その『いいね💖』が、悪夢の始まりだった。あなたの日常も、見られているかもしれない。【小説】ゴースト・プロトコル ~午前二時の守護者~(全九章)第一章:凪の風景
月島沙耶、32歳、専業主婦。
穏やかな夫、平和な毎日。
SNSの小さな交流だけが、彼女の世界との繋がりだった。
――その日までは。
見知らぬ誰かにSNSを乗っ取られ、自宅のPCカメラが勝手に作動する。
警察は「よくあること」と取り合ってくれない。
安全だったはずの日常は、見えない敵「イカロス」によって、音もなく崩壊していく。
絶望の淵で、彼女は匿名の掲示板にSOSを書き込んだ。
そこに現れたのが、謎の師匠(メンター)『K』。
伝説のホワイトハッカーである彼は、声だけで、沙耶に告げる。
「君を助けられる。だがそのためには、君自身が戦う覚悟が必要だ」
午前二時、夫の寝息が聞こえる隣室で、秘密のレッスンが始まった。
PC音痴の主婦が、デジタル世界の戦士へと生まれ変わっていく、スリリングな特訓の日々。
声しか知らない師との間に芽生える、恋愛とは違う、絶対的な絆。
これは、ただのサイバー・サスペンスではない。
「誰かに守られる」だけだった昨日までの自分と決別し、自分の手で、愛する日常を守り抜く強さを見つける、すべての女性に贈るエンパワーメント小説。
読み終えた時、あなたはもう、無力な被害者ではない。
その日、世界は完璧だった。
少なくとも、月島沙耶、三十二歳の世界は。
埼玉県所沢市の、建売住宅が整然と並ぶ一角。そのリビングの窓から差し込む午後の光は、フローリングの上で埃の一つひとつを金色に輝かせ、空気さえも蜂蜜色に染めているようだった。
三年前に結婚した夫・拓也は、都内のIT企業に勤める真面目な人で、大きな波風を立てることもなく、沙耶の作る料理をいつも美味しいと言ってくれる。
子供はいないが、二人の生活は静かで、満ち足りているはずだった。

「…平和だなぁ」
誰に言うでもなく呟き、沙耶はソファに深く身を沈めた。
手の中のスマートフォンには、友人たちが投稿したランチの写真や、愛犬の動画が流れていく。
彼女もまた、丁寧に盛り付けた手料理の写真をアップし、「いいね💖」がつくのを待つのが日課だった。
それが、社会との唯一の繋がりであるかのように。
彼女のPCスキルは、その程度だった。
パスワードは誕生日と名前の組み合わせを使い回し、フリーWi-Fiにも躊躇なく接続する。
Windowsのアップデート通知は、面倒でいつも後回し。
インターネットは、便利なカタログか、友人との電子的な井戸端会議の場。
そこに悪意や危険が潜んでいるなど、考えたこともなかった。
彼女にとって、デジタル世界とは、この穏やかな日常の延長線上にある、安全で無菌の箱庭に過ぎなかったのだ。
拓也が帰ってくるまでの数時間、沙耶は決まってリビングの隅にあるデスクトップPCの前に座る。
SNSをチェックし、ネット通販のサイトを巡回し、時折、オンラインゲームのコミュニティを覗く。
ハンドルネームは『SAYA』。
現実の自分と地続きの、何の捻りもない名前。そこでは、当たり障りのない会話が交わされるだけ。
『今日の夕飯、何にしようかな』
『最近、面白いドラマとかある?』
その空虚なやり取りが、日常という名の凪いだ海に浮かぶ、小さなブイのようだった。
それを掴んでいないと、どこまでも沈んでいってしまいそうな、漠然とした不安。
夫は優しい。生活に不満もない。それなのに、なぜだろう。
時折、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われるのは。
その日も、沙耶はSNSのタイムラインをぼんやりと眺めていた。
友人が投稿した海外旅行の写真に、半ば機械的に「いいね💖」を押す。
画面の中の青い海と空が、この静かすぎるリビングとは別世界のもののようだった。
ふと、PCの画面の右下に、見慣れないポップアップが表示された。
《セキュリティ警告:お使いのシステムは危険に晒されています》
赤く点滅するその文字を、沙耶はいつもの広告だろうと判断し、迷わず右上の「×」ボタンをクリックした。
警告は、音もなく消えた。
彼女は知らない。
その瞬間、彼女が完璧だと思っていた世界に、見えない亀裂が走ったことを。
その亀裂から、冷たく粘ついた何者かが、静かに侵入し始めていたことを。
リビングの窓の外では、影がゆっくりと長くなり始めていた。
沙耶は欠伸を一つして、夕飯の準備のために腰を上げる。
いつもと同じ、昨日と寸分違わぬ、穏やかな夕暮れ。
その平和な風景を、PCのウェブカメラのレンズが、無機質な瞳でじっと見つめていることなど、彼女は知る由もなかった。
拓也が帰宅し、いつものように「おかえり」と迎える沙耶の顔に、わずかな疲労の色を見たのだろう。
「何かあったか?」
彼はそう尋ねたが、沙耶は「ううん、何でもないわ」といつもの笑顔で答えた。
その笑顔の裏に隠された小さな翳りに、拓也が気づくことはない。
しかし、彼の言葉の奥に、沙耶自身が無視しようとしていた、もう一つの「監視の目」の存在が、漠然と引っかかっていた。
それは、夫の優しい視線とは、全く異なる性質を持つものだった。

