくなかった。
余計な会話をして、また自分を傷つけることが怖かった。
必要なことだけを聞き、必要なことだけを答える。
そう決めていた。
でも、退職届を書けと言われたときから、ひとつ気になっていたことがあった。
会社が私に書かせたいのは、
「一身上の都合により退職します」
という退職届なのではないか。
私は、そう感じていた。
けれど、私は自分から辞めたいと言ったわけではなかった。
会社から退職を勧められた。
しかも、強い口調で責められ、辞める方向へ話を進められた。
そのあとも退職日は決めてもらえず、仕事には来るようにされていた。
私は、会社へ行けなくなるほど心身の状態を崩していた。
診断書を書いてもらい、弁護士へ相談し、ようやく最終出勤日が決まった。
それなのに最後だけ、
「一身上の都合」
と書いてしまえば、私が自分の意思で辞めたことになってしまう。
会社に辞めるよう言われたことも。
その後の曖昧な対応も。
私がうつ病になったことも。
全部、私の都合で辞めただけのように処理される。
それだけは嫌だった。
私は、それまで会社に言われるがままだった。
仕事ができないと言われれば、自分が悪いのだと思った。
考え方が悪いと言われれば、直さなければならないと思った。
退職するように言われれば、受け入れるしかないと思った。
でも、会社を離れたことで、少しずつ別の感情が出てきていた。
悔しかった。
このまま、全部を会社の都合のいい形にされるのは嫌だった。
最後まで、されるがままでは終わりたくなかった。
私は、退職届を送らなかった。
ただ、どう書けばいいのかも分からなかった。
退職勧奨によって辞める場合、何と書けばいいのか。
会社都合にしてもらうには、何が必要なのか。
そもそも、退職届は必ず提出しなければならないものなのか。
私には分からないことばかりだった。
インターネットで調べても、状況によって書いてあることが違った。
自己都合退職。
会社都合退職。
退職勧奨。
解雇。
似ているようで、それぞれ違う言葉が並んでいた。
私が受けたものが、どれに当たるのかも分からなかった。
会社は退職を勧めただけだと言うかもしれない。
私はそれを受け入れたのだから、自己都合だと言われるかもしれない。
でも、あの面談で、私に残されていた選択肢は何だったのだろう。
そのまま働き続けられる空気ではなかった。
退職することだけが、先に決められていた。
私は、自分ひとりで判断することをやめた。
分からないなら、外へ聞きに行こうと思った。
知り合いからも、労働基準監督署へ相談したほうがいいと言われていた。
会社の中では、ずっと私が悪いことになっていた。
でも、会社の外ではどうなのか。
退職届には、何と書けばいいのか。
会社都合として扱ってもらうために、私は何をすればいいのか。
私は、会社から届いたメールと、弁護士に作ってもらった文書を持って、相談へ行くことにした。
会社へ行かなくなって、初めて迎えた平日。
私は、最寄りの労働基準監督署へ向かった。
助けてもらえると思っていた。
そこへ行けば、何をすればいいのか教えてもらえると思っていた。
けれど、最初に言われたのは、
「ここではありません」
ということだった。
会社の所在地によって、相談する窓口には管轄がある。
私が行った場所は、会社の管轄ではなかった。
会社を辞めても、私はまだ、会社へたどり着くための道を探していた。
※この物語は実体験をもとにしていますが、個人や団体の特定を防ぐため、登場人物名・社名・時期・一部状況を変更しています。
※記憶だけでなく、当時のメモや書類、録音を見返しながら整理しています。
※内容には職場でのハラスメント、メンタル不調、退職に関する話が含まれます。
