【連載小説】夏の果実が未来を紡ぐ。——翠緑の循環【8】(全9話)
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【登場人物】
主人公:ミキ 1997年9月6日生まれ
ミキの兄:ケンイチ 1992年生まれ
ミキの父:マコト 1964年生まれ
ミキの母:マヤ 1966年生まれ
ミキの祖母:ナツエ 1937年7月1日生まれ
ミキの祖父:コウイチロウ 1933年生まれ(享年58歳)
伯父(マヤの実兄):ソウタロウ 1963年生まれ
伯母:ヨシコ 1966年生まれ
従兄:リョウタ 1989年生まれ
従姉:アンズ 1994年生まれ
従姉:カナエ 1997年7月27日生まれ
変わり始めるばあちゃんに困惑するミキの家族であったが、母マヤは、その後も時間を見つけては帰省していた。
ミキが次にばあちゃんに会えたのは、中学3年が終わった春休みだった。
ばあちゃんは、足腰も少しずつ弱っていて、ヨシコおばさんが体調を崩したこともあり、施設に入所していた。
「ヨシコさんの体調が良くなるまでの短期間って説明して納得させたのに、結局そのままで悪いような気もするんだけど」
母は助手席から、つぼみが膨らみかけた桜の木々を眺めて呟いた。
「毎日の事だから、仕方ないんじゃないかな」
父が手元のスイッチで、ビートルズの曲を変更しながら言った。
誰も悪くない、という現実。ミキは、慣れているはずの田舎道の凹凸に、車酔いしてしまった。
施設に着くと、ミキの予想とは違って、とても明るい雰囲気で、奥から陽気な音楽が流れていた。
パステルブルーのポロシャツの上に、薄いピンクのエプロンを着けた、面倒見の良さそうな中年女性の係員が出てきて、ミキたちを案内してくれた。
ミキは、記憶の奥で忘れ去られていた、幼稚園の頃の断片を思い出していた。施設内は、漂白されたような照明や壁の色とは不釣り合いな、ミキが初めて経験する臭気が立ち込めていた。
ものすごく臭いというわけではなかったが、鼻の奥に残り、髪の毛から侵食されていくような不安感があった。
ばあちゃんの名前の入ったプレートがかかった部屋の前まで来ると、女性職員が、
「ナツエさん、娘さんたちが来てくれたよ!」
と、張りのある声を出しながら入って行った。
部屋の奥では、テレビからワイドショーが流れていて、椅子にちょこんと座ったばあちゃんが、こちらを振り向いた。
「これ、お使い下さいね。じゃあ、何かあったら、声掛けて下さい」
と、女性職員は手早くパイプ椅子を準備すると、幼稚園の先生のような笑顔で、ばあちゃんに手を振って出て行った。
ばあちゃんは、ほんの少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの笑顔に戻って、
「あれあれ、遠いところ、みんなで来てくれたんやねぇ」
と、椅子に掴まって、ゆっくりと立ち上がった。
「お母さん、座ってていいから」
母は、椅子の向きをこちらに直して、ばあちゃんを座らせた。
「ケンイチは、大学が忙しくて、来られませんでした」
部屋の脇の台に荷物を置きながら父が言うと、ばあちゃんは、
「ケンイチ……そうかい、そうかい、みんな忙しいもんでなぁ」
と、テーブルの上の小さなごみを細くなった手で払いながら、小さく言った。そして、ミキの方を見て、
「大きくなったなぁ。毎日ちゃんと学校行っとるか?」
と笑いかけた。名前は、呼んでもらえなかった。
その後も、母が主に話しかけて、やり取りする様子を、ミキは黙って見ていた。
ここ最近は、自分の事にも忙しくて、ばあちゃんとの電話もご無沙汰になっていた。今さら、何を話してよいか分からなかった。
何より、小学生のキャッチボールのような、この不安定な会話に加わる勇気がなかった。
「じゃあ、そろそろ時間だから、また来るね」
1時間半ほど経った頃、母が買ったばかりのスマートフォンの時刻表示を見て言った。
「もう、帰っちゃうのかいねぇ、寂しいねぇ」
こんな弱気なばあちゃんを、ミキは見たことがなかった。
「またすぐに来るから」
そう言って、母は、ばあちゃんの手を取ってゆっくりと立たせ、手を繋いで廊下を歩いて行った。
玄関で、数人の職員とばあちゃんが並んで、手を振っている。
物寂しそうな、ばあちゃんの表情にどうしていいか最後まで分からず、この日、ミキはとうとう、ばあちゃんに触れることが出来なかった。
施設を出た後も、あの臭気だけが、ミキをどこまでも追いかけてきた。
ソウタロウおじさんの家に移動したミキたちは、テーブルを囲んで出前の蕎麦を食べていた。
「しかし、ヨシコさん、大変でしたねぇ」
母が、少しやつれた様子のヨシコおばさんに話しかけた。
「痔だと思っとったら、大腸がんなんてねぇ。まあ、それでも早いうちに見つかったもんで、手術だけで済んで良かったけど」
食欲があまりないのか、ヨシコは、大好きなはずの天ぷらには手を付けずに続けた。
「傷の痛みとかは殆ど無いんだけど、なかなかだるさが抜けんでねぇ」
ヨシコは、何度も麦茶を飲んで言った。
日本酒の入ったコップを片手に、ソウタロウが、
「元気が取り柄のヨシコがこれだもんなぁ。もう、体のこと気を付けにゃいかん年なんやなぁ、俺たちもさぁ」
と、ヨシコの方へ、いつものガサツさの隙間から、繊細さが芽吹いているような表情を向けた。
喉の奥でザラザラする蕎麦の表面が、ミキの胃を重くさせ、あまり箸が進まなかった。それを隠すかのように、ミキはアンズとカナエに、
「ねえ、アンズお姉ちゃん、いつ引っ越すの?」
「カナエちゃん、高校の制服って、どんなの?」
と、当たり障りのない質問を次々にしていた。
夜、ミキは、またカナエのベッドの横に布団を敷いて寝ていた。
ばあちゃんの話は、一切しなかった。
流行のこと、受験や恋愛、かつて遊んだメンバーの近況などを、とりとめもなく話した。
「あの秘密基地、まだあるの?」
「この辺も、子どもが減っとるもんでね。でも、時々、使われとるみたい」
カナエの言葉を聞いて、あの6日間を思い出そうとした。
しかし、頭から完全にばあちゃんだけを追いやったまま、ミキは朝を迎えた。
まだ冷え込む朝の日差しが、カナエの部屋の壁に白く塗り込まれていた。
高校生になったミキは、益々プライベートが忙しくなり、意識せずとも、ばあちゃんの事を思い出す時間は、わずかなものになっていた。
テスト、学校祭、受験勉強、クラブ活動。
気づけば、1年生も終わり、2年生になって毎日が過ぎていった。
暑くなってきたある日の朝、母が外から大きなレジ袋を持ってきた。
「タナカさんとこ、退職したご主人が家庭菜園始めたんだって」
母が、不揃いな形のトマトをテーブルに並べた。
ミキは、鼻孔から脳へ直接到達したわずかな匂いに反応し、思わず、
「お母さん、トマト、サラダにして今すぐ食べよう」
と迫った。
ミキは、洗って切っただけのトマトに、何もかけずにかじり付いた。
青い香り。皮の弾力。酸味。
置きどころのない、種。
6年前の、夏の日々が、空と大地と一体となったあの感覚が、喉から食道、そして胃を動かし、全身に拡がっていった。

「お母さん。次、ばあちゃんの所行くとき、私も連れてって」
母は、少しだけミキの目を見て、再びサラダに目線を落とし、
「別にいいけど。予定、大丈夫なの?」
と、言った。
「何とかするから、お願い」
ミキも、サラダを見つめて言う。
「わかった」
ミキの、迷子になっていた何かが、戻ってきていた。
次の土曜日、ミキと母は新幹線に乗り、ばあちゃんの施設へ向かっていた。
普段乗る都内の電車ともまた違う、新幹線の独特の匂い。洗練された内装にわずかに感じる、雑巾のような一滴の濁り。ミキにとっては、憧れの大人の空間のはずだった。
「ねえ、お母さん、今でもやっぱり、田舎は苦手なの?」
最初のトンネルに入った時、窓に映る隣の母に聞いた。
「小さい頃から、テレビで見る東京に憧れてたからね。おじいちゃんは反対してたけど、おばあちゃんが説得してくれて、東京の短大に行って」
「それで?」
ミキは、耳の奥を圧迫する空気を抜いて、母を促す。
「丁度、景気の良い時代だったから、毎日ホントに遊んで暮らしてた。あ、これ、ミキだけの秘密だからね」
母がそう言うと、ミキは驚いて、振り返った。
母は正面を向いて、
「ちょっと遊びにも飽きたかなって時に、友達の紹介でお父さんに出会ったの」
と、目を細くし、口元を尖らせて言った。
「それまで付き合ってきた、いかにも都会、って感じの男の人たちとは違って。でも、それが、心の底では安心だったんだろうな」
母は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「それで結婚したの?」
「そう。勤めてたのも、それなりに有名な会社だしね、一応」
と、母は笑って、右手をミキの左手にポンと乗せた。
「だから、もう田舎者には戻りたくないけど、田舎が嫌いっていうわけでもないのかな」
母は、ミキの左手と恋人つなぎをして、振って見せた。

ミキたちがタクシーで施設に到着すると、前回のように、職員が明るく対応してくれた。
ホールでは、様々な状態の人々が、思い思いに過ごしている。
ミキは、この独特の臭気さえも、生命が最後の輝きを灯しながら出す、煙なのだろうと思うようになっていた。
職員に案内されて母とともに部屋に入ると、ばあちゃんは、
「あら、フユちゃん、来てくれたんやねぇ」
と、笑顔で手を振った。フユちゃんが誰か、ミキにはわからなかった。
「お母さん、マヤだよ。わかる?」
母がしゃがんで、ばあちゃんの前に顔を近づけると、ばあちゃんは、
「マヤ、マヤ……わかるよぉ、もちろん」
と笑いながら両手を伸ばした。そして、ミキを見上げて、
「キヨコ、学校は行かんでいいんかいね?」
と、心配そうに言った。キヨコは、ばあちゃんの妹の名前だ。
「ばあちゃん、ミキだよ。会いたかったよ」
ミキは、ばあちゃんの両手を握りしめた。変わらずに、ひんやりして柔らかいその手を。
「ミキ、大きくなったなぁ」
耳元で、はっきり、そう聞こえた。ミキは顔中の筋肉に力が入り、うまく笑えなかったが、ばあちゃんと互いの瞳をしっかりと捉えていた。
壁にピンで留められている少し色褪せたミサンガの、ほつれた紐がエアコンの風で揺れていた。
さらに2年後、ミキは自宅から通える私立大学の薬学部で、新たな生活を始めていた。
5月下旬の週末、ミキと母は再び施設を訪れた。
「ミキ、もう一度言っとくけど、ショック受けないでね」
2年ぶりに施設を訪れたミキに、廊下を歩きながら、母は真面目な顔で言った。
「うん。わかってる」
床を叩くスリッパの音が、いつもより響く。
部屋に入ると、車椅子の上で前傾姿勢となり、膝の上のブランケットに力なく両手を乗せた小さな老人が佇んでいた。
全身がむくんでいて、皮膚が薄くなったように透けて見えた。
「ナ・ツ・エ・さん!ご家族ですよ!わかる!?」
職員が、老人の耳元に顔を近づけて、声を張る。
以前あった、壁のミサンガは、施設のお誕生会の写真に変わっていた。
「ばあちゃん、ミキだよ」
ミキはしゃがみ込み、老人の右手を両手ではさんだ。少し伸びているけれど、昔のように土が挟まっていない爪が皮膚に当たる。弾力のない、水分を含んだその手は、まるで溶けた保冷剤のようだった。
「お孫さんですって!わざわざ来てくれたんだよ!わ・か・る!?」
職員がさらに声をかける。
老人は、仮面のような表情でミキを見上げて、数秒目が合うと、口元が何かを言おうとした。
ミキは、唾を飲み込んだ。
老人は、
「知らん」
と、痰の絡まった震えた声を上げた。
ミキは、黙って老人を抱きしめた。
衣服の下の紙オムツがクシャクシャと小さく音を立て、水分を含んだポリマーの柔らかさが手に伝わった。
力の抜けた、その身体。
パジャマからは、線香でも、畳でもない、独特の匂いがした。
それでも、抱きしめているうちに、ばあちゃんの体からは、優しい体温が染み出してきていた。
自分自身の湿度とばあちゃんの体温が混ざって、ミキの顔じゅうを包み込んだ。
【次回予告】
「人の思い通りにはならんもんでねぇ」。
無機質な儀式のなか、ミキは禁断の「ある決意」を実行する。
15年越しの約束の地・宮崎の緑色の海で、ミキが覚悟を決めた時、壮大な自然の一部としての生命の系譜へと美しく還っていく。
次回、完結。
