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シュガーロード|第1話 星の声を聞く少女

あらすじ

戦と妖魔の襲撃の傷が残る大陸。星の声を感じ取る少女リィナは、夜空の乱れから、国と種族を隔てる「境界」が揺らぎ始めたことを知ります。同じ頃、ヒト族とゴブリン族の血を引く旅商人ナーヴは、規制された甘味・甘露石を運ぶ道中で、母を連れ去られたゴブリンの少女リルゥを救います。星暦観測士、ミードの将軍、教皇庁の監察官も加わり、一行はシュガーロードを北へ進みます。門前都市ラシュタ・ルームで、通行証、救済、甘露石の価格を操る《双月連合商会》の帳簿と、星図記号の不穏な関係に直面した彼らは、街の不満が暴動へ変わるのを防ぎ、記録と証言によって道を引き直そうとします。

* * *

第一章 シュガーロードに落ちた影


1 星の声を聞く少女

リィナは、初めて星の声を聞いた夜を、今もはっきり覚えている。まだ六つか七つの頃だった。窓の外には、戦の煙も妖魔の咆哮も届かない、ただ冷たい夜風だけが流れていた。それまで彼女にとって、星とは、空に散らばる光の粒でしかなかった。
その夜、一つの光が、尾を引きながら空を割った。
「あ……」
声にならない声が、胸の奥から零れた。流れ星など珍しくもないはずなのに、その光は、彼女一人に向かって落ちてくるかのように鮮やかに見えた。胸の奥が、熱くなる。見上げているだけなのに、息が苦しい。目の奥がじんじんと痛み、涙がにじんだ。
――星が、呼んでいる。
言葉になるより先に、その感覚だけが胸へ届いた。
「リィナ? どうしたの、泣いてるの?」
背後から母の声がして、リィナははっと振り向いた。自分が泣いていることに、その時ようやく気づいた。
「わかんない……でも、星が……」
言いかけて、言葉に詰まる。星がどうしたのか、自分でも説明できない。ただ胸の奥で、見えない何かが彼女を強く引いている。
母はそっと彼女の頭を撫でた。
「怖かったの?」
「ううん……こわくない。でも……」
怖くはない。むしろ、懐かしくてたまらない。なのに胸は、締め付けられるように苦しかった。
母は目を細めた。その目に一瞬、驚きが宿った。
「……お父さんに話してみましょう。もしかしたら、あなたは特別なものを持っているのかもしれないわ」
その晩、家の灯りはいつもより遅くまで消えなかった。

数日後、父に連れられて訪ねたのは、町外れに住む年老いた魔導師だった。
「星を見て泣いた、だと?」
白髪まじりの髭を撫でながら、老人はリィナをじろりと見つめた。赤黒くよれたローブは、長年の使用で所々擦り切れている。
「……ここに座りなさい、娘さん」
促されるまま椅子に座ると、老人は棚の奥から、青い石のついた小さな杖を取り出した。先端の石が、かすかに光を帯びる。
「目を閉じて、あの夜のことを思い出しなさい。星を見て、胸の奥がどうなった?」
リィナは言われた通りに目を閉じた。闇の向こうに、あの夜の光が浮かび上がる。尾を引きながら落ちていく星。胸を締め付けるような苦しさと、懐かしさ。
その時、杖の石が一層強く輝いた。老人が息を飲む気配が、暗闇の向こうから伝わってくる。
「……ほう。星の魔力に、これほど素直に同調するとは」
「どう、なんですか?」
不安げな父の声。リィナは目を開けた。老人は、先ほどまでの半ば退屈そうな表情をすっかり消し去り、どこか遠くを見るような、真剣な目をしていた。
「この娘は、星の流れを感じ取る感応力を持っている。それも、ただの素質ではない。……これは、時代を変えうる光だ」
「時代を……?」
父が目を丸くした。リィナは、話されている意味の半分も理解できないまま、老人の顔を見つめる。老人はゆっくり首を振った。
「だが、同時に危うくもある。今の大陸は、戦と妖魔の襲撃で荒れ果てている。この力をどう扱うかで、この子の運命も、周りの運命も変わるだろう」
それは、重い予言のように部屋へ落ちた。

妖魔が街を襲い、世界は再び暗く染まる。逃げ惑う中で両親を失い、孤独な少女となったリィナを拾ったのは、放浪学者カーヴェルだった。
「泣きたいだけ泣きなさい。だが、生き残った理由は、いつか自分で探しなさい」
それは、星とは異なる熱をリィナの胸に灯した。

数年後。リィナは学問塔――グラーナ塔の一室で、夜空を眺めていた。塔の窓から見上げる星空は、かつて故郷で見たものよりずっと広い。だが、あの夜の光だけは、今も鮮明だ。胸の奥で、同じように熱を帯びて響いている。
「……星は、何を告げようとしているの?」
つぶやいたその瞬間、遠くの空で、ひとつの光が流れた。
今度は、南西――かつて古代エルディアと、いまはヨーン帝国とミード帝国を結ぶはずだった大陸の大動脈、シュガーロードの方角へ。リィナは、ふと胸騒ぎを覚えた。星の軌跡が、いつもより、乱れている。
(……境界が、揺れている?)
世界と世界の継ぎ目――国と国、人と人、時代と時代。それらをつなぎ合わせる目に見えない縫い目が、きしんだ音を立てているような感覚。リィナは窓枠を握りしめた。
その揺れは、どこかで誰かの選択を変えつつある。
その翌日、シュガーロードを進む一人の男が、境界をめぐる事件へ足を踏み入れようとしていた。


2 境界を歩く男

ナーヴ・イリュンは、鼻歌を歌っていた。
「♪雪の村出て 二つの空を越え
砂の都で 甘い夢を買う~」
わざと調子を外した歌声が、乾いた風の中に溶けていく。荷車のきしむ音。馬の蹄が、土の道をぽくぽくと叩く。
ここはヨーン帝国南西部、シュガーロードの北端から外れた支道。かつては大陸中の荷馬車と旅人でごった返していたというが、今は戦の傷跡と、信仰をめぐる緊張の余韻が、道を寂れさせている。
「ナーヴさん、その歌、また適当に作ったでしょう」
荷車の隣を歩いていたのは、ヒト族の若い女性――助手のレアだった。半眼でナーヴを見上げ、癖っ毛の茶髪をひとつにまとめ、肩には簡素な革鞄を掛けている。まだ十代の終わりだが、計算と交渉に限れば、そこらの商人を軽く出し抜ける。
「適当じゃないさ。旅は歌から生まれるんだ。道が寂しそうにしてたから、少しくらい賑やかにしてあげないと」
「道に情けをかける商人なんて初めて聞きましたけど」
言葉とは裏腹に、レアの口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。ナーヴは肩をすくめ、荷車の幌を軽く叩いた。
「それに、ここには聞き上手なお客さんが積んであるからな。退屈しないように、少しくらい音楽を届けてやらないと」
幌の内側には、木箱がぎっしりと詰め込まれている。一見ただの生活用品に見えるそれらの箱の奥に、数箱だけ、特別なものが紛れていた。
――甘露石(かんろせき)。
南方の甘樹から採れる樹液を、ミード帝国式の技術で固めた甘味の塊。舌の上で溶かすだけで、砂糖十杯分の甘みが広がるとまで言われる代物だ。本来なら高額の関税がかけられ、ヨーン帝国内に持ち込める量は厳しく規制されている。
だが、規制が厳しければ厳しいほど、人は抜け道を探す。
「ところで、レア。この道の先にある村の名前、覚えてるか?」
「ええ。グラズの小村ですよね。“検問がきつくて商人泣かせ”って、ギルドでも有名なところ」
「そう、その“商人泣かせ”だ」
ナーヴは愉快そうに笑った。
「普通の商人は、ああいう場所は避ける。だからこそ、あそこに甘露石を持っていく意味がある」
「……買う人、いるんですか? こんな辺境で」
「いるさ。戦で甘いものを忘れた兵士、病気の家族に少しでも贅沢をさせてやりたい農夫。世界中どこにだって、“甘い夢”は求められる」
レアは少し眉をひそめた。
「でも、見つかったら……」
「怒られるな。たぶんひどく」
ナーヴはあっさりと言って、レアの頭をぽんと撫でた。
「心配性だな。大丈夫、俺はこう見えても“越境者の息子”だ。ヨーンの神殿側の顔色と、ミードの商人の腹の内、両方そこそこ読める」
冗談めかした言葉の半分は、事実だった。ヒト族の父と、ゴブリン族の母。どちらの血も引くナーヴは、どちらの国でも異物で、どちらの国でも、自由だった。
だからナーヴは、誰も歩きたがらない境界を好んで選ぶ。


3 前触れ

昼過ぎ。道の先に、白い建物の影が見えてきた。小さな祈り堂を改造した検問所だろう。壁にはヨーンの信仰を示す月印が掲げられ、その前には槍を持った兵士たちが立っている。
「……噂通りですね」
レアが小さく息をのんだ。
「神殿騎士団ですよ。あの徽章」
兵士たちの胸元には、教皇庁直属の騎士団――神殿騎士団の紋章が光っていた。彼らは聖浄軍ほど大規模ではないが、禁制違反の取り締まりに関しては容赦がないことで知られている。
「お前、よく見てるな」
「情報は、生き延びるための道具ですから」
レアの返答に、ナーヴは苦笑した。
「よし。じゃあ、生き延びるために、今日は“真面目な商人”をやるぞ」
「いつも真面目じゃないみたいな言い方ですね」
「ああ、もちろん、いつも真面目さ。ただ、真面目の方向がちょっと違うだけで」
軽口を交わしながらも、ナーヴは内心で呼吸を整えた。幌の中、甘露石の箱の上には、さらに分厚い布と、安物の雑貨が重ねられている。見つかりにくくはしてある。だが、見つかる時というのは、大抵“運”が悪い時だ。
(風向きは……悪くない。さて、今日はどっちの風が吹くか)
荷車を引いて検問所に近づくと、兵士の一人が手を上げた。
「止まれ。ここは教皇庁神殿騎士団の検問所だ。通行証を確認し、荷を改める」
「ははあ。お勤めご苦労なことです」
ナーヴは馬を止め、笑顔で一歩前へ出た。
「大陸旅商人ギルド所属、ナーヴ・イリュンと申します。こちらが通行証。それと、これはささやかながら乾燥肉です。長い詰め所暮らしに、少しでも気晴らしになればと」
「賄賂か?」
兵士は眉を吊り上げたが、背後から別の声が割って入った。
「いいじゃないか、こういうのは“人情”という」
声の主は、一人の壮年の男だった。鎧の上からでもわかるほど筋肉質で、顔には古い傷が一本、斜めに走っている。
「隊長!」
兵士たちが慌てて姿勢を正した。男――神殿騎士団小隊長のラウルは、ナーヴの差し出した通行証に目を通すと、ふと目を細めた。
「……イリュン? どこかで聞いた名だな」
(やれやれ)
ナーヴは内心で肩をすくめた。
「どこでしょうね。大陸は広いようで狭いですから」
ラウルはしばし考え込んだ後、首を振った。
「まあいい。決まりだ、荷を改めさせてもらうぞ」
兵士たちが荷車に近づく。レアが一瞬だけ不安そうにナーヴを見上げた。
「大丈夫。深呼吸」
小声でそうささやき、ナーヴは一歩下がった。兵士たちは慣れた手つきで幌をめくり、木箱を叩き、時には蓋を開けて中身を確かめる。布、食料、安物の工具、陶器。どれも、特に怪しいものはない。
「こちらの箱も開けていただこうか」
一人の兵士が、甘露石の積まれた列の、三番目に手を伸ばした。
――そこは、甘露石の箱ではない。ナーヴは瞬時に位置関係を思い出し、内心で指を折って数えた。
(……問題ない)
兵士が蓋を開ける。中から出てきたのは、ミード帝国製の安価な布だった。
「む……」
兵士は布を一枚つまみ上げ、光に透かした。
「ミード製か。関税は支払ってあるのだろうな?」
「もちろん」
ナーヴは用意していた領収証を差し出した。ラウルがそれを受け取り、一瞥してうなずく。
「問題なしだ。……しかし」
彼はふと視線を上げた。
「最近、この辺りで甘露石の密輸が横行しているという話だ。ミード帝国から運ばれた甘味が、戦で疲れた兵士たちの規律を乱すと、教皇庁は懸念しておられる」
(堕落ねえ……)
ナーヴは内心で苦笑したが、表情には出さなかった。
「甘露石なんて、そんな高級品、僕らの荷車には似合いませんよ」
その時だった。
「たいちょーっ! こっちに変なの、いました!」
検問所の建物の影から、若い兵士の声が響いた。全員の視線がそちらに向く。レアも、反射的にそちらを見た。
石造りの壁の陰に、小さな影が蹲っていた。それは――灰色の肌に、尖った耳。薄い布をまとった、小柄な体。
「……ゴブリンの子ども?」
レアがつぶやいた。子どもは震えていた。足元には、破れた布袋と、転がった干し肉のかけら。どうやら、検問所の食料庫に忍び込んでいたらしい。
「異種族の不法侵入か」
一人の兵士が顔をしかめ、剣の柄に手をかける。
「食料を盗もうとしていたようです!やっぱり異種族は――」
「待て」
ラウルの声が、それを制した。彼はゆっくり子どもに近づき、その前にしゃがみ込む。
「お前、一人か?」
子どもは唇を噛みしめ、うつむいたまま何も答えない。だが、その震えはひどく、今にも倒れそうだった。
「隊長、こんなやつ――」
「“やつ”ではない、“子ども”だ」
ラウルの声が低くなる。
「だが、規則は規則だ。異種族の不法侵入は、教皇庁の裁きを仰がねばならん」
空気が重くなった。兵士たちの間に緊張が走る。ナーヴは息を吐き、ラウルの方へ歩み寄った。
「隊長さん」
「……なんだ、イリュン」
「この子、俺の荷物ってことにできませんかね」
空気が凍りついた。レアが「はあっ!?」と間の抜けた声を上げる。
兵士たちも呆れ、あるいは怒りの入り混じった目を向けてきた。ラウルは眉をひそめる。
「冗談を言っている場合か」
「いたって本気ですよ」
ナーヴは肩をすくめた。
「俺たちのギルドは、各地の孤児を見つけては荷物持ちや帳簿係として引き取ることがあります。この子も、“たまたま”この近くで見つけたってことにすれば……教皇庁に送って病気と飢えで死ぬよりは、少しはましでしょう?」
「ナーヴさん……」
レアが彼の袖を引いた。目には明らかな不安が浮かんでいる。ラウルは黙ってナーヴを見つめ、それからゴブリンの子どもに視線を落とした。
「……名前は?」
子どもは、かすかに顔を上げた。黄金色の瞳が、恐怖と警戒で揺れている。
「……リ、ルゥ」
掠れた声が漏れた。それは、かつてナーヴがミード帝国で出会ったあるゴブリン女性と同じ系統の名前だった。
(……そうか)
ナーヴは一瞬だけ目を細め、その表情をすぐ隠した。ラウルは立ち上がると、大きく息を吐いた。
「好きにしろ」
「隊長!」
「規則は、守られるためにある。だが、人を守るために破らねばならぬ規則もある。お前たち、何も見なかった。いいな?」
兵士たちは顔を見合わせ、不満げにしながらもうなずいた。ナーヴは軽く頭を下げ、リルゥと名乗った子どもの肩に手を置いた。
「よし、決まり。今日からお前は荷物だ。人間の村は怖いが、荷車の中はまあまあ居心地がいいぞ」
「……へんな人」
リルゥは、かすかに口元を歪ませた。それが笑顔なのか、ただの戸惑いなのか、まだ判別はつかない。だがその瞬間、検問所の上空を、一筋の白い光が横切った。
ナーヴは思わず顔を上げる。
「……流れ星?」
昼の名残りを引きずる薄い空に、あり得ないはずの光の筋が刻まれた。それは一瞬で消えたが、胸の奥に、妙な引っかかりだけを残していった。
(……風向きが、変わり始めている)
商人の勘か、それとも別の何かか。ナーヴはそれ以上考えるのをやめ、荷車へと戻った。
「さ、行こうか。道は待ってくれない」


4 塔の窓から

ほぼ同じ頃。グラーナ塔の上階で、リィナは机に広げた星図の上に視線を落としていた。小さな印をつけた箇所――昨夜観測した星の動きが、微妙に軌道をずらしている。
「やっぱり……」
星々は規則正しく巡る。だが、ごく稀にその軌道が乱れる。誰かが、大きな決断をした時。どこかで、境界が越えられた時。
因果関係を証明するには、観測材料が足りない。それでも、リィナの感覚はそう告げていた。彼女は窓の外に目を向ける。遥か遠く、南西の地平線。そこに、さっき見えたような気がした光の残像を探す。
「……また、誰かが“線”を跨いだ」
こぼれた言葉は、誰に向けられたものでもなかった。国境という線。種族の違いという線。信仰と不信の間に引かれた線。
それらを踏み越えた誰かの足跡が、星の上に、かすかな揺らぎとして現れている。
(この揺れは、きっとすぐには誰にも気づかれない。でも、積もり積もれば――)
リィナは、その力を感じながらため息をついた。
「塔の中からじゃ、何もできない、か」
窓を通して吹き込む風が、星図の端をめくった。そこには、数日前、師であるカーヴェルの古い友人から届いた手紙が挟まれている。差出人にはこう書かれていた。
――大陸旅商人ギルド領袖 ナーヴ・イリュン
手紙には、戦後のシュガーロードの現状や、ヨーンとミードの間でくすぶり続ける火種について、率直な言葉が綴られていた。
「境界を歩く商人、か……」
リィナはつぶやき、手紙を畳んだ。星は何も語らず、瞬き続けている。
大陸のどこかでは、境界線を笑いながら歩く男と、新しい荷物になった小さなゴブリンの子どもが、すでに一歩を踏み出していた。リィナの胸にも、先ほど見た流れ星の残光が消えずに瞬いていた。
その光は、塔の外へ続く道を指しているように見えた。

* * *


次回:第2話「荷物になった子ども」


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