「今ある憲法を守れ。話はそれからだ」——主権者として、私が憲法改正「論議」それ自体を拒絶する理由
耳当たりの良い「物語」への違和感
最近、国会答弁で「憲法は国の理想の姿を語るもの」という言葉を耳にすることがあります。
一見、美しく前向きな響きに聞こえます。
しかし、私はこの言葉に、私は、民主主義の根幹を揺るがすような危うさを感じます。
なぜなら、そこには憲法の最も重要な本質である「権力者を縛る」という視点が、決定的に抜け落ちているからです。
憲法は、誰のためのものか
憲法とは、国民が守るべき道徳ではありません。
主権者である国民が、強大な力を持つ「国家権力」に対し、「このラインは絶対に越えてはならない」と突きつけた命令書です。
ところが、現在の政権運営を見ていると、自分たちにとって都合の悪い憲法の規定を「邪魔なもの」として扱い、守る努力を怠りながら、「実態に合わないから変えるべきだ」と主張しているように見えます。

憲法第99条という「重い義務」
日本国憲法第99条は、閣僚や国会議員に対し「憲法を尊重し擁護する義務」を明確に課しています。
憲法が現状に合わないのであれば、まず政治がやるべきは、憲法の精神を現実に反映させるための血の滲むような努力ではないでしょうか。
その職務を全うせず、守るべきルールそのものを自分たちの使いやすいように書き換えようとする。
これは、国民主権に対する明白な挑戦であり敵対行為です。
なぜ今、議論に乗ってはいけないのか
「議論すること自体は自由ではないか」という声もあります。
しかし、私は断言します。
権力者が現行憲法を軽視し尊重していない現状において、憲法改正の議論に応じることは、主権者にとって「有害であり、極めて危険」です。
ルールを守らない審判と、ルールの変更を相談してはいけません。
それは、私たちの権利を切り崩すための「トロイの木馬」を招き入れることに等しいからです。
守り抜くことが、未来を創ること
私は、今の日本国憲法を守り抜きたい。
それは現状維持を望む保守的な考えからではありません。
この憲法を尊重擁護すべき人々がこの憲法に込められた平和の希求、人権の尊重、そして権力の暴走を許さないという精神を徹底的に守り、運用してこそ、そして私たち日本国民がそういう人たちにそうさせて行ってこそ、それが私たちやその郷土や地域、そしてこの国の真の維持発展につながっていくからです。
「今ある憲法を守れ。話はそれからだ」
この一線を譲らないことこそが、今、私たち主権者に求められている最大の責任ではないでしょうか。
そして、憲法が当たり前に守られる世の中であってこそ、この国の中でちゃんとこの憲法を守りあるいは守らせている立場の中から憲法改正の論議が出てきた場合、その時だけはきっと、喜んでその議論に参加しても良いのでしょう。
でも、その域にちゃんと達していない限りは、その話自体には「絶対に」応じないでおくべきです。

(追加)そういえば、半年以上前…こんな記事も書いてしまっていました。
