2025/05/25(日):無知(良)
少し前に、「鑑賞の条件」という記事を書いた。
要約すると、僕は、自分で創作した経験がない分野についてはよくわからず、(大雑把に言えば)あまり楽しめないという内容だった。これについて自分の中で前進があったので、今日はそれがテーマだ。
一旦音楽の話をしよう。
古典的なクラシック音楽では、綺麗な和音と端正なリズムが美とされた。美しい比率や、自然数がその根本にはある。ジャズはその美への追従と逸脱のバランスが鍵で、追従すれば自ずとクラシカルな音に、逸脱すれば挑戦的になる。これは現代的な視点=相対主義偏重な視点からすれば既に当たり前に思えるが、古典では数的な美の追従こそが絶対的な善とする流れが優勢だった。これは西洋哲学史ともざっくり重なる話だと思う。
ここまで話しておいてなんだが、これは、要は”知っている人”向けの話だ。つまり一般的には細かい。取るに足らない。音楽的な素養が特にない場合、そもそも”どうでもいい話”なのである。そんなことより、直感的な感覚≒楽曲のアレンジ=どんな音色が鳴っているか/組み合わされているか、であったり、音程よりもリズムの方が、第一印象としてバーンとアクティブに受容される。
それでいいんじゃないか?これが今日のテーマだ。
僕が最も好きなジャズミュージシャンはブラッド・メルドーだ。
丁度今日、ブラッド・メルドーについてのエッセイを友人のサイトにアップしてもらった。ぜひ読んでほしい。
読んでほしいのだが、ここでは少し否定的なニュアンスで彼を捉えることになる。
彼はいわゆる"Musician's Musician"だ。ミュージシャンから好かれる/尊敬されるミュージシャン。彼が望んだわけではないが、結果的にそうなっている節がある。彼が非常に革新的であることは間違いないが、例えばビル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスのように、ジャズ愛好家でない人たちにも広く受け入れられているアーティストたちと並列できるとは言い難い。
その理由は簡単だ。ブラッド・メルドーの象徴である即興演奏の革新性/前衛性は、ある程度西洋的な十二音を用いた即興演奏、もしくは多少なりともリズムについて専門的に取り組んだことのある人しかわからない側面が多分にあるからだ。
(当然この主張ではカバーしきれない側面が彼にあることは言及しておく)
ここから冒頭の話に繋がるのだが、僕の芸術の楽しみ方とはまさに「わかる人にはわかる」的である、ということだ。当然これは否定的なニュアンスだ。構造分析を楽しみとするのは、知識偏重なオタク、海外風に言えば"Snob"の特徴である。そして私はそうであるということだ。
松本人志の笑いにもこういう側面があると僕は睨んでいる。また、彼が世間を騒がせる前からまことしやかに巷=X(旧Twitter)で囁かれていたことでもある。ちなみに僕は松本人志のお笑いが大好きだ。極端に言えばコミュニケーションを切断するような笑い。自分のスキルを見せつけるような笑い。要は、良いもの=スキルがすごいもの、と捉えてしまうわけだ。自分には簡単にできないことをクールな顔で淡々と実行する様にヒーロー性を感じてしまう。(深掘りするなら成長期の環境に話を進めるべきだが、まあなんとなく想像はつくと思う。)
これは端的に、問題である。冷静になって状況を俯瞰すれば、楽しみの幅を狭めているに過ぎないことが一目でわかる。知識やスキル前提の芸術しか楽しめなくなってしまった、ということだ。非常にシンプルだ。単に楽しみの幅が狭まっている。これはほとんど生き甲斐を狭めているに等しい。憂慮すべきことだ。
この文脈で「無知」という言葉に向かえば、そこにネガティブを感じることはなくなると思う。つまり知識から自由である状態だ。フラットに見れるということだ。言語(思想界ではコードとか法とか色々な表現がある)を知る前の状態。これは純粋な芸術的喜びを受容できるということだ。素晴らしいことこの上ない。世界を言語で捉える前のあの頃、およそ3歳より前の感覚を、未知の芸術分野では部分的にでも、擬似体験できるということだ。
一旦言いたいことは言ったので、あとはクールダウンの時間。
昨日、友人が僕の記事を引用してくれた。そこでは本稿の主旨と非常に近い主張が為されていた。僕は本稿の下書き(主旨を含む)を25日の昼にしたためていて、帰路の電車で上記の記事を読んだ時には驚いた。同じ事を言っている、と。そういう偶然があったことについて、言及しておきたい。
ぜひこちらの記事も読んでみてほしい。本稿の主旨についてストレートに深掘りされていて、大変納得感のある内容だった。うれしいこと!
また月曜が来る。そして6時起きなのでそろそろ締めに入る。
ここ数日で芸術鑑賞への知見が深まった。これは高尚ぶりたいわけではないのだ。今の僕は、そういうモードだ。日本では特に芸術鑑賞の敷居が高い傾向にある、と一旦言ってみる。スノッブが生まれやすいとも言える。芸術はゲイジュツに置き換えられて忌避されるような傾向すらある。これは世界的な傾向とも言えなくはないかもしれないが、日本ではその特有の精神性から、その傾向が強いだろう。
アートは頭空っぽにして楽しんでもよければ、知識を詰め込んでフヒフヒ笑ってもよい。当然、その中間辺りを彷徨うという態度もあるだろう。
一つ言えるのは、どちらも、はたまたそのあいだでも、いろんな立ち位置から楽しめるといっぱいうれしいね〜ってこと!
以上!
