【連載小説】夏の果実が未来を紡ぐ。——翠緑の循環【9】(全9話)
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【登場人物】
主人公:ミキ 1997年9月6日生まれ
ミキの兄:ケンイチ 1992年生まれ
ミキの父:マコト 1964年生まれ
ミキの母:マヤ 1966年生まれ
ミキの祖母:ナツエ 1937年7月1日生まれ
ミキの祖父:コウイチロウ 1933年生まれ(享年58歳)
伯父(マヤの実兄):ソウタロウ 1963年生まれ
伯母:ヨシコ 1966年生まれ
従兄:リョウタ 1989年生まれ
従姉:アンズ 1994年生まれ
従姉:カナエ 1997年7月27日生まれ
搭乗エリアのスタンドショップで、ミキが飛行機を眺めながらコーヒーを飲んでいると、ケンイチが小走りでやって来た。
「ごめんごめん、ちょっと病院に顔出してたら色々遅れちゃって」
「ううん。忙しいのに、付き合わせちゃって。ありがとう」
ミキは、もう一つコーヒーを注文した。
「宮崎到着が15時過ぎだっけ?」
ケンイチが、少し値の張りそうな腕時計を覗いて言った。
「そう。今日はレンタカー借りて、泊まって、明日が本番だね」
ミキが、カップを回して、底に残ったコーヒーに渦を作る。
やがて搭乗案内がアナウンスされると、2人は搭乗口へ移動した。
機内では、ケンイチが離陸前から、口を半開きにして寝息を立てていた。
全国的に天候も良く、2時間弱のフライトを終えて空港から外に出ると、夏を待ちきれない日差しが風に乗って、2人の白い肌を叩きつける。
小走りにレンタカー会社の送迎バスに乗り込んだ途端、頭から冷風のシャワーが注ぎ、汗が一気に乾いていった。
「天気良くて良かったな。振り出しに戻るとこだ」
ケンイチが、コーラのペットボトルの蓋を開けた。
「ホントだね」
窓ガラスに額を当てて、外の絵葉書のようなフェニックスを眺めて言うと、ミキのスマートフォンが光る。
「あ、カナエちゃんから。気を付けて、グッドラック、だって」
ミキは、画面をケンイチに見せて、親指を立てた、大きなスタンプを押した。

ケンイチの運転でレンタカーを走らせる。市内までの道を少し遠回りして、道の駅に寄った。車に戻ると、ミキはレジ袋をぶら下げていた。
「何か買ったの?」
ケンイチがシートベルトを締めながら、袋に目をやった。
「売れ残りだけど、トマト」
ミキが、小ぶりだが真っ赤な果実をケンイチに渡し、もうひとつを自分でかぶりついた。
「汚れるだろ」
と、笑いながら、ケンイチも口に入れる。
「甘いね」
一口食べて、ミキが言う。
「うん、甘い」
ケンイチも、手を止めて、トマトを見つめた。
「美味しいけど、ばあちゃんのとは、全然違った」
「そうだな」
2人は、無言で、残りを口に入れた。
あの特別な味には、もう二度と出会えない。ミキたちの舌には、あの輝きが閉じ込められていた。
あの真夏の6日間から9年が経ち、世間ではメスのパンダの赤ちゃんの誕生と成長が話題となっていた。
ミキは大学2年生に、ケンイチは医師国家試験に無事合格し、研修医として地方の大学病院で働き始めていた。
ばあちゃんは、次第に肺炎を繰り返すようになり、時々入院したという報告を聞くようになっていた。
次の正月に、皆でソウタロウおじさんの家に集まろうと言っていた秋の終わり頃の早朝、母のスマートフォンが静かな寝室に鳴り響いた。
「そう……。うん、うん。じゃあ、日程決まったら、教えてちょうだい」
ミキと父が見守る中、母は、そっとスマートフォンを裏返しにしてテーブルに置き、
「おばあちゃん、つい、さっき、亡くなったって」
と、言った。
驚きもせず、覚悟が決まった表情だった。
「人の思い通りにはならんもんでねぇ」
ミキの脳内では、ばあちゃんの声が再生されていた。
ドラマだったら、崩れ落ちて大泣きする場面だろう。
あんなに大好きだったばあちゃんが亡くなったのに、ミキの目からは涙が出なかった。
ただ、葬儀の日程が、試験と重ならないか、そのことが頭に浮かんでしまった。
数日後、通夜が終わり、葬儀が始まろうとしていた。
お棺のばあちゃんは、綺麗に化粧をされていた。ミキは、自分が知っている姿に限りなく近くなっている、その技術に感心していた。
ソウタロウとヨシコが、次々とやってくる人々に挨拶をしている。
その横で、何人もの葬儀社のスタッフが、忙しそうに行ったり来たりしていた。
ミキはケンイチと一緒に、大学生となっていたカナエや、社会人のアンズ、そして三十路を目前にしたカナエたちの兄のリョウタと、ばあちゃんの思い出話や、近況報告をしていた。
時間が来ると、厳かな葬儀が開始された。
しかしそれは、どことなく形式的なビジネスのようにも見えた。
ミキは終始スカートとストッキングにまとわりつく静電気の不快さに、体を微調整しながら耐えていた。
焼香のために、ミキが席を立って前に出る。
祭壇に整列した、美しく、そして無機質な花たち。そこには土の香りは全くない。
右手の指で感じる、抹香の粒々した圧迫感と、立ち込める香の匂いと熱だけが、ミキの剝き出しの感覚を呼び覚ました。
葬儀が終わり、火葬場へのバスが連なる。
火葬場に着くと、タイムスケジュールに合わせて、スムーズに物事が進んでいった。
スタッフは、ゆっくりと穏やかな声色で案内をしていたが、明らかに予約時間を気にしていた。
最後のお別れ。文句も言わずに、ベルトコンベアに載せられているような、ばあちゃんの顔を見つめた。
ミキは、ばあちゃんとの思い出をなぞりながらも、無機質に口を開くエレベーターを睨みつける。
全身の毛穴の場所がわかるくらいに皮膚がモゾモゾして、ミキは大きく鼻をすすった。
音もなく、エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、ばあちゃんは向こうへ消えていった。
火葬の間、控室では食事が並べられ、それぞれ適当に席についていた。
半分以上、ミキが知らない人々の黒色で部屋は埋め尽くされ、同窓会のような賑わいになっていた。
葬式はみんなが泣いているものだと思っていたミキは、どう過ごしていいのか困惑していた。
ソウタロウおじさんや、ヨシコおばさんも、普通の親戚の集まりのように、飲み物を振舞ったり、時折笑い合ったりしている。
隣では、母のいとこにあたるおじさんが、
「ケンイチ君、医者になったんやてな。おじさんのこと、覚えとるか?小さい頃、キャッチボールしたことあるんだぞ。マヤちゃんも、安心やねぇ」
なんて言って、母もまんざらでない表情で返事をしていた。
急にミキの周囲の音が小さくなったように感じる。
汗をかいた右手を顔に当てると、抹香の匂いがわずかに染み出た。
違う、何かが違う。
ミキは、食事に手を付けることが出来なかった。
やがて、スタッフが火葬の終了を告げに来て、骨上げの場へと促された。
「ほら、遅れちゃうよ」
カナエが、喪服の裾から伸びる白い手で、ミキの腕を掴んだ。
粉の散らばる金属のテーブルに並べられた、灰色と茶色の塊は、余熱を帯びてミキの顔面を下から照りつけていた。ばあちゃんを示す記号は、どこにもない。
天井の方から聞こえるゴーっという低い音が、線香と酸味のある匂いを混ぜて、面影の記憶とともにかき消していく。
ミキは、真夏の秘密基地の地面を思い出しながら、周りの人々に倣って手を合わせた。
ひとつ、またひとつ。
長い箸で真っ白な壺に収められていく。
自分がばあちゃんの骨を見つめているという感覚にならない。
ミキも、ひとかけらをつまみ上げると、見た目よりも軽くて、かつてのばあちゃんの手のしっかりとした重さが懐かしく蘇った。
最後にスタッフが、箒のような道具で、小さな破片と、灰を集めていく。
それを見つめるミキの鼓動は、どんどんと早くなる。
自分の脈拍しか聞こえない状態にまでなると、ミキは周りを見回し、ゆっくりと右手を伸ばした。
手のひらに感じる熱気。灰の匂い。
ミキは、向こうにいるカナエと目が合って動きを止めた。しかしその瞬間、カナエは、
「ばあちゃ~ん!」
と、大きな声で叫び、皆がそっちを向いた。
同時に、ミキの右側にケンイチがぴったりと立ち、ミキの手を隠すようにした。
「ミキは、大事なこと、全部わかってる子だ」
ばあちゃんの声がした。
ミキは息を止めて、震えた右手で灰ごとひとかけらを掴んで握りしめ、素早く体の後ろに回した。
汗と灰が混じって、ミキの右手をヌルヌルとした感触が支配した。しかし、不快感はなかった。
会葬が終わると、ミキはトイレに駆け込み、右手を開いた。
水分を含んだ泥のような灰の中に、小さなひとかけらが残っていた。ミキは、それを慎重につまんでハンカチで包んだ。
両手を石けんで念入りに洗う。だが、ヌルヌルした記憶が右手から離れることはなかった。
鏡を見ると、ばあちゃんが歯を露わにして、笑顔で何度も、何度も頷いていた。
「姉ちゃんら、この辺でいっちゃがね?」
漁師のおじさんが、ミキに声をかけて船の動きを止めた。
ミキは、朝一番で酔い止めを飲んだと言っていたが、慣れない揺れに気持ち悪さを隠せないようだった。
ケンイチは、自分の職業を忘れたかのように、オロオロと心配してミキの顔を覗く。
「釣りでもないのに、本当に、ありがとうございます」
船頭にお礼を言うミキの声は、波の音に負けないくらい凛としていた。 その、昔とは違う頼もしい妹の横顔を見つめていると、ケンイチの胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
ケンイチは大きく深呼吸をして、涙をぐっと飲み込んだ。
「ま、いっつもよりたくさん貰ちょるし、ばあちゃん孝行を応援したくなったとよ。釣り客の世話するより、てげ楽ちんやしね。気にせんでいいがね!」
ミキとケンイチは、船の端っこに立って、海を見つめた。
「体調、大丈夫か?」
ケンイチがミキの背中をさする。
「大丈夫」
ミキが、アクリルのジュエリーボックスをそっと開けた。ケンイチは、久しぶりに見る茶褐色のひとかけらに、懐かしさを感じると同時に、妹の覚悟を改めて見たような思いだった。
「ばあちゃん、15年もかかっちゃったけど、やっと約束守れたよ。海、見える?」
ミキは、右手で優しくひとかけらをつまみ上げた。
「じゃあ、最後に、なんか声かけようか」
ケンイチも穏やかな海を覗き込むと、潮風が顔をくすぐる。
「ばあちゃん、色々あったけど、私たち……。あっ!!!」
突風が吹いて、ミキの右手からひとかけらが、どこかへ飛んで行った。
「え?」
ミキを見ると、肩まで伸びた髪の毛がパサパサと揺れて、海の色を受け止めていた。
「ごめん、どっか行っちゃった!」
2人は咄嗟に周囲を見回したが、当然、何もない。
「ばあちゃんらしいな」
ケンイチが、笑いながら、ミキの背中を叩いた。
「だね。ばあちゃんらしい」
2人は、顔を見合わせて、ムフフと笑った。
7月の太陽が、2人を照らしていた。
「この辺りなのかな?」
港に戻った2人は、海が緑に見える海岸を散策していた。
ミキが掲げる白黒写真と、殆ど同じアングルの場所をようやく見つけた。
「ホントに綺麗。こんな海、ずっと見てみたかったんだ」
ミキは、自分と同じ年齢の、瓜二つの女性の白黒写真を、景色に重ねた。
境界線を溶かしそうになりながらも、交わらずにずっと伸びる海と空。
ミキの瞳に、緑色が反射している。
その瞬間、ケンイチは、61年前のばあちゃんを確かに見たのだ。
「そういえば、あの事は、母さんたちに伝えたのか?」
ケンイチは、海を見つめるミキに尋ねた。
「まだ。でも、帰ったら、あの人と一緒に伝えに行くって、覚悟が出来た」
ミキは、海を見たまま答えた。
「そっか」
「私も、ばあちゃんみたいに、なれるかな」
ミキは、右手を臍の下あたりに、優しく当てた。
カバンには、黄色と水色の縞模様のキャラクターが書かれた、古い傷だらけの手作りのキーホルダーが、潮風に揺れて太陽を反射していた。
そのカバンの口から、小さな白黒のエコー写真が、そっと覗いている。
突然、大きな風が吹き抜けて、ミキの白い帽子を空へ連れ去った。
「ばあちゃんだ!」
ミキが眩しそうに空を見上げる。
白色が、どこまでも拡がる夏色の空に、ゆっくりと溶け込んでいった。

(完)
