第1章 歴史認識問題とその前史(1):請求権協定という妥協の成立
2026年1月13日。奈良市内のホテルで日韓首脳会談が行われた。日本の首相は保守派の論客として知られる高市早苗。靖国神社参拝を公言し、今は亡き安倍晋三首相を「政治の師」と仰ぐ彼女は、韓国においては首相就任の遥か以前から「女性安倍(安倍の女性バージョン、という意味)」と呼ばれ警戒されて来た。慰安婦問題で韓国に強硬な姿勢を貫き、2019年には一部半導体関連製品に関わる韓国に対する輸出管理措置を発動した安倍は韓国では、戦後日本の歴代首相の中で、最も忌み嫌われる日本の政治家の一人であり、高市はその再来だ、という訳だ。韓国の有力進歩紙である『ハンギョレ新聞』は、2025年10月の高市首相誕生直後、次のように報じている。
高市新首相は21日午後、臨時国会の衆議院本会議で行われた首相指名選挙の第1回投票で、総票数465票の過半数(233票)を上回る237票を獲得して日本の第104代首相に選出された。初の女性首相となる。「穏健派」とされる石破茂前首相とシャトル外交を復元するなど、韓日協力基調を固めてきた李大統領としては、「強硬保守」的性格の高市首相の選出で、対日外交基調を固め直す必要に迫られる可能性が高まった。
他方、同じ首脳会談に臨んだ韓国の大統領は李在明。政敵への歯に衣着せぬ攻撃により「左右を逆にした韓国のトランプ」との異名をも取った彼は、大統領就任以前には歴史認識問題等における日本への厳しい批判をして来た事でも知られてきた。彼の属する「共に民主党」は、保守・進歩勢力による二大政党制を取る韓国を代表する進歩派政党であり、その流れを引く歴代の大統領、即ち、盧武鉉や文在寅の政権下では、日韓関係が大きく悪化した事も知られている。だからこそ、日本政府やメディアが李在明の大統領就任により、日韓関係が大きく悪化するのではないか、と警戒したのはある程度理由があった。例えば、李在明の大統領当選直後、『日本経済新聞』は次の様に報じている。
韓国の政権交代は、時に日韓経済関係の政治リスクとなってきた。15年、竹島問題を巡る対立に伴って金融危機に備える通貨交換(スワップ)が失効。李氏と同じ左派の 文在寅政権当時の19年には、日本が対韓輸出管理を厳格化したのを機に関係は一段と悪化した。日本製品の不買運動などが起き、尹政権が関係改善を本格化させる23年まで摩擦が続いた。
(中略)
ただ、当時、最大野党「共に民主党」の代表だった李氏は、問題解決を強く批判した経緯がある。日本経済界は李氏ら左派政権との人脈も乏しいとみられ、領土問題や安全保障を巡って政治対立が再燃すれば、不安定な経済関係に逆戻りするリスクがある。
そして日韓両国の世論やメディアが大きな懸念を有したのには、もう一つの理由があった。それは両首脳の就任直前の時期の日韓関係がようやく回復に向かいつつあり、にも拘わらずここで政権交代が行われる事で、再び関係悪化へと向かうのではないか、と考えられたからである。背景にあったのは、2010年代以降の歴史認識問題を巡る両国関係の悪化の経験である。
そこでこの点を理解する為に、ここで今日に至るまでの歴史認識問題に関わる日韓両国の関係をその前史を、2010年代以前と以後に分けて整理してみる事にしよう。
まずは、2010年代以前の状況である。本連載の「前著」に当たる『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房、2014年)と、更にそのベースとなった『究(きわめる)』の連載「日韓歴史認識問題にどう向き合うか」でも詳しく述べたように、今日日韓両国間の主たる懸案とされる、慰安婦問題や元徴用工問題等に代表される歴史認識問題や、竹島(韓国名独島)を巡る領土問題が、両国政府間の大きな外交的対立事項となったのは、1945年の植民地支配終焉から半世紀近くをも経た1990年代に入ってからの事である。勿論それ以前の、日韓両国、とりわけ韓国において、慰安婦問題や元徴用工問題、更には竹島を巡る領土問題の存在が知られていなかったわけでは無かった。にも拘わらず、これらの問題は1980年代までは両国政府間の主たる外交的問題としては提起されず、両国の政治的な対立へとは繋がらなかった。重要なのは、問題やその原因となるイシューが存在する事と、それが外交的紛争へと発展する事は同じではない、という事である。
この点については、前著『日韓歴史認識問題とは何か』で詳しく述べた、言わば同書の主題とも言えるものであり、詳しくは同著を紐解いていただきたいと思う。そこでここでは、同書でも述べた歴史認識問題を巡るメカニズムを、その概略だけ簡単に確認してみる事としたい。
何故、今日においては大きな問題とされている歴史認識問題や領土問題は、ある段階までは日韓両国政府間の外交的紛争にまで発展しなかったのか。結論的に言えばその最大の理由は、日韓両国の大きな国力差にあった。第二次世界大戦における完膚なきまでの敗戦により焦土と化した日本は、アメリカによる戦後改革を経て急速な復興を果たし、1964年には当時、「先進国クラブ」との異名を取っていたOECDに加入し、東京にてアジア初のオリンピックを開催するまでに至っている。同じ年には東京と新大阪間に新幹線も開通し、日本は高度経済成長のさ中にいた。驚くべき事にこの間、僅か19年。この文章が書かれている2026年の19年前は2007年であるが、多くの人はこの19年間で日本社会が大きく変わったとは思わないだろう。現在の日本と当時の日本では、経済や社会の変化の速度が比べ物にならない程に違う事がわかる。
他方、植民地支配から解放された後の韓国が辿った道は苛酷だった。植民地支配からの解放と同時に、朝鮮半島は敗戦国である日本の領土として、米ソ両超大国に南北に分割占領された。同じ敗戦国であるドイツに対する連合国の分割占領ラインが、ドイツ本国、つまり後の東ドイツと西ドイツの間に引かれたのに対し、ソ連の参戦が敗戦の直前まで遅れた対日戦においては、その勝利におけるアメリカの果たした役割が圧倒的に大きく、日本本土の殆どがアメリカの占領下におかれる事になった。その結果、分割占領ラインが、日本領土の周辺にあった植民地朝鮮に引かれるという皮肉な状況が生み出された。
アメリカの占領下に置かれた朝鮮半島の南半では、準備不足に基づく占領政策の拙さもあり混乱が続いた。1946年には大邱を中心とする慶尚北道で占領政策に対する左派勢力と占領軍及び警察との大規模な衝突が勃発し、2年後の1948年には全羅南道の麗水・順天における軍隊の反乱事件も起こっている。軍隊の反乱事件により警戒を強めた米軍政府は、この麗水・順天にも近い済州島の民衆運動に過剰反応し、大規模な虐殺事件をも引き起こした。所謂「四三事件」がそれである。この事件により、当時の島の全人口の5分の1に当たる6万人が死亡したと言われているから、その被害がこの地域にとって甚大なものであった事は明らかである。第二次世界大戦後、一度は母国に戻った多くの済州島民が大阪をはじめとする日本各地に再渡航する事になった第一の理由もこの事件にあると言われている。
そして同じ1948年、朝鮮半島には米ソ両超大国の後見を受ける形で朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)と大韓民国(以下、韓国)の二つの国家が樹立される。共に自らが朝鮮半島における唯一の正統政権である事を主張する南北両国の対立 -- 因みにこの両国の主張は2000年以降幾度かの南北対話を経た今日でも基本的に変わっていない --が、更に2年後の1950年には北朝鮮の侵攻によりはじまる朝鮮戦争の悲劇へと発展する事は周知の事実である。
当初は南北両国の内戦としてはじまった朝鮮戦争は、間もなく韓国軍崩壊の危機に直面したアメリカが国連安全保障理事会の決議を経て、「国連軍」の主力部隊として参戦し、更にはこのアメリカをはじめとする国連軍の攻勢による北朝鮮軍の崩壊を目の前にした中国が自らの軍隊である人民解放軍の主力部隊を再編成し、「中国人民志願軍」として100万人を超える規模で派兵する事で、米中両大国が直接激突する大規模な国際戦争へと発展した。朝鮮半島南端に注ぐ洛東江から中朝国境を構成する鴨緑江まで、戦線が朝鮮半島の南北を幾度も大きく動く中、戦禍は朝鮮半島全土に拡大した。その被害者は韓国側だけで戦死者25万人、民間人の犠牲者99万人に及んだとされる。悲惨な陸上戦に追われて多くの国民が住処を失って難民化し、主要なインフラは破壊された。こうして韓国経済は崩壊の危機に直面する事になる。
それでもやがて米中両国の死力を尽くした戦いは1951年後半になると陣地戦へと移行し、戦線はソウル北方の38度線付近で膠着する事になる。結果、1953年7月、「国連軍」と北朝鮮、中国の三者の間での休戦協定が締結され、戦禍は辛うじて収まった。因みにこの休戦協定は、戦争継続による朝鮮半島統一の実現を主張する李承晩大統領の反対により、韓国政府によっては署名されていない。
その後も韓国の混乱は続き、経済復興は遅々として進まなかった。独立当初、長年の独立運動の功績により「建国の父」として絶大な支持を集めた李承晩は、次第に自らの政権の独裁化を進め、野党や反対派への弾圧を強めていった。政権の権威主義政権下は人々の反発を呼び、この政権は1960年、学生運動を中心とした民主化闘争により打倒される。「第二共和国」と呼ばれる体制の成立である
しかしこれにより樹立されたかつての野党民主党によりなる新政権は内部対立を繰り返して分裂し、人々は幻滅を深めていった。この状況を利用して行われたのが、翌1961年における朴正熙を中心とする一部将校による軍事クーデタに他ならない。
とはいえ当然の事ながら、軍事クーデタにより樹立された政権は正統性を欠いており、軍人等も政治家等と同じく内紛を繰り返していった。加えて朴正熙には、彼自身の経歴に伴う大きな弱点もあった。日本統治期には満州軍士官として日本の植民地支配へ協力した過去がある彼は、解放直後には共産主義運動に参加した経歴も有していた。その意味において、日本の植民地支配から解放された後、東西冷戦の最前線にある「反共国家」として樹立された韓国の指導者として、朴正熙の経歴は二重に相応しくないものであった。
だからこそ、朴正熙は異なる所に自らの正統性を求めなければならなかった。経済開発である。つまり、混乱する韓国経済を立て直す事により、その実績で国内外の支持を獲得しようとしたのである。
だがここには大きな問題が存在した。経済開発には前提としての資源が必要であり、経済的苦難の中にあった韓国にはそのために十分な資源が存在しなかった。朝鮮戦争直後には韓国を経済的・軍事的に大規模に支援したアメリカの関心は、この時期、ベトナムを中心とするインドシナ半島へと移りつつあった。結果、韓国への経済援助は急速に減少した。
朴正熙にとっての幸運は、それでもアメリカが韓国を簡単に見捨てはしなかった事だった。アメリカにとって韓国は朝鮮戦争にて30万人以上の兵力を投入し、3万人以上の戦死者を出してまで守り抜いた国であり、その韓国を政治的・経済的混乱により失う事は、自らの国内世論を考えても不可能だった。他方自らの資源には限界があり、しかしながら韓国への支援は必要である。だとすれば、その答えは他の国をしてアメリカに代って韓国を支援させるしかない。こうしてアメリカは韓国の経済開発のために自らの以外の朝鮮半島と密接な関わりを持つ経済大国、つまり、日本へと目を向ける事になる。
結果、1961年、時のケネディ政権は相次いで訪米した朴正熙と池田に圧力をかけ、日韓両国を国交正常化へと導く事になる。国交正常化により、植民地支配に関わる「請求権問題」を解決し、この「請求権」を韓国が日本に行使する事で、韓国の経済開発のための資源を確保しようとしたのである。こうして池田政権と朴正熙政権の間で国交回復のための交渉が行われる。
だが、当時の日韓両国の間には絶望的な国力の違いがあり、交渉は韓国に大きく不利な形で展開した。東京五輪を目前に控え、「所得倍増計画」の成功に湧く池田政権が早期の日韓修好を必要としていなかったのに対し -- そもそも首相就任当時の池田は韓国よりも中国との国交正常化の方が重要であると考えていた --、軍事クーデタにより正統性を欠き、アメリカの援助縮小により経済的破綻の危機に直面していた朴正熙政権は、何が何でも早期に日本からの資金が必要であったからである。
結果、朴正熙政権は李承晩政権期には35億ドルにまで膨らんでいた対日請求金額を、無償借款3億ドル、有償借款2億ドル、加えて商業借款3億ドルにまで減額して妥協する。韓国が日本に対して譲ったのは、支援の金額だけではなかった。独立以降の歴代韓国憲法の前文に示唆されているように、韓国においては日本による植民地支配は国際法的に違法であり、無効だというのが独立以後、現在までの一貫した公式見解になっている。韓国併合に至るまでの諸条約は日本の軍事力により強制されたものであり、故にそれらの条約を前提として為された併合は無効である、というのがその理由である。だからこそ、日本の植民地支配に伴う請求権とは韓国にとってこの違法な支配に対する請求権、即ち、法的な賠償請求権であるべきだ解されてきた。
だからこそ、韓国政府は本来なら、この条約による日本から引き渡される経済的資源を「賠償金」として受け取らねばならなかった。しかし、同じ植民地支配に対する日本政府の公式見解は全く異なっていた。そこでは韓国併合当時から現在に至るまで、イギリスやフランスをはじめとする当時の帝国主義列強の支配と同じく、日本による朝鮮半島や台湾に対する支配も「当時の国際法に照らして」合法であった、と理解されているからである。
そして、国力において韓国を圧倒する当時の日本はこの点において最後まで韓国に一歩も譲る事はなかった。そして、これらの条約により韓国側に渡る経済的資源は、あくまで韓国に対する経済援助であり、「独立祝賀金」にしか過ぎない、という主張を貫いた。
このような植民地支配の合法性を巡る両国の対立の結果、両国はこの交渉の結果として結ばれる日韓基本条約の第2条に、植民地支配は「もはや無効である」という一文を挿入する、という苦心の一策をも講じる事になる。そしてこれを日本側は「韓国が独立を果たした現在となっては無効である」という意味に解釈し、他方、韓国側は同じ文章を「韓国併合の当時から無効であった」と異なる形で解釈した。対立する植民地支配の合法性を巡る問題を、同じ条文に対する異なる解釈の主張を互いに許容する事で「玉虫色」に解決する事にしたのである。この「玉虫色」の解決方法こそが、後の日韓両国における歴史認識問題の火種の一つになるのだが、それはこの条約が結ばれた1965年から半世紀近く後の話になる。
とはいえ、ここで重要なのは、これらの交渉の結果、日韓基本条約の付属協定として締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」、通称「日韓請求権協定(以下、請求権協定)」の第2条において、「締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題」が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と定められた事であり、更にはこの時点ではこの見解を日韓両国政府が共有した、事だった。即ち、植民地支配の合法性がどうであれ、植民地支配に関わる金銭的な問題はこの条約により全て解決した、という理解で日韓両国政府は一旦一致する事になったのである。
木村 幹(きむら・かん/神戸大学大学院国際協力研究科教授)
*所属・肩書きは2026年現在
