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【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第三十五話



 演劇祭で『オズの魔法使い』の上演を終えたその後、新生徒会会長となった美憂は、高校二年に上がる前の春休みの期間を使って、ひとりフランスのパリを訪れることにした。
 パリのシャルル・ド・ゴール空港まで迎えにきてくれたのは、父とフランス人のパートナー・ルイーズ、そして彼らの赤ん坊のリアだ。父とは、実に四年振りの再会であった。
 二週間の滞在中はパリ近郊にある彼らの家で世話になり、パリ観光はそこそこに、許される限りの時間を父と共にルーヴル美術館で過ごすことにした。
 ルーヴル美術館は観光客が多いとはいえ、一歩中に入ってしまえば、そこには現代から切り離された歴史とロマンと複雑な精神世界が広がっている。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ジャック・ルイ・ダヴィッドの「ナポレオン一世の戴冠式」、ウジェーヌ・ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」などの絵画から、「サモトラケのニケ」や「ミロのヴィーナス」などの有名な彫刻まで、学院の図書館で読み漁った画集で見た作品が、どこまで歩いても見つくせないほど並んでいた。
 画集で眺めるのと、実際に目で見て、空気を肌で感じるのとでは、感動に大きな差がある。彫刻の作り出す美しい曲線が、塗り重ねられた絵の具の筆の跡が、いにしえの生活や思いを呼び起こし、作者の情動や境地を物語のように伝えてくる。
 昨日と同じ絵の前で足を止めると、父は少し呆れたように「ふっ」と笑った。
「美憂は、その絵が好きだよね」 
「ラ・トゥールの『いかさま師』の絵を、ずっと見たかったの。いかさま師が持っているカードは、本当に『ダイヤのエース』なのね」
「よく知っているね。もうひとつの絵は、アメリカのキンベル美術館にあるよ。あっちは『クローバーのエース』だ」
 父は黒縁眼鏡の縁を右手で持ち、位置を少し直してから、「ダイヤのエース」を指さす。興味をひかれると眼鏡を直す癖は、あの頃から変わっていない。
「前にね、こんなことを言う人がいたの。『貴族の少年は本当に騙されているのか』って。子供だから世間知らずとは限らなくて、『騙されてあげているってこともあるんじゃないか』って。パパはどう思う?」
「うーん、そうだなぁ。美憂は、どう思うんだい?」
「私は……、はっきりとは分からないけど、『騙されてあげてる』ってこともあるんじゃないかしら。この少年は貴族でしょう。いかさま師たちに騙されたふりをしてあげたら、いかさま師たちは少しだけふところが潤って悪い欲望が収まるかもしれない。誰かの中にある悪がなくなれば、少なくともその瞬間だけは世界が平和でいられるの。そのための自己犠牲もあるのかもしれないって、私は思う」
「そうかい。四年会わないうちに、色々と考えを広げてきたんだね。だけど、美憂はちゃんと自分のために生きておくれよ。子どものうちから、『自分を犠牲にするのが誰かのため』なんて、考えなくていいんだから」
「大丈夫よ、パパ。今通っているクレール女学院は生徒の自主性を一番大切にしているの。私も、ちゃんと自分のやりたいことをやり遂げられるよう頑張るわ」
 そう言うと、父は優しい目を細めて微笑む。この顔を見られただけでも、来てよかったと心から思う。離れていた時間が少しだけ悔しくて、胸の奥が切なく痛んだ。
「美憂は、ママとは会っているのかい?」
「……ううん。高校に入学してからは一度も会ってない。月に一度、短い手紙のやり取りを続けているだけよ。でも、ママは元気そうだから安心して。新しい恋人と暮らし始めたみたいだから」
「そう。ママも幸せなら、それで良かった」
「……ねえ、パパ」
「うん?」
「もし……。もし、私がいい子じゃなくなったら、パパは私に幻滅する?」
「そんなこと、あるわけないじゃないか。どんな美憂でも、パパは大好きだよ。日曜日に美術館に連れて行っていた小さな女の子が、いつの間にかこんなにも成長して。パパはそれだけで嬉しいよ」
「パパ、ありがとう。私、絵画が好きになれたおかげで、知らなかった世界が見られるようになった。そのおかげで、大切な出会いにも恵まれた。本当に、パパのおかげよ。赤ちゃんがもう少し大きくなったら、あの子もここに連れてきてあげてね」
「ああ。本当にありがとう、美憂」
 父娘は絵の目の前で長い間ハグを交わしていた。
 そんなふたりの姿を見て、いかさま師たちは何か言いたげな顔をしている。しかし、絵の中の少年だけは素知らぬ顔をして、自分の持つカードだけを神妙な面持ちで見つめ続けていた。


(つづく)


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