ヘリオス 外伝 第7話
一月の刺すような香りを運んで来る風が、俺は好きだ。川崎流本家からの帰り道、いつも小さな手を繋いでいる手が今日は空いている。一華は友達の家に泊まりに行ってしまった。一華と付き合う前、俺はどうやって時間を使っていたんだろうか。今週末は時間があるのに会えない。
一華は俺と付き合っていて苦しくないんだろうか。一華の性格から考えて、心がない相手が恋人だなんて辛いに決まっている。勝手だよな俺は。ただ今は、どうしようもなく一華に会いたい。
携帯の音で目が覚めた。一華から電話だ。
「一華?」
「優成、帰って来た?」
ゆっくりめの優しい声をきいて安堵する。
「ん、寝てた。一華は友達の家?」
「うん。話し合い終わったかなと思って。優成、写真集受けるの?」
どうして知っているんだ。
「よく知ってるね。井口さんに聞いたの」
「うん。あ、ちょっと待って」
電話口で物音と別の女性の声がする。暫く待っていると、一華とは別の声が話しかけてきた。
「こんにちは」
遠くで一華の焦る声が聞こえる。
「一華の友達ですか、初めまして」
「山田優成君だよね。私、高校時代からの一華の親友の、豊橋真帆。山田君さ、本当に一華の彼氏?一華、全然会わせてくれないから、疑ってたんだけど」
利発そうな声がハキハキと告げる。
「一華は嘘をつくような子じゃないでしょう。俺は紛れもなく一華の恋人です。会いたいならいつでもどうぞ」
「へえー。一華のことよく知ってるんだ。安心した。私、一華のこと大好きなの。大切にしてね」
そこまで言って声が変わった。
「優成、ごめんね」
「別にいいよ。一華、本当に、俺に会わせたい友達がいたら会うから遠慮しないで」
「うん。ありがとう」
一華は何か考えているような声で返事をした。
「それと、井口さんは一華の何」
声が少し低くなってしまったのが分かる。
「……優成、明日行ってもいい?」
「いいけど、泊まりの後じゃ疲れるんじゃない」
「お昼には真帆ちゃんの家を出るから大丈夫。会って話したいから」
一華は2時ごろにやってきた。俺は肩にかかったいつもより大きめの荷物を持って部屋に運ぶ。一華の華奢な肩に触れたとき、心臓が騒いだ。
「真帆ちゃんは鋭いから、優成に会わせると私たちの関係が分かっちゃうと思って。そうなると心配をかけるから、だから会わせなかったの」
熱そうに紅茶をすすりながら言う。目が合うと心臓が大きく動く。指の末端まで体温が急に上がったような感覚になる。
俺は。
「井口さんのことは、後で分かることだろうから言っておくね。私たち、昔つきあっていたの」
聞いた途端、今度は心臓が絞られるように縮んだ。
「それは、いつ頃」
俺は努めて冷静に聞く。
「もうずっと前。私、16歳ごろから読者モデルをしていて、井口さんに出逢ったの。井口さん、あの才能で気配り上手でしょう。だから憧れていて。20歳になった頃、恋人になったの」
「そう」
俺はコーヒーの湖面を見つめた。あの自信満々の男が、一華の隣にいて、一華を抱いていたのか。身体中の血が暴れていて、平静を装うのが困難だ。
「だけど、井口さんその頃とても忙しくて、全然会えなかったの。私、井口さんの仕事に嫉妬して、嫌なことをたくさん言って、それで上手く行かなかった。だから別れたの」
周りは静かで穏やかな休日だ。それなのに心臓が煩わしい。俺はまた自分が矮小化してしまった感覚に陥る。コーヒーを喉に流し込んだ。
「当時は私、めちゃくちゃになったけど、井口さんは大人でしょう。だから変わらず良くしてくれて。私、やめてって、優しくしないでって、思ったし、近くにいたら忘れられないと思ったけど、そういう想いはいつの間にか無くなったの」
「そう」
一華は井口さんを嫌いになった訳じゃない。今でも彼を尊敬している。そのことが俺の癪に障る。どす黒く、醜い想いが心を充満させて、爆発しそうな自分が嫌になる。
「だから、優成が川崎凪さんを想う辛い気持ちも少しは分かるの。私の痛みを時が解決してくれたように、優成もきっと大丈夫になると思うし、気持ちがわかる分、少しでも役に立ちたい」
そうだ、俺はこんなことで一華に腹を立てられる立場じゃない。
「優成、大好き。心が痛くなって、滅茶苦茶になるくらい好きで、笑っていて欲しくて、そばにいたい」
俺を見つめた顔を見て、また心臓が大きく動く。俺の想いは、きっとそういうことなんだろう。だけどこれが、万が一勘違いだったらいけない。一華には軽薄な態度を取りたくない。もう少し、確かめさせて欲しい。俺は一華にゆっくり、長いキスをした。身体が熱くて、何故だか涙が出そうになる。
「井口さんは、一華をまだ好きなんじゃないの」
「まさか、井口さん妻子持ちだよ。奥さんと一緒にいるところを見ると分かるけど、文字通りね、デレっとしてるの。私にも今でも良くしてくれるのは、元から面倒見が良いのと、妹みたいなんだと思う」
一華が20歳の頃の恋人。その頃の一華も、可愛かっただろうな。一華の初めても、あの人が奪ったんだろうか。
平日の夜の時間帯に、川崎家に寄った。外は弱いのに、皮膚が切れてしまいそうな冷たい風が吹いている。この時間、凪先生は稽古が終わり演奏をしていることが多い。到着次第凪先生の稽古場まで行くと、やはりそこでギャラリーを前に箏を弾いていた。
「山田君じゃん、久しぶり」
菅野さんが話しかけて来た。他のギャラリーも俺に気づいて、手を振って来る。
「優成、こんな時間にどうした」
昴が俺の隣に寄る。俺が凪先生の弟子だった頃、稽古していた時間帯だ。かつての仲間がそこには揃っている。
「ちょっと確かめたい事があって」
「確かめたい事?」
昴の怪訝な顔に頷いただけで言葉は返さず、俺は凪先生の演奏に聴き入った。凪先生の、澄んだ海のような、この神々しいまでの演奏が好きだ。
俺は長い間この人を見て来た。この人だけを、時に幸せに、時に悲痛な想いを抱えて。この、深い海のような演奏が、今でも確かに俺を満たして、俺の全てを揺さぶる。
演奏が終わって拍手が止むと、昴が大声で言う。
「先生、暇人の優成が来てます」
そこで凪先生は俺に気づいて、微笑んで言った。
「あれ本当だ。優成くんどうしたの」
いつもの凪先生だった。綺麗で可愛く、手を伸ばしても届かない高みにいて、無茶だと思うほどの努力をする人で、何とか力になりたいと思わせる、大事な人。
それでも、今までとは違うことに、俺は気づいた。
大切なことに変わりはない。この人のために芸をもって尽くしたいと思うことに変わりはない。
だけど俺の心臓は、もう凪先生を見て動かない。
「確かめたい事があって寄りましたが、気がつきました。もう大丈夫です」
俺は笑って返事をした。
「確かめたいこと?何だかよく分からないけど、嬉しそうだね優成くん」
「お陰様で」
帰って伝えなければ。一刻も早くこの想いを、一華に。
「あ、おい、もう帰るのか優成」
昴が怪訝な顔をして俺を呼ぶ。
「昴、また今度」
返事もそこそこに廊下に出ると、川崎さんが切羽詰まった顔をしてやって来た。
「山田君、来ていたのか。ちょうど良い。凪はいるか」
立ち止まりもせずそう言いながら大股で稽古場に向かい、凪先生を呼ぶ。
「凪、すまない緊急事態だ。帰りが遅くなって対応が遅れた。山田君も、悪いが事務室に来てくれ」
俺は大事な用があると言いたかったが、川崎さんの表情が只事ではなかったので話を聞くことにした。
「一体どうしたの、晃輝さん」
三人で事務室に入ると、家元が俯き加減に眉を寄せ、革張りのソファーに座っていた。
「2人ともこれを見て欲しい」
パソコンの画面を見て、心臓が大きく鳴る。
「酷い、何これ」
凪先生が呟く。雑誌のような2ページを表示したカラーの画面中央に俺のennuiの広告の写真、左に一華の、右に凪先生の写真が写っている。上部に美しさの欠片も無い、下品な大きさのフォントで書かれた文面に、俺は言葉を失った。
「スクープ!
箏会のプリンス 禁断の二股発覚!」
「プリントアウトしたのがこれだ。読んでみてくれ」
川崎さんから凪先生と同じものを渡されたそれは4ページほどあり、3〜4ページ目にも写真があった。3ページの右上に、俺が凪先生を舞台袖で抱きしめている写真。左下に、川沿いを俺が一華と手を繋いで散歩している写真。4ページ目には凪先生と川崎さんのツーショットが載っている。
「これは明後日発売の、週刊現状に出る予定の記事だ」
内容はこうだ。俺と凪先生は熱愛中で、それは川崎流の中では暗黙の了解である。だが俺は一華とのデートもたびたび目撃されており、どうやら二股をかけている。川崎流のプリンスは、とんでもないプレイボーイだ、ということだ。
門下生のインタビューも出ている。
「次代家元と山田さんが愛し合っているのは、門下生にとっては以前より噂されていました。いつも熱い目で見つめ合っていますし、どんな時でも一緒に行動しています。給湯室でキスしているところも何人もの門下生が目撃しています。
山田さんが次代との師弟関係を解消したのも、恋仲を隠すためでしょう。次代家元は最近結婚しましたが、お相手とはお見合い結婚のようですし、恋人関係を隠すために誂えられたお飾りの夫なんじゃないでしょうか」
続きはこちら。
前回のお話はこちら。
本編第1話はこちら。
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