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【小説】ゴースト・プロトコル ~午前二時の守護者~ 第二章:ささやくレンズ

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 日常が侵蝕される音は、耳には聞こえない。
 それは、ある日突然、視界の隅に現れる小さな染みのようなものだ。
 最初は気にも留めない。
 だが、気づいた時にはもう、美しい絵画を台無しにする、醜い汚れとなって広がっている。
 沙耶にとっての最初の染みは、SNSアカウントの乗っ取りだった。

「ねぇ、沙耶? さっきの投稿、どういう意味?」

 友人からの電話で、彼女は初めて異変に気づいた。
 慌てて自分のページを開くと、そこには見覚えのない投稿がなされていた。
 それは、沙耶の過去の投稿から切り取った写真と文章をいびつに組み合わせた、支離滅裂な悪意のコラージュだった。
 友人たちを中傷するような言葉も添えられている。

「何、これ…私じゃない!」

 パスワードを変更しようとするが、弾かれる。すでに変更された後だった。
 ログインすらできず、自分の名前を騙る何者かが、自分の庭を好き放題に荒らしていくのを、ただ見ていることしかできない。
 それが、悪夢の始まりだった。

 染みは、瞬く間に広がっていく。

 深夜、リビングで一人、ネット配信の映画を観ていると、不意にPCのスピーカーからノイズが走った。そして、囁くような、機械で変調された声が聞こえた。

――その映画、面白い?

 沙耶は凍り付いた。
 部屋には誰もいない。テレビの電源は切れている。
 声は、明らかにPCから発せられていた。
 彼女が恐怖で動けずにいると、今度はデスクトップの壁紙が、勝手に真っ黒な画面に切り替わった。
 そして、そこに白い文字がタイプされていく。

君のことは、何でも知っているよ、サヤ

 恐怖が、喉の奥からせり上がってきた。
 誰かが、このPCを乗っ取っている。
 それだけではない。この部屋を・・・私を、見ている。
 沙耶は反射的に、PCのウェブカメラに目をやった。
 小さな黒いレンズ。
 その奥に、冷たい瞳が潜んでいるような気がして、全身に鳥肌が立った。

 翌日、彼女は拓也に付き添ってもらい、警察署の生活安全課を訪れた。
 だが、応対した警察官の反応は、鈍いものだった。
「ネット上の嫌がらせ、ですか。よくあるんですよねぇ。パスワードを複雑なものにして、しばらくSNSから離れてみてはどうですか」
 ウェブカメラの件を訴えても、「気のせいじゃないですか?」と、真剣に取り合ってはもらえなかった。
 彼らにとって、これは画面の向こう側の「事件」ですらないのだ。
 沙耶は、社会のセーフティネットから、無残にもこぼれ落ちてしまったような無力感に打ちのめされた。

 染みは、もはや彼女の精神を蝕む毒となっていた。
 家に一人でいると、誰かに見られている気がして落ち着かない。
 ウェブカメラには付箋を貼ったが、気休めにしかならなかった。
 夜中に、Wi-Fiルーターが不規則に点滅しているのを見つけては、悲鳴を上げそうになる。
 犯人は『イカロス』と名乗り始め、嘲笑うかのようなメッセージを、彼女のスマートフォンのSMSにまで送りつけてくるようになった。

昨日の夕飯、クリームシチューだったね。
美味しかった?

 それだけではない。
 ある夜は、拓也の会社の社員証の写真が、加工されて送られてきた。

ご主人も、大変そうだね。
残業続きで、疲れているんじゃないか?

 沙耶は、スマホを取り落としそうになった。
 イカロスは、夫のことまで調べている。
 拓也の日常までをも、侵蝕しようとしている。
 この見えない敵は、自分たち夫婦の生活の根幹までを脅かそうとしているのだ。

 どこから?
 どうやって?

 …もう、安全な場所はどこにもない。
 彼女の日常は、完全に崩壊した。

 拓也は心配し、PCの初期化やプロバイダの変更を提案してくれたが、沙耶には分かっていた。そんな付け焼き刃の対策では、この得体の知れない敵には通用しない、と。

 絶望の淵で、沙耶は最後の藁にもすがる思いで、ある行動に出た。
 ネットカフェのPCを使い、匿名でアクセスできるサイバーセキュリティの専門掲示板に、震える指で自分の状況を書き込んだのだ。

助けてください。
誰かに監視されています。
PCもスマホも乗っ取られました。

<SAYA:書込完了>

 嘲笑されるか、無視されるか。
 どちらにせよ、期待はしていなかった。

 だが、その数時間後。
 彼女が登録したフリーメールのアドレスに、一通のメールが届いた。

 差出人は、『K』。本文は、暗号化されていた。
 メールに記載されていた復号キーを使い、その手順が書かれたウェブページを見ながら、震える指で文字列を変換する。
 そこに現れたのは、短く、しかし力強いメッセージだった。

――君を助けられるかもしれない。
だがそのためには、君自身が、
暗闇を直視する覚悟が必要だ。

 暗闇。
 その言葉は、沙耶が今まさにいる場所そのものだった。

返信は不要。覚悟が決まったら、
このプログラムをインストールしろ。
そこが、我々の最初の戦場になる。

 メッセージの下には、一つのファイルが添付されていた。
 それは、彼女が見たこともない、鳥の翼のようなアイコンを持つ、メッセンジャーアプリのインストーラーだった。
 沙耶は、画面を凝視した。
 これは、救いの手なのか。
 それとも、もっと深い闇へと誘う、悪魔の罠なのか。
 分からない。でも、もう選択肢はなかった。
 このまま恐怖に溺れ死ぬくらいなら、この見えない手に賭けてみるしかない。
 彼女は、意を決して、マウスのカーソルをインストーラーの上に合わせた。そして、クリックした。
 その瞬間、彼女の耳元で、かすかに羽ばたきのような音が聞こえた気がした。
 それは、地獄の淵から飛び立つ、イカロスの翼の音だったのかもしれない。

(第三章へ続く)