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交換してください【風まかせ文芸部 / 炭酸】

あのころの私は、インクの匂いの残るページの一枚一枚に、胸を震わせていたと思う。等身大の瑞々しい青春を、遠い世界で実った鮮やかなフルーツのように味わっていた。

とある漫画家さんが、少女漫画雑誌で連載していた作品だった。

私はいつも、小さな目で、その世界をすくいとるみたいに。そこに描かれた瞳の大きなキャラクターたちを追いかけた。ページをめくるときに指先が少しだけ震えていた感覚まで、鮮明に覚えている。

その雑誌をひと月遅れで貸してくれたいとこのお姉ちゃんには今も感謝しているし、あの体験が私の人生を決めたと言っても過言ではないかもしれない。

* * *

あれから二十年。絵を描くことへの情熱が高じて、現在私はデザイナーとして仕事をしている。

「好きなことを仕事にできて幸せだね。」

私をよく知る友人にも、あまり知らない友人にもそう言われる。

そうなのだろうか。

あのころみたいに、何かに夢中になることも少なくなった気がする。最近では、休日に液タブを開いては、空白のまま閉じるようなことが増えていた。

以前は描きたいと思えば、対象がなんであっても筆が進んだ。「あれ描いて」と誰かに言われるたび、心が躍り、イメージや構図が泉のように湧いた。

あのころの情熱は、本当に私の中に残っているのだろうか。

なにかを取り戻したいような気がして、マッチングアプリをスマホに入れた。それで特に、気の合う人とも出会えることはなかった。

アプリ運営側のセキュリティ体制が甘かったのか、登録情報の漏洩のお知らせがきて、私の受信フォルダには大量の迷惑メールが届くようになった。

私は、メールアカウントごと、そのアプリを消した。

* * *

部屋を見回すと、目につくものが増えた気がする。

炭酸メーカー。ホームベーカリー。ヨガマット。

すべて「未来の私」のために買ったものだ。ポイントが余ってるから。テレビで見て良さそうと思ったから。健康のために必要だから。そのときどきで、きっかけは違った。

でも、今はどれも使っていない。使っていないということは、いらないということ。

炭酸メーカーなんて、買ってから何回使っただろう。

最初はたしか、冷蔵庫の横に置かれていた。いつからか電子レンジの上に移った。そのままたぶん、一年経った。

開封した日。説明書の、手順の多さとメンテナンスの項目に目を通した時点で、購入を決めたときとの私とは温度差があったように思う。

できあがった炭酸は、しゅわしゅわと泡がはじけていた。うまくできたと思った。飲んでみると、強い刺激が喉の奥を通り抜ける。

素直に、美味しいと思った。

でも、飽きた。

あるときから、炭酸が不味くなったように感じた。そのときの細かい気持ちは、私の中にはもうない。

ああ、まただ。

そう思いながらも、処分するところまでには至らない。誰かが壊したり、盗んだりしないかぎり、たぶんこのままここにある。

そんな気がした。

* * *

作業の手が止まると、私は掃除を始めた。

仕事は自宅でやっている。つまり、自宅は居住空間であり職場でもあった。

本当は、切り離されていた方がいいのかもしれない。そう思って、外で場所を借りて仕事をしたこともあるが、はかどらなかった。

片づけていると、押し入れから漫画が出てきた。高校のころ、何度も読んだ作品だった。

この漫画。まだ持ってたんだ。

逆に、当時あんなに好きだったあの漫画。私にこの仕事のきっかけをくれた先生の漫画は、今この家にはない。

「小中学生向けの漫画だし、もういいよね。」

そう考えて、高校のころ紙袋につめたのを覚えている。その表紙の女の子の瞳は、変わらず輝いていた。その瞳は、私の描くもののどこかに残っているだろうか。

実家の自室の部屋の隅。そこに、あの漫画は今もあるはずだ。引っ越したときも、持ってこようなんて思わなかった。

そこにあるから。どうせあるから。

それっきり。

一生だと思ったものが終わって、一時的だと思ったものがなぜか残っている。

そのときにはわからない。そのときにならないとわからない。

私は、手に取った漫画を、もう一度元の場所に戻した。そのあとどうするかは考えないようにした。

* * *

部屋に漂うほこりが床に落ち切って、窓の外がすっかり暗くなったころ、そのメールは届いた。仕事用の受信フォルダ。クライアントからの修正依頼だ。

「もっと親しみやすく、かつ今風に。」
「もう少し若い人向けにできますか。」

納期は延ばせないらしい。私は相手のメールの文面をタブレットペンで何度かなぞりながら、表面上は丁寧に返信した。

早速、元データの修正の作業に取りかかる。最近では、差分のイラストデータを残す回数も減っていた。

描けるよ。

言われるまま、描こうと思えばちゃんとできる。

でも、「このキャラ描いてみて」と言われたあの昔のときみたいに。どうしてか、心は躍らなかった。

私も気が抜けてるのかな。

そんなことを思う。

ぬるいココアの入ったカップを置いて、イラスト細部の影としわを睨むように見つめた。出来上がった絵は、前よりもいいものになったような気がした。

それが本当に描きたいものだったかどうかは、考えないようにした。

* * *

たまたま、ぴったりと波長が合うような出来事が起こったようなときだけ、私は神様を信じる癖がある。

時間がある休日に、行きたい原画展の情報を見つければ「神が行けと言っている」と思ったし、会うのが億劫な人との約束の日に雨が降れば、「神が行くなと言っている」と思った。

実際は、決定権を放棄して、他人まかせにしているだけだということは薄々勘づいていたけれど。

だから今日が月に一度の、燃えないごみの日だと気づいた瞬間。部屋のいつもの場所にあった炭酸メーカーと目が合った気がして、思ったのだ。

「神が捨てろと言っている」と。

よいしょっと持ち上げる。思ったより重い。ボンベが、入ったままだった。

箱の中でくしゃくしゃになった説明書を久々に開く。

「ガスボンベは定期的に交換してください」。そう書いてあった。

最後にこの機械で作った炭酸水の、気が抜けた感じが思い返される。少し遅れて、笑い声が漏れた。

あ、そういうことか。

説明書を読んで、知ったこと。炭酸をもう一度、美味しく飲めるかもしれないこと。そして、意外と機械が重かったこと。

それらを受けて、私は思った。

神が、「まだ捨てるな」と言っている。

* * *

ホームセンターへ行った。広すぎて疲れるので、遠くないのに、たまにしか行かない店だった。虫よけに掃除道具、買いたいものはいくつかあった。

私はそこで、新品のボンベを買った。

炭酸メーカーってまだ需要があるんだな。売り場で商品をかごに入れながら、そんなことを考えていた。

特別な決意ではない。他のものを買う「ついで」だった。

暑さの残る夕方はまだ、蝉が鳴いていた。

帰宅して冷蔵庫を見ると、たまたま冷えた水が入っていた。普段飲む水は常温だから、冷蔵庫に入れたのはほんの気まぐれだったと思う。

また説明書が頭をよぎる。

「よく冷えた水をご使用ください」。

袋の中からボンベを取り出し、水をセットした。レバーを押すと、ブシュッ、という音とともに泡が立つ。

戸棚から取り出されたグラスも、急な出番に驚いた顔をしていた気がする。

ついさっきまで、ただの水だったものを私はグラスへ注いだ。でも、たしかにグラスの底から、細かい泡が上がっている。

ふう、と息をついてから、グラスを手に取って一口飲む。

傾ける加減がよくわからなくて、胸元に少しこぼしてしまった。

喉の痛みと、冷たさがある。美味しい。この味が、あのときの一緒かは、まだわからない。

テーブルの上にグラスを置いた。ことりという音に続いて、泡がひと粒ずつ上がってくる。

私はスマホを手に取り、母へメッセージを打った。

「私の部屋の漫画ってまだある?」

返信を待つ間にも、グラスの中では、小さな泡が途切れずに浮かび続けている。

部屋の隅では、取り外された空のボンベが立っていた。



※以下の企画に参加させていただきました。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。