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第2章 歴史認識問題とその前史(2):紛争の「戦線」とその移動

 1965年における請求権協定の締結と、植民地支配に関わる全ての経済的清算はこの協定により解決したという両国政府の見解の一致。その結果は明らかであった。これにより韓国側では、植民地支配に関わる問題についてどんなに不満があろうとも、日本政府や法人、更には個人に対する直接の請求権の行使が不可能になった。請求権協定により韓国側に引き渡された金額の積算根拠として使われたのは、植民地期における朝鮮半島全体 ―― 韓国政府は自らが朝鮮半島全体を統治する唯一の正統政府であるという見解を取っているので、北朝鮮の支配領域も含んでいる ―― の法人や個人が有する全ての債権であったから、当然の事ながら、韓国政府はこれにより獲得した金額を、積算根拠となった債権を有する法人や個人に引き渡す必要があった。そしてこれにより、韓国における個人や法人等の債権が弁済され、日本による朝鮮半島への植民地支配に伴う経済的清算が完結するはずだった。

 しかしながら、朴正熙政権はこの法人や個人に対する債権の弁済を積極的に行わなかった。民間に対する植民地支配に関わる支払いの申告を受け付ける法律が制定されたのは、請求権協定が結ばれてから5年以上をも経た1971 年1月。その対象は日本により徴用或いは徴兵された者のうちの死亡者と、請求権協定の締結に至るまでの過程で具体的に議論された「民事債権又は銀行預金債権等を有する民事請求権保有者」のみに限られた。つまり、これ以外の債権を有する人々、とりわけ預金通帳等によって自らの債権の存在を立証する事が困難な人々や、植民地期に徴用や徴兵されたもののその後、朝鮮半島に戻った人等の大半の人々が、弁済の対象から外される事になったのである。だからこそ、その後、1974年に「対日民間請求権補償に関する法律」が制定され支払いが行われた後に彼等に支払われた金額の合計は、 91億8769万3000ウォン、日本政府から韓国政府に渡った無償資金3億ドルの僅か5.4%にしか過ぎなかった。

 当然の事ながら、元日本軍軍人や元徴用工等、自らが当然に請求権を持つと考える人々はこれに対する抗議活動を展開した。だが、時は1972年、朴正熙自らが戒厳令を宣布する「上からのクーデタ」により樹立された維新体制期、1948年の建国から今日までの韓国現代史上、最も非民主主義的な体制の下にあった時代である。彼等の運動は、政権を批判するものとして弾圧され、元軍人や元徴用工、更にはその遺族等は、沈黙へ回帰する事を余儀なくされた。そもそも朴正熙政権が日本との請求権協定を結んだのは、獲得した資金を経済開発や軍備増強に充当する為であり、彼等にはそれを植民地支配により被害を被った人々に全面的に還元する意思は最初から存在しなかったと言ってよい。

 こうして植民地支配に関わる全ての経済的問題は請求権協定により解決済み、という見解を日本政府と共有する韓国政府が、自らの被害への補償を求める人々の声を力づくで抑え込む事により、日本政府や企業が韓国の人々からの歴史認識問題を巡る紛争に直接晒される事がない状況が出現した。即ち、この時期の歴史認識問題を巡る紛争の「前線」は、日本政府と韓国政府の間にではなく、韓国政府と自らの被害への補償を求める韓国の被害当事者達の間にあった事になる。朴正熙政権から全斗煥政権へと軍事クーデタにより成立した権威主義政権が相次いだこの時期には、司法もまた時の政権の強い影響下にあり、裁判所が政府の公式見解に反する判決を出す事は極めて難しかった。結果、元軍人や元徴用工といった植民地支配に関わる当事者の声は「韓国内で」封じ込められ、日韓両国間の外交問題へとは発展しなかった。

 そしてこの状況は1980年代においても大きくは変わらなかった。自らが満州軍士官学校と日本陸軍士官学校を卒業し、満州軍士官であった経歴を持つ1917年生まれの「親日派」(韓国ではこの用語を「日本に好意的な感情を持つ人」という意味ではなく、「植民地期における日本統治への朝鮮人協力者」という意味で用いている)朴正熙とは異なり、1931年生まれの全斗煥は1945年の段階で小学5年生に過ぎず、植民地期における日本統治との特別な関係を有していなかった。若年の大統領の登場は、政権内部における大規模な世代交代を引き起こし、韓国政府の対日政策は次第に変化していく事になる。その典型は彼等が政権獲得直後の1981年、安全保障上の負担を理由に突如として100億ドルにも及ぶ借款を日本側に提起した事であったろう。1982年には、日韓両国間で初の本格的な歴史教科書問題も勃発しており、この問題でも韓国政府は外交的に初めて日本政府への教科書記述内容の改善要求を突き付けている。日本の歴史教科書を巡る問題が初めて日韓両国政府間の外交的対立となった瞬間である。結果、当時の官房長官であったが宮沢が、教科書の記述に近隣諸国の意向を反映させる談話を発表する。いわゆる「宮沢談話」である。

 とはいえ、この時点ではまだ両国間の外交紛争は本格的なものへと発展しなかった。日本がバブル景気の絶頂へと向かおうとしていたこの時期、依然として日韓両国の経済的格差は圧倒的であり、韓国は日本からの支援を必要としていたからである。先の100億ドル借款要求も裏を返せば、巨額の貿易赤字に苦しんでいた当時の韓国政府が、外貨繰りに大きく苦慮していた事の結果であり、だからこそ彼等もまた朴正熙政権と同じく、日本との決定的な対立へとは踏み切れなかった。日本の歴史教科書の記述を巡る問題も同様であり、こうして当初は日本に対して敵対的であるかに見えた全斗煥政権は急速にその姿勢を軟化させて行く。結果、1983年には中曽根首相の日本首相としての初の訪韓が、そして翌1984年には全斗煥の韓国大統領としての初の訪日が実現する。このような全斗煥と朴正熙の世代の違い、そしてその結果としての対日政策の類似と相違の詳細については、筆者の異なる著作『全斗煥』をご笑覧いただければ幸いである。

 とはいえ、このような状況は1987年、韓国が民主化する頃になると本格的な変化を見せる事になる。原因の第一は、韓国国内における元軍人や元徴用工、更にはその遺族等による運動の活発化である。背景にあったのは、民主化運動による市民運動の活発化であり、これにより刺激された当事者や遺族により、1970年代には一旦挫折した植民地期の被害への補償を巡る運動が再び開始される事になった。1990年にはその本格的なはじまりとして韓国遺族会が釜山からソウルまでの「徒歩大行進」を行い、その運動は日韓両国メディアにおいて大きく報道された。彼等の動きは翌1991年には日本政府を相手取った、日本国内での提訴へと発展する。

 民主化運動による市民運動の活発化は、女性運動にも刺激を与え、この延長線で慰安婦問題が「再発見」される。後に「韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)」の代表となる尹貞玉がはじめてこの問題を巡って延世大学にて報告を行ったのが1988年、1990年には彼女による「挺身隊(怨念の足跡)取材記」と題する連続コラムがハンギョレ新聞に掲載されている。この動きは同年末の挺対協結成となって結実する。

 とは言えこの時点ではこれらの動きは、依然、韓国社会内部のものであり、日韓両国の外交問題へとは発展しなかった。何故なら、1987年の民主化を経て翌年に成立した盧泰愚政権は、依然として、植民地期の請求権を巡る問題は全て請求権協定により解決済みという、朴正熙政権以来の韓国政府の公式見解を維持していたからである。つまり、この時点では未だ歴史認識問題を巡る紛争の「前線」は、日韓両国政府の間にではなく、韓国政府と植民地期の被害の法的賠償を求める韓国の諸団体の間にあった訳である。

 だからこそ、歴史認識問題を巡る紛争が日韓両国間の外交紛争に展開するまでには、もう一つの段階が必要であった。そしてその決定的な契機が訪れるのは、1991年末。時の日本政府は慰安婦問題に対する「政府の関与」は存在しない、という主張を続けていた。つまり、元慰安婦らは民間業者である慰安所の経営者によって戦地へと動員・管理されたのであり、現地における人権状況と合わせて日本政府は一切関与しておらず、当然如何なる法的・倫理的責任も存在しないとしていたのである。

 しかしながらこの日本政府の主張は、1991年12月27日、「慰安所 軍関与示す資料」と題するスクープ記事を朝日新聞が行う事で崩壊する。実は慰安婦の移送や慰安所の設置・管理等において日本軍が関与していた事は兼ねてから一部の歴史学者の間で知られていた事実であった。仮に日本政府が慰安婦問題における当事者の日本政府に対する債権の不在を主張するためだけであれば、本来、請求権協定の条文に拠るだけで十分なはずであり、このような主張は不必要だった。にも拘わらず過剰な正当化を試みそれが破綻した結果、日本政府の歴史認識問題に関わる主張の信憑性は大きく傷ついた。

 当時の慰安婦問題を巡る日韓両国の詳細な状況については、再び前著『日韓歴史認識問題とは何か』に譲る事としよう。ともあれこれにより当時の日本首相であった宮沢喜一は、これまでの政府見解に対する誤りを訂正、謝罪する事を余儀なくされた。こうしてソウルで行われた1992年1月の首脳会談において、宮沢は慰安婦問題について繰り返し謝罪の意を表明する。『毎日新聞』によればその回数は僅か3日のソウル滞在中に、実に13回に及んだという。

 宮沢が謝罪を繰り返した事には理由があった。既に述べたように、この時点での韓国の盧泰愚政権は日本政府と同じく植民地期の請求権を巡る問題は全て請求権協定により解決済みという公式見解を有していた。だからこそ、宮沢をはじめとした日本政府関係者が自らの歴史的事実に関する理解の誤りを何度詫びても、それだけでは日韓両国間の問題が法的紛争に発展する可能性はないはずだったからである。下世話な表現が許されるなら「謝罪は無料(ただ)」だというわけである。

 しかし、当時の日本政府が見逃していた事があった。それはこの1992年が民主化後において2回目の国会議員選挙と大統領選挙が行われる年に当たっていた事だった。とりわけ宮沢と盧泰愚の首脳会談が行われた1月は、僅か2か月後に国会議員選挙を控える時期に当たっていた。

 政権末期の盧泰愚は深刻な低支持率に喘いでおり、にも拘わらず彼はこの国会議員選挙での大敗だけは絶対に避けなければならなかった。この結果として、与党の支持が更に大幅に低下、続く12月に行われる大統領選挙でも敗北し、政権を明け渡す事になれば ―― その後実際にそうなったように ―― 全斗煥政権期のナンバーツーであった彼自身の政治的・社会的地位が脅かされかねない状況にあったからである。既に先の大統領であった全斗煥には光州事件を中心に、その過去の行跡に強い非難が寄せられており、彼は1988年には江原道の百譚寺に一時蟄居する事を余儀なくされている。

 こうして盧泰愚は、後の日韓関係において決定的な影響を与える大きな決断を下す。即ち、焦点化していた慰安婦問題を、請求権協定において解決したとされる植民地支配に関わる経済的補償を巡る問題の「例外」として位置づけ、日本政府に公式の賠償を求めたのである。こうして1965年の条約締結から四半世紀以上の年月を経てはじめて、日韓両国政府の請求権協定に関する解釈が分かれる事になった。結果、植民地支配の経済的補償を巡る問題の構造は大きく変化した。つまり韓国政府が「挺対協」をはじめとする歴史認識問題に関わる市民運動団体と協力し、日本政府に対してその法的責任の承認と、それに伴う賠償の履行を求める構図である。

 こうして植民地支配の経済的清算を巡る紛争の「前線」は、韓国政府と韓国内の当事者の間から、韓国政府と日本政府の間へと移動した。これにより1965年からはじめて、歴史認識問題は日韓両国政府間の「外交問題」へと発展したのである。

 しかしこの時点での問題の構造には、まだ現在とは大きな違いがあった。一つは盧泰愚が行って見せたように、この段階では請求権協定を巡る韓国国内の解釈が流動的であった事、もう一つはこの法的解釈の主導権が韓国の行政府にあった事である。言い換えるなら、この時点ではもし日韓両国行政府の間で外交的妥協が成立し、請求権協定を巡る解釈が再び調整出来るなら、状況を1992年以前の状態に戻せる可能性があった。後に使われる事になった表現を借りるなら、「ゴールポストを動かした」のなら「ゴールポストを元に戻せばよい」だけだという事になる。

 だからこそ、日韓の歴史認識問題が外交的問題へと発展したこの時期、両国政府は外交的妥協のラインを求めて、試行錯誤を繰り返した。その結果として出されたのが、1993年の「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」、即ち「河野談話」であり、また、1995年以降の日本政府による「女性のためのアジア平和国民基金」、通称「アジア女性基金」の樹立による元慰安婦への経済的補償の試みだった、という事になる。

 だが、このような日韓両国政府間の外交的努力は実を結ばなかった。民主化後の韓国は、大統領の任期を1期5年に限るというその特異な憲法的制約により、再選可能性を欠いた大統領が任期末期になるとレイムダック化する現象が繰り返された。結果、当初は日本政府との間の外交的妥協へと踏み切るかに見えた政府が、政権末期になると市民運動団体や世論の圧力に押される形で対日強硬姿勢へと転換する、という事態が繰り返された。

 加えて、この時期の韓国は未だ権威主義体制から民主主義体制への移行期にあり、かつての権威主義政権の負の遺産を清算する作業に追われていた。この中で、権威主義政権期の法的解釈や慣行は次から次へと書き換えられ、今の韓国に繋がる法文化が形成される。一言でいうなら、この時期の韓国では日韓関係をはじめとする対外関係のみならず、国内においても様々な「ゴールポスト」が動かされた時代だったのである。そしてやがて韓国の人々は、民主化をはじめとする時代と価値観の変化に従って、国内法は勿論、国際法の解釈もまた変更されるのが当然である、という理解を持つに至るのである。いわゆる「司法的積極主義」がそれである。

 外交的交渉が実を結ばなかった理由は日本側にもあった。日韓間で慰安婦問題を巡る外交的妥協が模索されていたこの時期は、日本においては宮沢から細川、羽田、更には村山や河野といった相対的にリベラルな傾きを有する政治家が政界を主導する時期に当たっていた。当然の事ながら、この状況に批判の声を上げたのは、より保守的な側に属する人々であった。とりわけ自民党内の保守派は自らの党勢が後退する中でも河野洋平をはじめとする「宏池会」系の人々が敗北の責任を取らずに党首脳の座を占め続け、進んでは第一党であるにも拘わらず首相の座を社民党の村山に引き渡した事への強い不満を有していた。

 そうして彼等がこのリベラル派に対する勢力巻き返しのきっかけの一つとして利用したのが、時の政権の慰安婦問題に関する韓国への妥協的な姿勢であった。その結果として行われたのが、1996年頃にはじまる慰安婦問題における政府の姿勢や教科書の記述を非難する地方議会の一連の決議である。同じ年には、民間でも「新しい教科書をつくる会」が発足し、ここでの主要な焦点の一つも従来の教科書における慰安婦問題に関わる記述に求められた。

 こうして慰安婦問題に関わる「バックラッシュ」が開始される。それでもまだこの時点での日韓両国政府は、歴史認識問題を巡る妥協の可能性を探り続けていた。村山の後を襲って首相に就任した橋本龍太郎は、その保守的な外交姿勢にも拘わらず、慰安婦問題においてはアジア女性基金の既定の方針に従って、「元慰安婦の方々への内閣総理大臣のおわびの手紙」を認め、元慰安婦等に送っている。

 1998年に首相に就任した小渕恵三は、この時期の日韓両国政府による外交的妥協の頂点とも言える、「日韓共同宣言――21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」、通称「日韓パートナーシップ宣言」を金大中と共に出したことで知られている。続く小泉政権においても、小泉自身による靖国参拝の僅か2か月後の2001年10月に日韓両国首脳が日韓歴史共同研究の開催で合意するなどの模索が続けられた。加えてこの時期の日韓両国政府は、2002年のサッカーワールドカップ共催を奇貨として、両国間の友好関係を深める為の様々なイベントや施策が展開した。その様な両国政府の努力の成果の一つが、2003年にはじまるドラマ「冬のソナタ」の大ヒットで幕を上げる「韓流ブーム」となって表れる。

木村 幹(きむら・かん/神戸大学大学院国際協力研究科教授)
 *所属・肩書きは2026年現在

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