【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第十七話
「緊張しなくても大丈夫よ、落ち着いて。午後のお稽古は、昼食休憩が明けてからにしましょう。ここまでの場面を細かく確認しながら進めていくから安心してね」
ふわりと肩に乗せられた手の主は薫だった。
「あ、薫さん!」
薫に微笑みかけられると、別の意味で緊張して、客席数の不安など吹き飛んでしまう。急に早さを増す鼓動は、何か病気のサインなのかもしれない。
「最初は、誰でも緊張するわよね。そんな時は、楽しいことを考えましょう。ほら、上手側を見て。セットの小屋があるでしょう。午後の最初のお稽古、『ドロシーのお家が嵐に巻き込まれてオズの国に飛ばされるシーン』では、美憂さんに実際にあの小屋に入ってもらって、小屋をロープで吊り上げるの。それでね、スクリーンに嵐の様子を映し出して、その後に真っ直ぐに小屋を下ろすと、その下に『東の悪い魔女』が倒れているのよ。何だか遊園地の乗り物みたいで面白いでしょう?」
いつもより少しだけ饒舌な薫は、時々軽く手を合わせながら、遠足を翌日に控えた子どものように目を輝かせている。どうやら、一昨年にドロシーを演じた際のお気に入りのシーンのようだ。
薫の可愛らしい一面を見られたことは、とても嬉しい。だが、薫の話にはいくつか気になる点があった。
「あの……、小屋を吊り上げる高さってどれくらいなんですか? 実は私、高いところ苦手で……」
高所恐怖症の者にとって、高さは重要な問題だ。「できるだけ低くあってくれ」と願いながら問いかけてみる。
「そうね、吊り上げる高さは三メートルくらいかしら。でも、それほど揺れないから怖くはないのよ。中に固定椅子があって、しっかりとベルトを装着すれば滑り落ちないようになっているから安心してね。後で、運営メンバーがしっかりと説明するわ」
「さ、三メートル!?」と心の中で叫んだが、薫のきらきらと輝く瞳で見つめ返されると、文句は口に出せない。
「えっと……、あと、あの小屋ってどれくらいの重さがあるんですか? 下敷きになる『東の悪い魔女』役の先生って危ないんじゃないかって、ちょっと心配で……」
小屋はセットとはいえ、二畳分ほどの広さは十分にあるステンレス製の本物の倉庫だった。しかも、前面と背面には本物のヒノキの丸太が張り付けられており、全体の重量は相当に思える。その真下に人が入り込むというのは、どうも危険に思えて仕方がなかった。
確かに、ビデオで観た昨年の公演でも、全く同じ小屋が使われていた。太いロープで吊るされた小屋がゆっくりと降ろされると、床から五十センチほど高さのある金属製のストッパーの場所で「ぴたっ」と静止して、ストッパーの下に潜り込んでいた「東の悪い魔女」役の人物は、潰された魔女の演技としてわざとらしい叫び声を上げている。ただそれだけだった。しかし、生身の人間が大きな建物の真下にいると考えると、どうにも嫌な想像ばかりが湧いてしまう。
「美憂さんは、きっと初めてだから心配なのね。毎年無事に行われているのだから、大丈夫よ。美憂さんは、小屋から外へ出る時に『東の悪い魔女』役の安見先生を踏まないように、ということだけを気をつけていればいいわ」
「でも……」
「──皆さま、これから一時間の昼食休憩に入ります。それぞれ食事をとった後、午後一時までにこの会場にお戻りください」
その時、「キイーン」というマイクの音と共に、昼休憩を伝えるアナウンスがスピーカーから流れた。
「さあ、昼食休憩よ。美憂さんも、午後は忙しくなるから、ゆっくり休んでね」
薫は美憂の肩をもう一度軽く叩くと、花のような香りを残して去っていった。
「美憂ちゃん、お疲れ様。今日の昼食はどうする? 中庭に行く?」
明依が駆け寄ってきた。元々人見知りのある彼女であったが、「クララに負けない同盟」を結んでからというもの、以前よりも気さくに接してくれるようになった。白雪が姿を消し、友梨も停学をくらい、夏は一人きりになることを覚悟していたが、明依は心強い味方だ。この夏休み、彼女とも本当の友達になれる予感がした。
「あ! 明依、ごめん! 今日は先に行って、ご飯食べてて。後からすぐに行くから!」
今すぐにでも明依と昼食に行きたい気持ちはやまやまだったが、顔の前で手を合わせてから、すぐに走り出す。
「わかったわ! 走って転ばないでね!」
以前よりも大きな声を出せるようになった明依に手を振ってから、ホール「シーニュ」を後にした。
明依を置いて走り出したのは、「きゃあきゃあ」言いながら食事へと向かうマンチカン役の中等部生たちの中に、「ある人物」の背中を見つけたからだ。
小さな中等部一年生たちの群れの中に紛れる、背の高い猫背の少女の姿は、遠くからでも一目で「彼女」だと分かった。
川瀬奈那。彼女はいつもクララにひっついて離れることがなかったが、今日はなぜかひとりきりでいた。
道の途中、中等部生たちは中等部校舎にある食堂へと向かっていったが、奈那だけは「ふらっ」と列から外れて、高等部西棟の食堂「パピヨン」に向かうわけでもなく、ひたすら校舎の中を歩き続けていく。最初は、彼女の「スリジエ」クラスに向かうのかと思っていたが、教室の前を通り過ぎると階段を上り、少しするとまた降りてきて、「スリジエ」の教室前を再び素通りすると、また階段を上り下りするということを繰り返していた。
その行動の意味は理解できないが、彼女から白雪についての話を聞くなら、クララのいない今しかない。
彼女が不思議なルーティンの三週目に入ろうとしたその時、思い切って声をかけた。
「川瀬さん、ちょっと話をしたいんだけど」
奈那は「びくっ」と一度大きく肩を震わせると、とんでもないものを見るような表情でこちらに振り返った。
(つづく)
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