【創作】アダージョ 第1話
「この曲はアダージョだから、もっとゆっくり。急ぎたくなっても、恋するように。焦らずに弾くんだ」
バイオリンの練習曲をさらった私に、レッスン室でお父さんが言った。西日が部屋全体を優しい雰囲気に見せている。
「恋した時は、ゆっくりがいいの?」
恋人の絶えない奏真なら、何て言うだろう。
「人によるな。ゆっくりで駄目な場合も、速くて上手く行かない場合もある。こればかりは人によるから、正解はない」
お父さんは恋の話を厭わない。自分の娘である私にも、嫌がらずに丁寧に説明してくれる。
「お父さんはお母さんと恋したとき、アダージョだったの?」
そう聞くと苦笑して少し間を置いた。
「俺にとっては、アダージョというより、レントだった。そう、ラルゴよりも、レント。何年も気長に、忍耐強くね。だが、お母さんにとってはアレグロ、いや、プレストだったかもしれないな」
「どうして?」
「お父さんが、もう待てなかったんだ。他の男に取られるのも心配だったし、いつも側にいて守りたかった」
お父さんは一体、どんな過去を想ってるんだろう。私の知らない大人の世界に、心を馳せている。
「アマービレ?」
「よく覚えたね。アマービレは、例えば親が子どもに持つ愛情だ。俺が翠や杏や旭を想うような。お父さんのお母さんへの気持ちは、アモローソ」
「アモローソ。アモローソは、消えないの?」
「それも人による。すぐに消えてしまう場合も、長く続く場合もある」
「お父さんは?」
「お母さんには、アモローソだ。あんなに魅力的な女性は、他にいないだろう?」
お父さんがお母さんのことを話すとき、サーティワンのチョコミントの一口目を口に含んだ時のような顔をする。私は子どもの頃から、この顔を見ると不思議な気分になった。未経験で不可解だけど、その未知の領域に一刻も早く辿り着きたい気分。私や妹や弟に向けるのとは違う、男の人らしい顔。私もいつか、あの色素の薄い想い人に、こういう顔をさせることが出来るんだろうか。
「私も、そんな恋が出来るのかな」
「そんなに焦って大人にならなくてもいい、翠。さみしいじゃないか。成長だってアダージョだ」
髪が膨らんで上手くまとまらない雨の日だった。朝登校して自分の教室に入ろうとしたら、いつもと違ってザワザワとした声やギーギーと何かを引きずる音がする。廊下を進んで真ん中にある、M1C、つまり、中学1年C組の教室。入ってみると、何人かが集まって私の机を移動させようとしていた。
「おはよう。どうしたの?」
皆はギクリとして固まった。
「翠ちゃん!あ、あのね、朝来たら翠ちゃんの机に落書きがしてあったから、それで、翠ちゃんショックだろうと思って、綺麗なのと交換しようとしてたの」
心臓がドクンとして、演奏会の前のように手に汗をかきはじめた。
「え?落書き?」
「見ない方がいいよ、川崎さん」
男子がそう言ってくれたけど、チラリと目に入ってしまったそれは、大きく書かれていたからすぐに読めてしまった。
川崎すいはインランだ!
「何これ......」
「ひでぇな。気にすんなよ」
「翠ちゃん!」
気のいい女の子たちが、泣きそうになっている。
「あの、さ」
何と言っていいか分からないまま思わず教壇の方を見たら、これまた大袈裟なほど大きな文字で、同じ文面が黒板にも書かれてあった。あまり綺麗じゃない、丸文字のような癖のある字。
秀才タイプの田中くんがやって来て、ズレた眼鏡を鼻の始まる位置で直しながら言った。
「川崎さん、黒板のは消そうと思ったけど、大事な状況証拠だ。今、片岡が先生を呼びに行ってくれてるから、辛いだろうけど我慢してくれ」
「うん、大丈夫。ありがとう。田中くん、警察官みたい」
「それは褒め言葉として取っておこう」
田中くんの真面目さに、かえってほっとした気分になる。
「川崎さん、大丈夫?ちょっと座りなよ」
「本当に、気にしないでね、翠ちゃん」
優しいクラスメイトが心配して声をかけてくれる。このクラスはほんわかとしていて雰囲気が良い。私は逆に、騒がせてしまったことを申し訳なく思った。
「ありがとう。あの、ね、私、聞きたいことがあるんだけど」
みんなの真剣な顔が、私に一斉に向く。
「うん」
「何?」
「あのね......インランって何?」
「分かんないよね。私も分かんない」
「俺も知らない。田中、お前頭いいから、何か知ってる?」
「うーん、それはだな」
田中くんは考える仕草をして、思いついたように言った。
「インラン、インラン、イン......ラン......そうだ!前に授業で、昔の中国の殷について習っただろ?そこの戦乱のことだ!」
「じゃあ川崎さんが、殷の時代の戦士だってことかよ」
「......違うか、やっぱり」
「......ちょっと調べてみるか」
1人の子がタブレットを出そうとした時、サッカー部で足の速い片岡くんに引っ張られて、先生がぜえぜえとやって来た。担任のジェニファー先生は英語担当で、明らかに日本人なのにジェニファーと呼ぶことを強要している。
「忙しい朝から、何ですか一体」
ジェニファー先生は甲高い声で尋ねた。
「先生!」
そこで皆で示し合わせたように質問した。それは思いのほか大きな声で、教室中に響き渡った。
「インランて何ですか!?」
ジェニファー先生は慌てたような怒ったような様子で叫んだ。
「分かりません!これはhomework!おうちの人に聞いて来なさい!」
「先生、宿題にしなくても、今ここで調べればいいんじゃないの」
「Noncence!いいですか、宿題ですよ、宿題!調べたらいけません。おうちの人に!聞いてきなさい!」
金切り声で話す先生の剣幕があまりに激しかったので、皆は、タブレットの連絡アプリに「宿題。インランの意味を聞いてくる」と打つことになった。
その日は校長先生まで来て現場検証し、ホームルームでは犯人探しが始まったけど、このクラスの人じゃないかもしれない、という話が濃厚になった。
「川崎さん、私の趣味は筆跡鑑定ですのよ!クラス全員の筆跡を調べてあげますわ。このクラスにいなかったら、別のクラスに犯人がいるということになりますわね」
ジェニファー先生は暇なのか、帰りのホームルームの時までに全員の筆跡を本当に調べたらしい。結果、このクラスは100%シロだと熱弁をふるい、校長先生にも連絡したようだ。
ややこしいことになった。インランが何だかわからない。怪獣かな、幽霊の類かな。犯人が見つからないのも怖い。その日はビクビクしながら家に帰った。
夕食の席に家族皆が着いた頃、宿題について聞こうと、話を始めた。
「お父さん、お母さん」
「どうした?翠」
お父さんはお気に入りのオッタクリンガーというビールをグラスについで、上機嫌だ。
「あのね、今日、宿題が出たんだけど」
「うん?」
私はジェニファー先生の金切り声を思い出して、恐ろしい気持ちになる。
「インランて何?」
途端にお父さんが、口に含んだばかりのそのオーストリアのビールをブーっと吹き出した。
「きったな!やめてよお父さん!」
「わー、お父さん、たのしそう!おれもやりたい!」
妹の杏が怒り、弟の旭はゲラゲラ笑っている。
「翠、どうしてそんなこと聞くの」
お母さんが怪訝な顔をして聞いた。
「先生が宿題だから親に聞いてって」
「そいつはどんな教師だ‼︎」
飛び散ったビールを拭いていたお父さんが、席を立って怒り出した。
「先生に聞いたら分かりません、って」
「インランっていうのはね、お姉ちゃん。エッチなことが大好きな人のことだよ」
「杏はなんでそんなことを知ってるんだ!まだ小学生だろう!」
お父さんの怒りは止まらない。
「え、じゃあ、私、ヘンタイってこと?」
「......どういうこと?」
お父さんとお母さんが急に真面目な顔になって私を見つめる。そこで私は今日あったことの詳細を話す羽目になった。2人には心配かけたくなかったんだけど。
お父さんが次の日、怒り狂って校長室に喧嘩を売りに行ったのは言うまでもない。お父さんの校長先生を東京湾に沈めそうな勢いと、ジェニファー先生の執拗な筆跡鑑定の結果、犯人は奏真の1学年上の恋人と、その友人だと判明した。
やっぱりな。
山田奏真。
私の赤ちゃんの頃からの幼馴染で、同じ学校に通う同い年。私のお箏の先生である優先生の長男だ。小さい頃からお箏を川崎流で習っている仲間。
奏真は見た目について、父親である優先生の整った外見はそのままに、色味が母親である一華ちゃん譲りの淡い茶色の髪と瞳、白い肌をしていた。
だから、奏真には女の子がいつだって群がっていて、中学生になってすぐ、彼女まで出来た。私は奏真と仲が良いことで、しなくても良いはずのいろんな、嫌な経験をさせてもらっていた。
もうね、私の心はズタズタよ。
続きはこちら。
※この話は小説「ヘリオス」のスピンオフです。
ヘリオスはこちら。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます!頂いたサポートは美しい日本語啓蒙活動の原動力(くまか薔薇か落雁)に使うかも?しれません。