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文学談義:春樹文学に性描写は必要か?


自称ハルキストしていると、時々こんなことを聞かれる。

「村上春樹って、なんであんなに性描写が多いの?」

私は一応女性なので、男性からこれを聞かれると、少し身構えてしまうこともある。

「他にも見るところあるのに、なんでそこ?」

でも、思い返すと自分も最初は同じ疑問を持っていた。

中学生の頃、初めて読んだ『海辺のカフカ』。

「ここで性描写入れる必要ある?」

と、感じた記憶。

日本文学において、性描写ってかなり扱いが難しい。
下手したらノイズになる。

でも今読み返すと、春樹文学の空気そのものを形作っている気がしてくる。

そのことに向きあってみたいと思う。



理由① 春樹文学の“乾いた身体感覚”


春樹の性描写は全く情感をそそられない。例えばこれ。

僕は彼女の体を抱きしめて、口づけした。彼女は僕の腕の中でじっと目を閉じて、身動き
ひとつしなかった。僕の舌は彼女の舌と絡み合い、僕は彼女の乳房の下に心臓の鼓動を感じた。それは澈しく、暖かい鼓動だった。僕は目を閉じて、そこにある彼女の赤い血のことを思った。僕は彼女の柔らかな髪を撫で、その匂いをかいだ。彼女の両手は僕の背中の上を、何かを求めるように彷徨っていた。

村上春樹『国境の南、太陽の西』講談社文庫p250

「僕」の興奮は全く伝わらないし、エロティックでもない。
心臓とか血液とか鼓動とか、「彼女の躰」というよりは「物理学的体」って感じ。医者かな?

もちろん、物語の構成的に盛り上がるところではあると思うんだけど、「朝起きて、キュウリとハムのサンドウィッチとコーヒーを飲んで、僕は少し出かけた」のと同じくらいのテンションじゃないだろうか。

まったく性を特別視していない。これがポイントだと思う。

なんでこんな表現なのだろう。

まず考えられるのが、アメリカ文学の影響。

これはハルキストにはかなり有名な話だけれど、村上春樹の文学は翻訳文学と強く結びついている。

デビューする前からレイモンド・カーヴァーやフィッツジェラルド、チャンドラーなど、多くのアメリカ文学を翻訳しており、その文体や雰囲気は確実に影響している。

特に、春樹が影響を受けた戦後アメリカ文学には、

* 虚無感
* 孤独
* 世界への不信感
* “意味のなさ”

みたいな空気が漂っている作品が多い。
いわゆるポストモダン文学的な感覚。

「確かな意味」や「絶対的な善悪」が崩れた後の世界。
その中では、“性”も特別なものとして扱われない

性も食も睡眠も、すべて同じで、神秘的だったり、神聖だったり、逆に敬遠するものでもない。嫌悪すらない。
そういった淡々とした視線が要因としてある気がする。


理由② 春樹文学は「無意識」を描いている


もう一つは、春樹文学そのものが、人間の“無意識”を描こうとしているからではないだろうか。

春樹作品ではよく、

* 地下
* 井戸
* 夢
* 分身
* 記憶
* 闇

といったモチーフが登場する。

例えば、

* 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の地下世界
* 『ねじまき鳥クロニクル』の井戸
* 『羊をめぐる冒険』の「羊」

など。

これらはしばしば、“意識の下にあるもの”として読まれてきた。

つまり春樹文学は、社会的な人格ではなく、「人間のもっと深い部分」を描こうとしている。

そこで重要になってくるのが、“性”なんだと思う。



フロイト的に見ると、「性」と「死」は切り離せない

精神分析で有名なフロイトは、

人間には

* 生の欲動(エロス)
* 死の欲動(タナトス)

があると考えた。

ざっくり言えば、「生きたい」「つながりたい」という欲求と、
「消えたい」「壊したい」という欲求。

そして春樹文学には、

* 老い
* 喪失
* 死
* 消失

が頻繁に登場する。

人は突然いなくなるし、世界は簡単に断絶する。

だから逆に、“性”が重要になる。
性は単なる快楽ではなく、「他者とつながろうとする行為」

だから、春樹作品における性描写って、刺激的なシーンというより、
孤独な人間が、他者と接続しようとする瞬間

として描かれている気がする。


まとめ


「性」は春樹文学における“生”そのもの。
だから私は、春樹文学における性描写は、サービスシーンとして入っているわけではなく、むしろ、人間の根源を描くために必要な要素なんじゃないか、と考える。

春樹文学では、人は簡単には分かり合えない。すれ違いもする。理不尽ですらある。
でも、それでも誰かに触れようとする。

性描写は、その“不完全な接続”を描く方法の一つなのかもしれない。


あとがき


この記事を書くために、久しぶりにフロイトやユングについて少し読み返した。

フロイトが「欲望と抑圧」を重視したのに対し、ユングは、
「人間は象徴や神話を通して自己を完成させる」と考えていたらしく
ここにもあ~納得。

確かに春樹文学って、神話っぽいところある。

『海辺のカフカ』も、『ねじまき鳥クロニクル』も、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も、旅する英雄という感じ。何もしてないけど。

久しぶりに研究論文を読み漁りたくなった。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


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