【自著を語る】人気と事実の間で/笹本正治
大河ドラマ『真田丸』をはじめ、戦国時代を題材とした娯楽作品でも人気を集める真田家。「真田の赤備え」「真田十勇士」などは多くの人が耳にしたことがある言葉でしょう。信濃の小領主だった真田氏は、武田・上杉・北条・豊臣・徳川など大勢力の狭間で生き抜き、大名まで上り詰めていきました。
本書では、真田幸隆、昌幸、信之、信繁の三代四人の人生を追い、華やかな武功だけではない多面的な事績を史料から解き明かし、大きな歴史のなかに位置付けていきます。2009年執筆時に笹本先生から所感をお伺いしました。
◆真田サミット
皆さんは、真田サミットというものがあることを御存じだろうか。1998年に真田町で第一回が行われてから、戦国時代を代表する武将「真田氏」をまちづくりに活かすため、全国のゆかりのある市町村により真田サミットが開催されているのである。2002年11月10日に「真田サミット2002 in長野」が行われた。私はここで基調講演「真田氏の歴史を活かした街づくり」とシンポジウムのコーディネーターを依頼された。
当時の参加市町村は、秋田県の岩城町(現由利本荘市)、宮城県の白石市、群馬県の沼田市・中之条町・吾妻町(現東吾妻町)・長野原町・嬬恋村・月夜野町(現みなかみ町)、長野県の長野市・上田市・真田町(現上田市)、大阪府の大阪市、和歌山県の九度山町であった。これだけの数の市町村の首長が真田の縁を絆にして集まって会談していることにも、御国自慢の熱っぽさにも驚いた。しかも、サミットを契機としてネット上では「真田電子博物館」も開設されているのである。真田氏人気がいかに高いか、行政がそれをどのように取り込もうとしているかの一端である。
◆語られる真田氏像への疑問
ところで、2007年のNHK大河ドラマは「風林火山」であった。テレビとはいえ、武田信虎によって上野へ出て行く以前の真田幸隆の大きな領主ぶりに、あんなに羽振りがよくないだろうと、違和感を覚えた。よく語られる武田家滅亡時に昌幸が勝頼を保護しようとしたとか、大坂の陣で散った忠臣としての幸村にも、なぜか受け入れがたいものを感じていた。それは、実像としての真田氏三代と、現在人気の真田氏とが一致するかどうかという疑問でもあった。
◆真田一族から「家」を考える
妻に先立たれ、子供が他所で働いている私は、家とは何か、家を繋ぐとはどのようなことかについて考えざるをえない状況にある。その側面から、関ヶ原の合戦に際して家を分けて対応した真田家に興味を覚えた。
私のこれまでの興味は、戦国時代から近世にかけて、社会や人々の考え方がどのように変化したかであった。そのために鐘の音に触れたり、習俗の変化や災害への意識などを追いかけてきた。また、具体的な人として武田信玄を扱った。今回は真田氏について、主として幸隆、昌幸、幸村、信之の四人を追いかけることによって、一つの家がいかに変化していったかに焦点を当てた。
これまで真田氏三代については、思い入れが大きすぎたように思う。本書では事実を大事にしたいと考え、多くの古文書を文中に入れた。実態としての真田家は、小説などに語られてきたものと異なる。史料を通して見えてきた、私の理解した真田氏三代と、皆さんが思ってきた真田氏三代との違いを、比較しながら味わっていただけたら幸いである。
(『ミネルヴァ日本評伝選通信』2009年9月号)
