日本酒と焼ビーフン|34歳、離婚後のマッチングアプリ日記
日本酒とワインが好きだ。ワインは家でボトルを開けて数日かけて空けてしまう、ひとりでも。だが、量の多い日本酒をひとりで空けるのは至極難しい。だから日本酒は外で飲むことにしている。
食中酒として優秀な日本酒。だけど日本酒を飲むお店で、おしゃれかつデートに向いたお店は意外とすくない。味のある和食料理屋になってしまう。味のある店とおしゃれなバーのちょうど真ん中のお店が、池尻大橋にある「日(ひ)酒場」だ。
マッチングアプリで出会った銀杏の君と、4回目のデートである。今回は私が行きたいお店に行った。
「日(ひ)酒場」は、デートで有名なお店「Sta.」をつくった奈雲さんが、2025年春につくったお店である。会社員をしながら飲食店経営をするという、体力とセンスが化け物な同世代だ。
そして「日(ひ)酒場」でマスターを務めるのが、なんと福岡で学生時代に同じバー・アフターザレインで働いていた、のりやだった。
まったく別々に出会ったひとが、お店を始めるというニュースは、驚きしかなかったとともに「生きていてよかったな、人生だな」とも思った。いろんなひとの人生の分岐が、こうして目の前でお店という形で現れる。長く生きてみるのも悪くないなと思える。

柴犬のように屈託なく笑うのりやは学生時代と変わらぬものの、バーのマスターとして料理もお酒もつくる。腕が4本くらい生えているように見える。アフターザレインの後、福岡の有名な和食店「女とみそ汁」で働き、広告代理店に就職したものの、東京に出て門前仲町の酒場「酒肆 一村(しゅしいっそん)」で働き、いま「日(ひ)酒場」のカウンターに立っているという。

前回来店した時はコースで頼んだけれど、今回はアラカルトで。最初に3品お通しがくる。お通しといってもしっかり量がある。緑の野菜の焼き浸しにかんずりをつけて食べる。野菜が食べられるのが嬉しい。ローストビーフと、卵とカニがほろほろしたマカロニサラダをつまみながら酒トニックを飲む。日本酒を使ったカクテルが飲めるのも、「日(ひ)」のいいところ。
頼んだぶり刺しは、青唐醤油で漬けに。茗荷が細かく刻まれていた。今回頼まなかったけど、前回頼んだ蛸も美味しかったな。
そして楽しみにしていたのは、締めの焼きビーフン。メニューには麻婆とニラと玉子の3種類ある。前回麻婆を食べたので、「次はニラを」とおすすめしてもらって食べた。ニラと油を絡めながら、モリモリの焼きビーフンをあっという間に食べてしまった。「この量、食べられるかな?」と思ったものの杞憂だった。美味しくて写真を撮るのも忘れて完食してしまったので、写真は前回の麻婆焼きビーフン。全部コンプリートしたい。次は玉子を頼もう。

あったかいお茶を頼んだら酒器で飲ませてくれて嬉しかった。
店内は薄暗く、赤いカーペットと壁にはレコードが収まっている。レコードの音楽を楽しみながら、日本酒と美味しい料理をつまむ。違和感がひとつもない店。気が抜けるというかリラックスできるというか。デートにいいお店すぎるので、ぜひ「みなみやんのnoteを読んで」と行ってくれたら嬉しい。
肩の力が抜ける瞬間
スピーカーから流れる音が大きくて、肩を寄せ合って耳元で会話する。その距離感も心地いい。
そんな中で、ふと気づいた。
なんでこんなに安心するのかっていうと、この人はちゃんと私の目を見て話してくれるし、話している間スマホを見ない人なんだって。
今まで私は、ずっとひとりで気を張って、悲しみや怒りなどを感じないようにいろんな感情に蓋をして生き延びてきた。
身体が緊張していたんだなって気づくのは、いつも力が抜けてからだ。人との関係を通して自分を見つめ直す瞬間が多い。
気づけば、いつも身構えていた。誰かを頼ることも、弱音を吐くことも、怒るといった感情を素直に出すことも、どこかで「してはいけないこと」だと思っていた。だって、ひとりで頑張らなければ、生き延びられなかったから。
でも本当は、もうひとりで頑張らなくていいんだよ、適切に怒ったり悲しんだりしていいって思える関係がいいなと思う。
背中を預けることができる相手。それがパートナーではないだろうか。
結婚しても、結局ひとりで頑張らなければならなかったのが、2回目の結婚だったといま振り返って思う。背中を預けられないことは、本当にしんどい。
背中を預けるというのは、相手を信じること、そして自分を委ねること。言い換えれば、コントロールを手放す勇気なんだと思う。そこには、無防備でいる恐怖と、受け入れられる安心が共存している。
いまは新しい出会いがある。穏やかで静かな幸福を感じつつも、同時に怖がりで臆病な自分がいる。
怖がりで臆病なのは、痛みをよく知っているから
人はかつて傷ついたところを守ろうとして、臆病になる。背中を預けたいと願いながらも、どこかで身構えてしまう。
「またひとりで頑張らなきゃいけなくなるのではないか」
「もし委ねて裏切られたら、次は立ち上がれないのではないか」
今度こそはちゃんと信じられる関係でありたいと願っているからこそ、その扉の前で慎重になる。
同じようなタイミングで離婚した友だちに彼女ができて「みなみやんも付き合った?」って聞かれたけど、いやいやまだまだ無理でござる。という気持ち。そして、時間をかけるべきところに時間をかけてくれる、相手の成熟さとやさしさがある。ちゃんと私を見てくれるように、私もちゃんと相手のことを見たいし、目の前の人を大切にしたい。
でも傷ついたからこそ、心の底に怖がっている自分がいる。
いつかいなくなるのなら、最初から距離を取っておこうかなとも迷う。信じて、委ねて、そして失う。その痛みをもう二度と味わいたくない。だからこそ、心は慎重になる。
でも、「いなくならないで」という思いに蓋をせず、その恐れを見つめ、認めることはできた。それは、自分の依存や不安を正直に引き受ける勇気であり、心の成長のようにも感じる。
脆くて、弱くて、怖がり。それが私だ。
もしかすると、わたしが本当に求めているのは、相手そのものではなく、「自分は見捨てられない存在だ」という自信なのかもしれない。
「私の前からいなくならないでほしい」という願いの根には、安心していられる場所を求める心がある。ただ、誰かの存在を欲しているだけではなくて、「もう構えなくていい」「もう戦わなくていい」という安堵を感じたいという切実な願いがある。だから、誰でもいいわけではない。
安心とは本来、外の世界から与えられるもののようでいて、私たちの内側にゆっくり育つ感覚であるはずだと思う。
なのに過去に突然いなくなってしまった誰かや、支えを失った瞬間を経験している人ほど、外側の安心を強く求める。なぜなら、心がかつての不安をまだ覚えているから。
「もう置いていかれたくない」「ちゃんとそばにいてくれるって信じたい」
その声を、まずはわたし自身が静かに抱きしめてあげたい。「大丈夫だよ」「私はもうひとりじゃないよ」って。
過去の喪失、信頼した人が突然離れた、親の感情が不安定だった、愛が条件付きだった。
そんな経験から、「大事な人はみんな私の前からいなくなる」とも思ってしまう。でも、人は完全ではないけれど、それでも信じることを選べると思う自分がいる。たとえ裏切られたとしても、痛みを感じられることは、回復の過程でもある。十分味わうことで回復は、はやくなる。だから必要以上に蓋をせず、臆病にならなくてもいいのかなって。流れに身を委ねてしまおうと思います。
相手を助けるのではなく寄り添うこと
もうひとつ気づいたことがある。
他者の期待に応えることでしか存在を感じられなかった幼少期の影響で、「助けたい」「支えたい」が過剰になり、自分のニーズを後回しにしてしまうパターンがあった。
だけど、今回は過剰に助けようとしない。それはその人の問題だからと境界線を引けている。無理な献身や過剰な共感から解放される。相手を助けるのではなく共にいる関係を初めて築けるように。
だから、ゆっくり、ゆっくりでいい。少しずつ、時間をかけて育むこと。
めんどくさい部分こそが私の一番柔らかくて、一番人間らしい、かけがえのない部分なのだから。
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