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「私って生きるのに向いていない」と嘆く、優秀で優しすぎるあなたへ。

 以前お会いしたことがあり、今もたまにブログを拝見している、私より若い方がいます。とても一生懸命に生きているその方の、最近のネットでの発信を見て、私は深く考えさせられました。

 その発信には、対人支援の現場で起きた出来事が綴られていました。目の前で深刻な危機に直面している人がいたため、ご自身の持つ知識と行動力をフル活用して、迅速に救済のための行動を起こしたそうです。

 しかし、その真っ当な行動は、所属する組織の上層部から「全員に同じ対応ができないならやるべきではない」「越権行為だ」と非難され、理解しがたい対応で深く心を傷つけられてしまったとのこと。

 正しいことをしたはずなのに、組織の論理に押し潰され、心身を消耗したとみられるその方は、最後にこうこぼしていました。

「全く、私って生きるのに向いていないみたい」と。

 この言葉を目にしたとき、私の胸はギュッと締め付けられました。
 ・・・と同時に、60代を迎えた今の自分だからこそ、はっきりと伝えられることがあると感じ、この記事を書いています。


■ 有能さと優しさが「組織のノイズ」にされるバグ

 客観的に見て、その方の取った行動は、例えるならば「目の前で溺れている人がいて、自分は泳げるし浮き輪も持っている。だから飛び込んで助けた」というような、人間として極めて真っ当で、賞賛されるべきものです。

 しかし、硬直化した組織やシステムの中では、「全員に同じ浮き輪を配れないのなら、誰も助けるな」というような本末転倒な理屈がまかり通ることがあります。普段、私もnoteで社会の矛盾やシステムの歪みについて書いていますが、多くの組織は「課題の解決」よりも「波風を立てないこと」や「前例に従うこと」を優先しがちです。

 そうした環境では、問題の本質にいち早く気づき、スピーディーに動ける「優秀で共感力の高い人」ほど、組織の不和を招く「異物」として扱われ、不当に心を削られてしまうバグのような構造が存在するのです。

■ かつての自分と、60代になって見えた景色

「自分はおかしいのではないか」
「生きるのに向いていないのではないか」
 その切実な思いは、実は私自身も、20代から30代の頃に、いやそれ以降にも、痛いほど抱えていたものです。

 私は長年、「自分は人間関係が構築できない。そもそも欠陥人間なんだ」と思い違いをして生きてきました。しかし、年齢を重ね、それから最近になって特にここnoteで「他の方々に読んでいただく前提で自分の思うことを書いて」過去の出来事を一つひとつ論理的に筋道を立てて振り返る作業をしていくうちに、明確に分かってきたことがあります。

 あの時の自分は実は正しかった、決して間違っていなかったのだ、と。

 だからこそ、同じように苦しんでいる、そんな方々へ伝えたいのです。
 あなたは「生きるのに向いていない」のではありません。
「硬直化した組織に向いていない」だけなんだと思うのです。

 目の前の人を救おうとしたそのスピード感や、損得を抜きにして動ける真っ当な倫理観は、欠落などではなく、あなたが持つ素晴らしい才能であり、誇るべきものです。

■ 自分の「優しさ」が正しく機能する場所を選ぶ

 あなたを不当に扱い、防衛機制や理不尽なルールで潰そうとする環境からは、静かに距離を置くことを検討した方が良いのかもしれません。自分の命と心をすり減らしてまで、機能不全を起こしているシステムに付き合う必要は無いのですから。

 組織の枠に収まらないのであれば、自分サイズで仕事をしたり、自分を本当に理解してくれるコミュニティに身を置いたりすれば、きっといいのでしょう。あなたの「能力」と「優しさ」がノイズにならず、正しく機能する場所は、きっと自分で選んでいけることでしょう。

 私は60代、あなたはまだまだこれからもある世代。年齢も立場も違いますが、お互いに「自分らしさ」を殺さずに生きていきましょう、と、呼びかけたいです。

 一人の人間が理不尽な自己否定から抜け出し、本来の能力と優しさを伸び伸びと発揮して生きるようになること。それは決して、個人の救済だけにとどまりません。

 あなたが生き生きと活動する姿は、まず身近な周囲の人々を明るくし、その地域の空気を変えていきます。それがやがて、この国のよどんだシステムに小さな風穴を開け、巡り巡って世界へと、確かな良い影響を与えていくことでしょう。

 だからどうか、その美しい魂を「向いていない」なんて言葉で、自分自身の中に閉じ込めないでほしいな、と、そう思ってしまって、つい、こんな記事にしてしまいました。