次の灯の番【風まかせ文芸部 / 名前】
山の稜線が遠くに沈んでいる。うっすらと広がる、薄い霧に溶けるように。
祖父の七回忌とはいえ「あの村」にわざわざ戻るなんて、正直、気が進まなかった。けれど、母に頼まれたら断れない。
村のことは別に嫌いではなかった。田舎を「自然が多いだけで面白くもなんともない」という村出身者も中にはいるが、私にとっては楽しい思い出をいくつも残してきた大事な村だ。
ただ、私にとっては「帰る場所」ではなく、「帰らせられる場所」だった。私の名前は、この村の帳面に載っていない。祖父の家に連なるはずなのに、父が外の血だからと、どこにもきちんと書かれなかった。
そして祖父が亡くなってから、村人たちは妙に距離を置くようになった。理由はわからない。ただ、あの年の「灯」が消えたのは事実で、そして──祖父が亡くなったのもあの年だった。
母には「すぐ終わるし、顔だけ見せればいいから」と言われて、その言葉を信じて帰ってきた。
車を走らせる山道は、整備もされず荒れたまま変わっていない。新しい空気を拒む気配は、私がいた、昔のままだった。
* * *
本家の玄関に足を踏み入れると、線香の香りが素肌にまとわりついた。古い畳の匂いも、木の軋みも、何もかもが「昔のまま」。私は、その懐かしさよりも、変わらない息苦しさに胸を押さえた。
「すみれちゃん。帰ってきたとね。」
玄関先では、伯母が油皿を磨いていた。古い灯心の、焦げた匂いが鼻をつく。
「今年は七回忌やけんね……あんた。夜は外に出んごと。昔から『灯が揺れると、誰かが呼ばれる』って言うやろ。」
伯母は何でもないように言ったが、その手は少し震えていた。
ごくりと唾を飲む。こういった因習めいた言い回しも、子どものころはその違和感に気づけなかった。出なければ、囲われたままだった価値観。
挨拶を済ませて座敷に向かうと、床の間には曇った遺影と、古い油皿が置かれている。
村では、七回忌の日に「灯」を絶やさないよう見守るのが習わしだ。私は迷信なんて信じていないけれど、村の人たちがその灯を、異様に気にかけているのがどうにも不気味だった。
ふと廊下の角で足を止めた。細い肩をすぼめて立っていたのは、いとこの莉央だった。
「……久しぶり。」
横から声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせ、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「すみれちゃん……来とったんや。」
痩せて、目の下に濃いクマ。昔は明るかったのに、今は影を引きずって歩くみたいだった。
「元気してた?」
私がそう言うと、莉央は一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「……まあ。ぼちぼちかな。」
ぼちぼち、なんて言葉が似合わないくらい、彼女はやつれていた。なにより、彼女の周りの「空気」が違う。スピリチュアルなことはご遠慮したいけど。オーラが違う、と誰かに言われれば信じてしまいそうな。
その場にいた莉央は、村の誰とも目を合わせようとしないし、誰も彼女に話しかけようとしない。まるで、最初から「そこにいないもの」みたいに扱われている。
台所に向かう途中、ばったり近所のおじさんとすれ違った。私の顔を見て一度は微笑んだのに、すぐ背後の莉央を見ると、表情がスッと消えた。
「……あの子は、座敷から離さんように。」
何気なく誰かに言ったつもりなのだろうが、小声でもはっきり聞こえた。莉央はその瞬間、ほんの少し肩をすくめた。
「外に出したら、順番が狂うけん。」
そのあと聞こえた言葉の意味は、私にはわからなかった。莉央は小さく会釈すると、そのまま座敷の方へ戻っていった。その途中で、何度か廊下側を振り返っていた。
* * *
その後、私はひとり、廊下の突き当たりで足を止めた。
仏間の襖が、わずかに開いている。子どものころから、法事のときでもなければ、自分から立ち入らなかった部屋だった。誰もいないはずなのに、そこだけ空気が澱んでいる気がした。
──入るな。
そんな言葉が、どこからともなく浮かぶ。あたりを見回すが、誰もいない。
私は小さく息を吐いて、襖を指先でずらした。
すぃ、と乾いた音。
仏間は、昼だというのに薄暗かった。床の間の遺影が、こちらをじっと見ている気がして、思わず視線を逸らす。線香の匂いが、さっきよりも強まる。体感温度がいくらか冷えた心地だった。
座布団の脇に置かれた小さな引き出しが、半端に開いていた。
──こんなところ、開くようになってたっけ。
なんとなく気になって、しゃがみこむ。指をかけて引くと、中には古びたノートが一冊、無造作に押し込まれていた。
表紙に、見覚えのある癖のある字。祖父の字だった。
胸の奥が、ひやりと冷えた。鼓動が耳元で響く。
音を立てないよう、ページをめくる。
日付は、ばらばらだった。几帳面な祖父にしては珍しく、書き殴ったような文字が並んでいる。
『灯が消えたからではない』
一行だけ、やけに濃く書かれていた。眉をひそめて、さらにページをめくる。
名前が並んでいる。いくつかは知っている名前だった。子どものころ、「急にいなくなった」人たち。
その氏名のいくつかに、線が引かれていた。別のものには、小さく丸がついている。意味は、わからない。けれど、意味がないはずがない。
ページの端に、押しつぶすような筆圧で、書き足された文字。
『順番がある』
喉が、ひっ、と鳴った。最後のページをめくろうとして、指が止まる。そこだけ、紙が不自然に破れていた。破り取られた跡は新しく、繊維が毛羽立っている。乱暴に引き裂いたような跡だった。
──これ……誰かが?
背筋に、じわりと汗が滲む。ぱたん、とノートを閉じた。そのとき、廊下の向こうで足音がした。
はっとして振り返る。
誰もいない。けれど、確かに気配だけが残っている。
私はノートを元の場所に押し戻して、引き出しを閉めた。見なかったことにするみたいに。
仏間を出て、襖を閉める。閉じたはずなのに、視線の向こう側で、まだ遺影がこちらを見ている気がした。
* * *
夜、法事が始まった。
座敷には村の人たちが集まり、灯のゆらめきを囲むように座っている。皆、口を閉ざし、まるで息を潜めているみたいだった。
伯母が、低い声で言った。
「今年は……灯、絶やさんごとね。」
誰に向かって言ったのかわからなかった。でもその言葉を聞いた瞬間、莉央の肩がまた、ぴくっと跳ねたのを、私は見ていた。
「うちは昔から、そういう家やけん。」
伯母が続ける。灯が揺れるたび、彼女は息を止めていた。その異常さは、端から見ていて胸が痛くなるほどだった。
たしかにあった。さっきのノートに。
「五十嵐莉央」の名前が。
そこについていた印は、丸だった。
* * *
深夜、座敷にいるのが辛く、私は外に出た。冬の終わりの冷たい風が、頭を冷やしてくれる。
村の連中は、私にしきりに酒を勧めた。飲めば、身体はもう少し温まったかもしれない。けれど、そんな気にはなれなかった。
そのときだった。
背後で、草の上をかすめる足音がした。振り返ろうとした瞬間、空気が歪んだ。
めり、という音とともに。何か固いものが背中を打つ。
「っ……!」
とっさにつんのめって、踏みとどまる。身体を反転させ、暗がりの方を向いたところで、背中に強い痛みと、一瞬呼吸の止まる感覚があった。
闇の中で、手に石を握った人影が見えた。
小さく震える声。
「……すみれちゃん、ごめん……」
月明かりに照らされた顔は、莉央だった。
彼女は石を握ったまま、その場にしゃがみこんだ。手首が震え、歯をかたかたと鳴らしている。
「ごめん……ごめん、ごめん……!」
私は、おそるおそる近づいた。
「莉央……どうしたの。こんなこと……。」
「うち……怖かった……。」
彼女は咳みたいにしゃくり上げながら、絞り出す。私は鈍い背中の痛みをこらえながら、続く言葉を待った。
「今年……七回忌やろ……灯が、消えた家から……ひとり……。ずっとそうやって……誰かが……いなくなって……。」
私は息を呑んだ。村の迷信。事故と言われてきた、過去の「消えた人たち」。嫌でも、あのノートを思い出す。
「うち……次は自分やと思っとった……。みんな……あたしは、なんもできんけん……。村の人も、目も合わせてくれんで……出られんくて……。」
莉央は、自身を両腕で抱きしめていた。
「すみれちゃんだけ……帳面に名前がなかろ……? 自由で……。いなくなれば……今日の灯は、消えんかもって……。
でも……できんかった……!」
石を放り出し、地面にしゃがみ込んで泣きじゃくる。私は震える彼女の肩にそっと手を置いた。父系で名を継ぐ、この村のルールを思い出す。
村の闇よりも、彼女の震えのほうがずっと真実に見えた。
「……莉央。」
私はしゃがんで、彼女と目線を合わせた。
「……逃げよう。」
莉央は、涙でぐしゃぐしゃの顔をあげた。
「え……?」
「逃げよ。私と。今すぐ。ここから。」
莉央は首を振り、かすれた声で言う。
「むり……うち、スマホも金もないし……行くとこも……。」
「行けばいいじゃん。作ればいいじゃん。車あるし。スマホもお金も、あとでどうにかなる。」
「夜は、戸も、閉められるけん……。」
歯に力が入るのが、自分でもわかる。私は、震える彼女の手を取った。
「行こう、莉央。やっぱりこの村、間違ってるよ。」
莉央の顔がくしゃっと歪み、声にならない声が漏れた。
「……すみれ……ちゃん……。」
* * *
ふたりで車に乗り込み、山道を下る。バックミラーには、村の灯がぽつ、ぽつと消えていくのが見えた。
莉央が、助手席で小さな声で言った。
「うち……生きとってよかとね……?」
私は迷いなく答えた。
「生きなよ。生きていいやろ。あんたを消す世界のほうが、間違っとる!」
私も、方言が戻っていた。昔の、仲の良かったふたりみたいには戻れないかもしれないけど。まだ背中は痛むけど、せめて少しでも、近いところまで。
エンジン音が低く唸り、村の境界を越える。暗い山の向こうに、かすかな朝の気配が見えた。
「迷信がある村」ならよかった。それだけなら。
でも、迷信を運用しだしたら、その村はもうおしまいだ。未練など、あるものか。
私は、ハンドルを握りながら、バックミラーを睨んでいた。あの破られたページに、何が書かれていたのか。それだけが、頭から離れない。
奥で、消えたはずの灯が、ひとつだけ揺れていた。呼ばれるはずの名前が、ひとつ足りないみたいに。
風だったのか、誰かの手によるものだったのかは、確かめる気にもなれなかった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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