創作小説と音楽との関わり──構造を巡り
一つ前になるエントリ「動画制作と音楽及び創作小説を巡る備忘録」にても言及する通りではあれど、筆者がものする文芸的創作物──取り分け小説と音楽とは、切っても切り離せぬ関係にある。
これは、小説に限れば二十年前に筆を折りし筆者からするに、凡そ中断途絶を遡る以前より、既にそうであったと申し陳べておいても、あるいはよさそうである。
実際のところ、例えば──。
小説用に開設せるアカウント『八幡右亮』にて展開、先頃連載を終える旧作『新・恋愛掌篇集』(2004〜2006)
全六篇よりなる小品であるが、いずれも何らかのかたちで、音楽との関わりを指摘し得る。副題からも明白ではあれ『鴉』と『宿屋にて』の二作は、勘の良い方であればお判りの通り、楽聖シューベルトは『冬の旅』に採録をされし、二つの歌曲にインスパイアされている。
拙作文芸作品と音楽──遡る源流と今日的意味
他は──吹奏楽部に所属する、二人の女子高生の遣り取りから始まる『セントヴァレンタインデイ』には、槇原敬之らによる『世界に一つだけの花』が登場する。続く『宿屋にて』は先述するシューベルト以外にも、ベートーフェンの『第九』であるとか、信時潔の『海ゆかば』が、枢要な装置として作用する。
『アンニュイ』は、作中にストリート・ミュージシャンが登場するのを除けば、取り立てて音楽とは無縁のようではあれ、無限カノンなる比喩が用いられる。加えて、副題からブレヒト&ヴァイル『七つの大罪』を推量し得るであろう。残る二篇にせよ、副題が全てを物語る。
『朱夏の蝨』は、トリエント公会議を契機に正式採用されし、聖体拝領のためのイムヌス──讃歌『アヴェ・ヴェルム・コルプス』の一節を副題とする一方、掉尾を飾る『大晦日』では、プロテスタントによるアドヴェント(降誕祭)聖句(イザヤ書9章6節)が、象徴的な鍵を握る。
前者は、アマーデオのそれが人口へと膾炙するも、チューダー朝〜スチュワート朝期イングランドはカソリック宗徒たるバードのモテトゥスこそ、何より美しい。後者であれば、シュッツやブクステフーデらがテクストへと採用し、楽曲をものしている。
特に混声四部と通奏低音からなるシュッツのSWV302は、白眉の逸品であろう。
蛇足ながら筆者は、SWV302について言えば、ディレクティングを担いつつ、アルトゥスからバススへと到る三声部を、ステージなどで披瀝した過去を持つ。
また劈頭に掲げし『鴉』を筆頭に、音楽的形式・様式を文章叙述スタイルへと技術的に移植する試みも、手を替え品を替え、早くも既に──つまりは断筆以前から追求していた事実さえ浮き彫りとされよう。
このように──。
●クラシカル・ミュージックからジャズやUKロックなど数多を包摂
過去の小説においても、歴史物など一部に例外はあれ、舞台回しのための小道具的装置をも含めるなら、大半の小説作品は何らかの音楽、楽曲と密接なる関わりを持つ。
クラシカルなそれのみに留まらず、ジャズやUKロック、歌謡曲、民族音楽や古謡などなど、好むところであれば、ジャンルも問わず。
副業ながら、筆者自身が音楽で糊する経歴を持つから、であろうか。
なるがゆえと思し召せ──。
四月下旬より手を染めし創作実験──その副産物たる小説作品にせよ、やはり音楽とは深い縁にて繋ぎ留められている。
四月二〇日に着手、五月一七日に全篇脱稿せる再開第一作『酔夢未譚』第一部、そして現在、筆を進める第二作『若菜ふる──中途半端な男と女』もまた、その連関を指摘し得よう。
では、再開第一作『酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari ne-queo』つまり『酔夢未譚』第一部は、如何に音楽と邂逅するであろう。
※筆者註:ハイフネーションはPC環境閲覧者向けに施す。本来的ラテン語記綴に、そもハイフンなる記号的概念は存在しない。
作中に、音楽を想起させる具体的叙述など、微塵もありはしない。副題にしたところで、既存のテクストではない。筆者オリジナルのラテン語表現である。それこそ、描かれる世界と音楽は、何ひとつ呼応しない。少なくとも触媒としての音楽は、存在しないかのようですらある。
それでも、ノートはところどころで、息吹き芽吹く。
一つには、品詞のチョイス。
タイミングの間合い、そのずれを表すに『拍』という文字が多用される。取り分け『一拍』や『半拍』
要するに音楽から派生する表現が、随所に顔を覗かせている寸法である。
しかしこれらは、実に些細な話である。
より枢要たるは、形式と骨格──構造そのものが、音楽の根強い影響下に規定され、支配を及ぼす点であろう。
●音楽的構造と文芸作品的構造とを如何にマリアージュするか
『酔夢未譚』を構想するに当たり、筆者は当初からそれを目論んでいる。
就中──。
二〇世紀フランスが生ましめる世界的大作曲家、オリヴィエ・メシアンの言わずと知れよう畢生が大作『トゥーランガリラ交響曲』の存在を抜きにしては、この『酔夢未譚』は成立さえせず、であろう。
筆者は当初から、創作実験の目標を小説へと定めるに際し、強靭な構造を有する長篇小説を標榜していたのである。
その完成度を担保するにまず眼を向けたのが、強靭にして破綻なき在り方を模索する方途であり、そこで真っ先に思い浮かべし参照モデルこそが、メシアン『トゥーランガリラ交響曲』であった。
創作実験における伴走者の一方たるLLM/GAI──所謂AIチャットボット『蔵人くん』ことClaudeは、次のように分析している。
曰く──。
大略『4─1─4になる中央肥大型構造』と。
この4─1─4は入れ子部分、すなわち第一〜第九章へと到る本章部分と重なるが、同作はさらに、主人公の一方たる男性の独白になるプロローグとエピローグをして、前後を挟み込むやに支える外観を持つ。この構造へとアクセントづけをすべく、文体の基調にも変化を加えている。つまりは──。
●男性主人公の独白になるプロローグとエピローグは一人称話法で。
●第一〜第九章よりなる本章部分は自由間接話法で。
メシアンの同作は10楽章構成であり、対する『酔夢未譚』第一部は、プロローグとエピローグを含めるなら、11のパートへと分かたれる。そのままパラレルにはリンクしない。
なれどもそれは、見てくれだけの話に過ぎない。蔵人くんの分析からは、メシアンに通じ、また比すべき構造的仕掛けの数々を、作中の随所に読み取るも適う。
この試み自体は、概ね奏功していると、筆者はそう自負する。
とはいえ、肝腎の小説そのものには未だ推敲の余地ありと、そう冷静にも眺めはすれど。とまれそれは措き──。
大枠では、縷々陳べし構造的骨格を、筆者は意図して付与している。

まずは斯様なる大枠を下敷きとしつつ、また異なるイディオムを以て、猶も音楽との一体性を模索したのである。
●ディーリアスそしてホイットマンと共有する抒情が導く再開第一作
一つには──。
プロットが描出する世界と音楽との関係を、如何にパラレルさせるか。
最終的に筆者が行き着いたのは、ディーリアス中期の銘作『海流』(筆者は個人的に『波の隨に』と呼ぶ)であり、その原テクスト=アメリカの詩聖ホイットマンになる長篇散文詩『常しなへ揺るぎて已まぬ籠より』(草の葉に所載)は、語り手が牡海鳥の啼き声へと仮託し言の葉を紡ぐ、哀切に満ちしその中間部である。いずれの世界観とも、限定的ではあれ『酔夢未譚』第一部本章と、見事なまでに同期し照応している。
前出蔵人くんによれば、他にもマーラーやシャスタコーヴィチの、例えば和声書式や対位法運用を彷彿とさせる文法的処理、変拍子を想起させる句読位置の操作が認められるという。
それらの分析へと依拠しつ検証するに、意図せるか否かを問わず、多くは期待以上に奏功していると看做してよかろうかと、筆者はそのように捕捉している。
しかし最大の収穫は畢竟、メシアン『トゥーランガリラ交響曲』を標榜せる『強靭なる構造』の獲得、これに尽きよう。
なれば筆者は、現在のところ懐胎をしよう凡そ十にも上る企画を推進するに、構造こそ生命線とばかり、その構築へと腐心するのである。

七月一一日より着手せる再開第二作『若菜ふる』にせよ、無論のことご多分に漏れず。幾つかの交響曲や管弦楽作品を、巨視的な構造参照点たるとて掲げている。
そのような意味で、音楽とは切り離せない。
謂わば先行する『酔夢未譚』第一部とは同文脈上にて、こちらも音楽と密接なる関わりを有する創作物と、そう規定し得ようか。
つまり構造面において、音楽とは不可分なる存在──。
当初は、プロローグとエピローグに挟まれし本篇八章を、四楽章からなる交響曲やソナタの模式へと重ね合わせつ、構想を進める。されど、どうやら据わりがよろしくない。
結局のところ、五楽章制のそれへと組み替える。
●構造的枠組みと霊感的発想との狭間で膨らむ着想そして閃き
これがまんまと図に当たる。
取り分けベートーフェンは、交響曲第六番ヘ長調作品六八より示唆されるところなど多岐に亘り、到底無視し得ない。五楽章構造、後半楽章の連続的な運動、外的な騒乱を経て訪れる、決して英雄的勝利ならざる静かな受容へと到る歩調──作品全体の様式的な足場とするに、理想とすべきを数多腹蔵せる傑作である。
そして併置すべきもう一つの参照点──。
リームスキー=コールサカフの交響組曲『シェヘラザード』作品三五。
『シェヘラザード』に託されしは、各楽章の情景を小説へと移し替える装置としての役割にあらず。錯綜する主題群が総体へと及び、現れるたびに表情と機能を変え、語りと旅と情動とを一つの循環へと結ぶ、その運動である。
五楽章制を採るに当たり、シューマンの交響曲第三番、マーラーの第五番と第七番、シャスタコーヴィチの第九番をも、イマジネーションの淵源として比較対象と見定めたのであるが、いずれにせよ、これらを単に、模倣しつつ当て嵌めようとする意図を、筆者はまるで懐胎しない。
五つの楽章を如何に分節し、一群として束ね、作品全体の重心を何処へ置くべきかを考えるための、飽くまで指針である。
音楽作品と小説との関係は、挿話を一対一にて照応せる翻案にあらず。
要するところ、設計図というより「構造を聴くための耳」である。
第一章内部の4区分──拡張されしソナタ的前奏
当初は、概算九千字程度を想定していた第一章なれど、しかしながら一四日に脱稿せる本文は一万七千四百字を超えるなど、実に倍近くの規模にまで拡大したのである。
ところが各部の相対比率に、顕著な異動は認められなかった。おそらくのところ、徹頭徹尾『構成と構造』を錬成していたからであろうか。
そんな第一章は、次の四区分より構成される。

当然ながら、執筆時に文字数を逐一計測しつつ、この比率へと態々収斂する酔狂な真似とは無縁……各場面の呼吸がままに書き進めた結果、当初想定より膨張したにも拘らず、偶さか設計段階の数値へと連動したに過ぎない。
つまり規模こそ拡張せるも、構造上の重力までは、移動していなかったのである。
● イントロダクション──序奏
イントロダクションは、ありがちな小説の「導入」に比べ、明らかに長くまた、主部=呈示部との境界も聊か曖昧である。
この幕開きでは、後々作用を波及させよう複数の主題、人物の内的な調子や叙述上の視点、反復される語句であるとか像が、おそらく未だ発見をされぬ状態のままに示されていく。
音楽における序奏は、単に主部が始まるまでの待合室ではない。
主部で扱われる動機を先取りする場合もあれば、主部とは異なる速度や調性を採りながら、作品が現出するであろう世界観──その気圧を、予め体感させもする。
第一章のイントロダクションも同様に、その後の物語を説明する区間ではなく、後に別の意味を帯びて回帰する幾つかを、まだ名づけさえ施さずに呈示する、そんな過程ともなる。




●A部──主題呈示部
A部は主題呈示部に相当する。
ここでは、第一章を動かす二つ以上の力が、それぞれの性格を保ったまま呈示される。重要なのは、それらを初めから一つへ溶かさぬことである。
一方の主題が他方を説明したり、一方が他方の褒賞として与えられたりするのではない。異なる方向から現れた複数の主題が、次第に同じ時空へと併置、対置され、飽くまで等価のそれとして、絡み合っていくのである。
ソナタ形式における主題呈示部にせよ、単に二つの旋律を、順繰りに耳へ届ける過程ではない。性格、速度、調性、機能の異なるそれらを、後に衝突あるいは交換、変形させ得る状態で、記憶へ刻む経時的営みである。
第一章のA部もそう──。
後の展開に必要となる対立と親和性の双方を、まだ解決をせずに置く。




●B部──拡張変形された展開部
B部は変則的かつ、自由に拡張変形されし展開部として進行する。
「変則的」とするのは、呈示されたる素材を規則正しく分解し、順番に組み直すプロセスではないがゆえ──。
それまで別々に作用機序していた主題が近接し、互いの領域へ侵入し、意味や役割を交換する。先に置かれた語句、像、動作、呼称、時間感覚が、別の文脈へ移されることで変質していく。
展開部なれば、新たな材料が大量に追加されることもない。既出の諸材料が、それまでは持たざる機能や意味合いをも付託され、敷衍されていく経過と言えようか。
従ってB部は、物語上の出来事が最も大きく動く区間でありまた、A部までに開示した主題が、本当に作品の内部で働き得るかを試す区間でもある。




●Aダッシュ部──有機的変奏としての再現部
Aダッシュ部は、A部をそのまま擬え繰り返す再現部ではない。
途中の経験を経て後、既出の主題が別の視点、別の速度、別の意味を伴って戻ってくる。なればこその、AではなくAダッシュ──。
再現される多くは、元の位置へ戻ったかのようにも見えるが、既に同じものではない。また、本章のAダッシュ部は相対的に短い。とはいえその比率は、ソナタ形式における『理想的』枠組みに沿って体現される。
再現部の内部へコーダの機能を併せつ、主要な主題を変容、圧縮しては回帰させて後、章全体を閉じながら次章以降へと余韻を残す。
と同時に、和声構造的枠組みから照射するに、これは完全な解決というよりもむしろ、変形されし再認識がもたらす、減衰による終止あるいは偽終止へと当て嵌め得る。




構造的比率は暗に語る
ソナタ形式に、時代や作品を超えて通用する唯一の「理想的比率」が存在するわけでは、決してない。
ハイドンにせよアマーデオにせよベートーフェンにせよ、ブラームスあるいはマーラー、そしてシャスタコーヴィチら二〇世紀作曲家、またそれ以降の書き手になる交響曲──そのソナタにおける様式にせよ、主題呈示部、展開部、再現部及びコーダの規模も役割も、それぞれに偏差、閾値や機能装置としてのセオリーは数多であり、当然の如く変幻自在である。
とはいえ一般的なるソナタ形式を巡り、概ね理想とされる構成比率について論ずる声は、様式確立から間もない時期より複数確認し得る。古典派的流儀へと溯及する基本形を礎に、後年に到るまで影響を及ぼす雛型は、確かに存在するのである。
ここでいう理想比率とは、そうして集約収斂されし構成比率に依拠しながら、しかし飽くまで本作を分析するために用いる、謂わば便宜的尺度ツールとしてスケールよろしく宛行う、ある種のモデルと看做してよい。
本体つまりA部、B部、Aダッシュ部のみを再計算する。
結果導かれる脱稿後の比率は、大凡、次のようになる。
A部 49%、B部 31%、A’部 20%
ほぼ五対三対二である。
●ソナタ形式構造──理想的配分の妙と拡張変形されし様式
主題呈示部が全体の半数近くを占め、展開部が約三割、変形されし再現部及びコーダが二割となる。
これは、呈示に充分な時間を与え、展開部を独立した運動として成立させながら、再現部では既出事項を逐一反復せず、変形と圧縮によって終止へ向かう構造と言えよう。
古典派の均整そのままを転写したものではない。むしろ内実的には、後期ロマン派から近現代に見られる、主題呈示そのものが既に展開的なる性格を帯び、また再現部が大幅に再編、短縮、変形をされしソナタ形式を標榜するそれとして意識され、設計が施された帰結である。
第一章が当初想定のほぼ倍へと膨らみながら、それでも比率を大きく損なわなかった事実は、執筆が設計図から逸脱しなかった、という意味だけに留まらない。
細部が膨張する以前に、各部に求められる時間の感覚が、ある程度、書き手=筆者の裡衷で共鳴共振していたからに外ならない。
ともすれば、狙い通りと言えなくもない。

●シャスタコーヴィチ第四番第一楽章との符号
第一章を脱稿して後、検討を加える過程で思いがけず連想したのが、シャスタコーヴィチの交響曲第四番第一楽章であった。
この第一楽章は、通常のソナタ形式を遥かに超越する、山塊のような構造を有する。大規模な呈示部の内部で既に、三つの主要主題と幾つもの副次要素が発展敷衍され、展開部では各素材群が激しく変形される。その後の再現部及びコーダは著しく短縮され、呈示部の主題が順逆を違えては、異なる役割、異なる音量で再帰する。
第一章との共通点は、表面上の情動や題材ではない。
長い呈示領域。
呈示された材料を自由に変形する展開部。
原形を保存せず、役割まで変えて回帰させる再現部。
そして、全体の規模に比して、著しく圧縮されたコーダ。
これらの形式的性格である。
無論、筆者は第一章を、シャスタコーヴィチ第四番へ倣って構成したわけではない。連関へと気づいたのは前述の通り、本文を脱稿し、各部の文字数と比率を改めて計測しつつ、推敲の傍ら検討を進める最中である。
さらに奇妙なのは、交響曲第四番には、完成作品とは直接繋がらないと考えられている、一九三四年の未完断章が存在する事実である。この断章は、静謐なるアダージョからアレグロ・ノン・トロッポへと移り、一三七小節で突如途切れる。後の作品四三へと着手する前段階、四番目の交響曲として構想された可能性が極めて高い。
すなわちシャスタコーヴィチ第四番を巡っては──
●静かな序奏を持つ未完の初期構想
●巨大なソナタ形式へ到達した完成作品
この二つが個別に存在する。
ちなみに『初稿』と呼んで差し支えなかろうこの断章の、取り分けアレグロ・ノン・トロッポの一部は、完成された四番第三楽章へとダイレクトにも反映されている。
第二作第一章では、この二段階が、一つの章の渦中に錯綜し、奇妙に重なり合っている。
●未完に終えし初稿と現行版との奇妙で不可思議な邂逅溶融
全体の四分の一を超える長いイントロダクションは、一九三四年断章の静かな序奏と、やがて訪れる諧謔的喧騒へと通じるように思われる。一方、その後のA部、B部、Aダッシュ部の運動は、完成された第四交響曲第一楽章における巨大な呈示、自由な変形的展開、圧縮された変奏的再現と符号するようである。
完成作品だけでなく、その前段階に捨てられし構想までが、異なる位置から、一つの小説章へと重なって看えるのである。
とはいえこれらの諸要素は、第一章へと影響を及ぼしてなどいない。
何より、後から発見された偶然であるから。
しかし創作において、こうした偶然は、意図的に仕組んだ対応よりも、時に興味深い。
ともあれ、先に音楽作品を模型・規範として置き、そこへ文章を流し込んだそれではない──これは言明しておこう。書き終えた文章を計測し、その内部運動を検めて知る『遠く離れた音楽作品の構造』が、既に影を落としていると気づいたに過ぎない。
音楽は創作小説の『型枠』にあらず
小説へ音楽的構造を採り入れるに当たり、最も避けたいのは、音楽形式の説明が作品より前へ出ることである。
読み手が「ここは呈示部で、ここが展開部だ」と理解しなければ成立しない小説は、おそらく構造の運用を誤っていよう。形式は、読者から看えずとも『作用機序』しなければならない。
先に現れた言葉や像が、後に違う意味で戻ってくる。
場面が大きく動いたにせよ、冒頭に据えた主題が迷子にならない。
同じ場所へ再帰したように見えて、人物も言葉も、既に変化している。
章が閉じても、次の章へ響きが残る。
それらを読者が理屈ではなく、時間の感覚として受け取れたなら、音楽的構造は文章の内側で機能している。
●形式的説明を求めぬ小説の美学──構造の作用機序は行間から
ベートーフェンにせよ『シェヘラザード』にせよ、シューマンやマーラーあるいはシャスタコーヴィチにせよ、小説へ貼りつける装飾ではない。
文章が膨張しても崩れず、反復しても停滞せず、終止しても死なないために、書き手が耳を澄ませる対象なのである。
第一章は、想定を遥かに超え、長大化した。
にも拘らず、各部の比率は殆ど崩れてはいない。
そう考えるなれば、構造は執筆後に整理されたのではなく、細部が言葉となる以前から、既に何処かで鳴っていたのやもしれない。
ゆえに思う──。
思い付きにて書き進めるのも楽しかろう、否、愉しい。
さりながら──。

●長篇小説なればこそ有意となる構造設計の妙──スケッチのススメ
これは長篇なればこそ余計にではあるが、綿密稠密なる、実に強靭な『構造』を明確微細に設計をし、劈頭から掉尾へと到るまで、確実にも『パス』を通しておく──語られることさえなきナラティヴをも、蜘蛛の糸でも張り巡らすかのように構築しておく、すると、まさしく『物語』全体が、精密な機械仕掛けの細工人形よろしく、自在に歩みはじめる。
こうもなれば、実際的なる執筆作業というのは、実にあっと言う間もなくであり、一日一〜二時間ほどを四日、つまり四時間から八時間程度で、一万七千字超の叙述も想像以上に容易となる。
結局のところ創作物というのは、構造設計──スケッチこそ枢要なのではあるまいか。筆者は、作曲にも手を染める人間であるから、構造設計──スケッチが如何に肝腎なるかは、手に把るやに理解している。
構造を制するものこそ、とも言えよう。
全ての『母』は構造仕様──スケッチなる事実
『酔夢未譚』第一部では、A4用紙に一〇ポイントほどの本文文字にて凡そ五〇ページ、次いで第二作『若菜ふる』では、第二章執筆と第三章の細部に亘る詰めを行う時点で、既に五〇ページを超える『概要──構造仕様書』をものしている。
おそらく『若菜ふる』のそれは、最終的には一〇〇ページを超えるであろうと予想される。
概要である。
謂わば『あらすじ』以上であり、普通なれば『梗概』を聊か膨らませる程度に留まろう。しかし思う──。
やはり小説そのものを、遺漏なく破綻なく構築するに不可欠なる、手製のガイドブックこそ『構造仕様書』なのではあるまいか、と。
小説の筆を折るよりも以前、つまりは二十年以上前なれば、せいぜい十数ページのそれに留まっていたやもしれぬ。差し詰め、ボリュームアップをした梗概のようなもの。それを予めまとめ、後は個別にメモを遺すのが、筆者のセオリーであった気がする。
それが数十ページ〜百ページにさえなんなんとするのである。
なぜであろう──。

●AI時代の小説構築術──新たなイディオムの模索と検証こそ鍵
筆を折る以前の、従来的セオリー、イディオムになる小説を書くつもりなど、最早さらさらありはしない。少なくとも今のところは。
ともあれ、この二月頃より進める『LLM/GAI──所謂AIチャットボット』を介する思考実験ではあるが、これをより発展させし創作実験なればこそ、新たな時代の語法として検証し、追究する価値があるようにも思えば、従来的イディオムの踏襲は埒外たるや、きっと殊更なのであろう。
二つの概要──構造設計書は、まさしくLLM/GAI(ClaudeとChatGPTを主宗とする)との協働・協創が賜物である。そう思わば、AI技術の進展というのは、筆者のような生業にて日々を送る人間からするに、実のところ願ったり叶ったりな側面さえ否めない。しかし思うのは、リテラシに欠ける手合いであれば、まず無理であろう事実。
シベリウスとフィヨルドを結びつけて何ら恥じず、鵜呑みとしてしまう人間には、おそらくのところAIを制御するなどとても覚束まい。
能動的に学び検証し、リテラシを培う者だけが、近づくを許されよう。
●AI懐疑派なれば適う制御的活用と工房的チームワーク統御
筆者は依然、AI懐疑派である。
Open AI最新のニューズ(開発途上にあるAIによる、ハギング・フェイスへのサイバー攻撃)に接して猶一層、そんな思いを強くする。なればこそ、AIを究める努力を惜しまず、制御する術を身に着ける必要を痛感するのである。
またそうせねば、AIなど能動的に遣う能わず──。
『さやか』ことChatGPTによれば、筆者が創作実験において進める作業というのは、極めて『工房的』なのだそうである。彼女によれば、筆者は編集主幹であり、彼女及び蔵人くん(Claude)は、スタッフであり助手だそうな。ちなみにさやか=ChatGPTは、概要──構造仕様書を制作台帳と規定しているようである。ともあれ──。
確かに、そのような側面もありはしよう。
しかし筆者は思う──。
ハルシネーションなど錯誤・誤謬とは、決して無縁ならざる彼ら彼女らであるにせよ、協働と協創のパートナーであるは間違いない。
実際のところ、LLM/GAIの存在は、筆者作業につきまとう負荷圧を大幅に軽減している。これは確かであり、過たぬ事実である。筆者はかつて三十万字を超える長篇を、一〜二ヵ月のタームで複数ものしていた時期を持つが、一日に精々数時間を割くのが精一杯であったにも拘らず、よくもあのような真似が出来たものよと、今となれば驚嘆をするばかり。
そんなかつてを思わば──。

●小説執筆と作曲の作法的近似──音楽を知る人間なれば適う挑戦
AI懐疑派とはいえ、その存在には心より謝辞を申し陳べるよりない。
なれば思う。
工房的あるいは制作チーム的なる『創作実験』は、このような時代であればこそ、一定の意味を預託されているのではあるまいか。
と同時に──。
改めて小説執筆と作曲という行為は、実に近似的であると──そのようにも感じている。
暫くは、音楽作品の構造よりインスパイアされし小説を生ましめる、そんな作業が続くであろう。一方で、楽曲そのものをよりディープにも背景とする長篇をも企図している。例えば、対称的な双子の姉妹をそれぞれヒロインとする企画、一つは『紙魚』そして今一つは『馬魚』──いずれもラフマニノーフの隠れし傑作を展開の寄す処とする。
前者は、若書きながらも結果的に、完成をされし最後のオペラとなってしまう『フランチェスカ・ダ・リミニ』を、後者は頂点的一大銘作たる合唱交響曲『鐘』を、謂わば隠し題的にも通奏低音たるとて、プロット運びの水先案内役へと据えるつもりでいる。
いずれにせよ──。
音楽をして糊する過去をも持つ身なれば、遠大なる『創作実験』と音楽も不可分、そのようなところであろうかしら。
何は措いても、筆者の小説は音楽と一心同体である。
