シュガーロード|第2話 荷物になった子ども
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第一章 シュガーロードに落ちた影
5 荷物になった子ども
「ほら、頭をぶつけるなよ。ここが今日からお前の部屋だ」
ナーヴは荷車の幌をめくり上げながら、リルゥの背中を軽く押した。
中は意外なほど整頓されている。木箱の隙間には折り畳み式の簡易ベッド、壁側には小さな棚。旅の道具や帳簿、替えの服がきっちりと詰まっていた。
「……せまい」
「外よりはマシだろ?」
「うーん……」
子どもは唸りながら、棚の布束を押して感触を確かめた。指先から緊張が解けていく。
レアが幌の外から顔をのぞき込んだ。
「本当に連れてくんですね、この子」
「連れてかない理由があるか?」
「ありますよ。たくさん」
レアは指を折り始めた。
「一つ、異種族。二つ、子ども。三つ、神殿騎士団の前で拾った。四つ――」
「四つ目まであるなら、もう十分だな」
ナーヴは苦笑して、レアの手を止めた。
「でも、それでも連れてく。道端に落ちてる金貨は、拾える時に拾うもんだ」
「お金扱いですか」
「褒め言葉だぞ?」
リルゥが、きょとんとナーヴとレアを見比べた。
「……あたし、金か?」
「これから、だな」
ナーヴはウインクしてみせた。
「自分の足で歩けるようになって、自分の頭で考えられるようになったら――どんな金貨より価値が出る」
「わかんない」
「わかんなくていい。とりあえず、腹は減ってるだろ?」
ナーヴが袋から干し肉と固パンを取り出すと、リルゥの目が輝いた。しかし手を伸ばしかけたところで、はっとして引っ込める。
「……代金」
「えらいな」
ナーヴは思わず笑ってしまった。
「じゃあ、今日の代金は質問に答えること。どうだ?」
「しつもん?」
「名前は聞いた。リルゥだな。次は――なんであんなところで一人でいた?」
その問いに、リルゥの肩がぴくりと震えた。
少しの沈黙。荷車の外で、風が幌を叩く音だけが聞こえた。
やがて、か細い声が漏れる。
「……おかあ、つれてかれた」
「連れていかれた?」
「きのう。ヒトの兵が来て、居留地はだめだって。『異種族は危ないから、ここにはいられない』って」
言葉を探すように、リルゥは途切れ途切れに続けた。
「男の人たちは、ミードにもどされるって。でも、あたしと、ちいさい子たちは……どこか、べつのところにつれてくって」
「別のところ?」
レアが眉をひそめる。
「どこって言ってた?」
「わかんない。でも、おかあは、目がこわくなってた」
リルゥは膝を抱え込んだ。
「“戻ったら、もう会えないかもしれない”って。だから、にげた」
ナーヴは静かに息を吐いた。
(ヨーンの中の“管理された異種族”たちか……)
戦が終わった後も、帝国内に残っていたミード出身者たちは、徐々に「居留地」と称される区域に押し込められていた。
表向きは保護。実際は監視と隔離。
最近では、その居留地をさらに整理する動きがあると、ギルドでも噂されていた。
「……どこから逃げてきた?」
「えっと……」
リルゥは指で空中に何かを描きながら、かすかな記憶を手繰り寄せている。
「川があって、橋が一本で、丘の上に、白い塔があった」
「川、橋、白い塔……」
レアが旅人の地図を頭の中で広げるように目を細めた。
「ヨーン南西の第七居留地かも。あの辺り、最近取り締まりきつくなってるって聞きました」
「だろうな」
ナーヴは荷車の側面を、軽くこぶしで叩いた。
「つまり――この子は、“いらなくなった客”ってわけだ」
「言い方」
レアが呆れたように言う。
ナーヴは、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「でも、真実だろ?国ってやつは、都合が悪くなるとすぐ“いらない”って言葉を使う」
彼はリルゥに視線を戻した。
「よし、リルゥ。お前は今日から、俺たちの“荷物”だ」
「あたし、やっぱり金なのか?」
「もちろん」
ナーヴは茶目っ気たっぷりに笑った。
「ただし、ただの金貨じゃない。もしかしたら――この先の時代をひっくり返すくらいの、とんでもない“投資”かもしれない」
リルゥはよくわからないという顔をしたが、干し肉にはしっかりと手を伸ばした。
その仕草に、ナーヴの中で固くなっていた何かが少し緩む。
(まあ、どう転んでも――退屈だけはしなさそうだ)
彼はそう結論づけることにした。
6 グラズの村にて
検問所を抜けて行くと、丘の合間に、素朴な石造りの家々が見えてきた。
小さな村――グラズ。風に晒された看板には、かろうじて村の名前が読める。
「相変わらず、寂しい村ですね」
レアがぽつりとこぼした。
「何度か来たけど、人が増えた気配がしません」
「まあ、ここは“通り道の隙間”みたいな場所だからな」
ナーヴは肩をすくめた。
「シュガーロードの本線からは外れてるし、神殿騎士団が近くをうろついてるから、物好きな商人以外は寄りつかない」
「物好きな商人がここにいるわけですね」
「光栄だな」
荷車を引いて村の広場に入ると、ちらほらと視線が集まった。
老人、子ども、鍬を持ったまま足を止めている農夫。彼らの表情には警戒と期待が半々に混じっている。
ナーヴはおおげさに両手を広げた。
「大陸旅商人ギルド、ナーヴ・イリュン商隊、ご到着~!今日は塩も布も釘もありますよー。ついでに――甘い話も、ちょっとだけ」
「甘い話は後ろの方でやってください」
レアが小声で突っ込んだ。
広場の端、半分崩れかけた井戸のそばに、村長と思しき老人が立っていた。
「おお、ナーヴの若造じゃないか」
「若造は余計ですよ、村長さん。でも、覚えててくれたのは嬉しいですね」
老人――グラズ村長のホルンは、ひび割れた手でナーヴの肩を叩いた。
「そりゃあ覚えておるとも。この村に甘露石を持ち込んだ最初の阿呆だ。忘れろという方が無理じゃ」
「名誉ある“最初の阿呆”ってやつですね」
ナーヴは笑い、レアとリルゥを紹介した。
「こいつが助手のレア。帳簿と数字担当。で、このちびが――今日からうちの“荷物”だ」
リルゥは少し戸惑いながらも、ぎこちなく頭を下げた。
「……リルゥ、です」
ホルンは目を細めて彼女を見つめ、何かを察したようにうなずいた。
「ふむ。犬一匹増えたと思えばどうということもない」
「犬扱いですか」
レアが苦笑する。
「さて、今日は何が高い?」
ホルンの問いに、ナーヴはにやりと笑った。
「なんといっても――甘みですよ」
それに、広場の空気がわずかに揺れた。
甘み。この村で、その一言がどれほどの重さを持つか、ナーヴはよく知っている。
「病気の嫁に、もう一度甘いものを食わせてやりたいって言ってたおじさんは……」
ナーヴが周囲を見回すと、人混みの中から、疲れた顔の男が一歩前に出た。
「あ、ああ……ここにいる」
「よかった。来てくれて」
ナーヴは荷車に戻り、奥の方から、小さな木箱を一つ取り出した。
箱を開けると、小指ほどの大きさに切り出された透明な欠片が、淡い琥珀色の光を反射する。
リルゥが思わず息をのんだ。
「……あめ?」
「そう。“固い雨”って呼ぶミードの地方もある」
ナーヴは少し欠片をつまみ、男に見せた。
「水に溶かせば甘い飲み物。そのままなめれば、しばらく離れられない甘さ。病人に一欠片だけ、って約束だったな?」
男は唇を震わせた。
「だ、だが……高いんじゃないか……?」
「そりゃあ安くはない。けど、今回は“特別価格”だ」
ナーヴは指を一本立てた。
「条件は一つ。これを飲ませたあと、奥さんが一言でも何か言ったら――その言葉を、今度また俺に教えてくれ」
「……それだけで、いいのか?」
「そう。商人ってのは、金以外の“見返り”も集める生き物なんでね」
男はしばらく迷った末、深々と頭を下げた。
「頼む……頼むよ」
取引が成立すると、周囲からも小さなざわめきが起こった。
「うちも少し……」
「子どもに一舐めでいいんだ……」
甘みを求める声は、贅沢ではなかった。戦と飢えと病の中で、“生きている感覚”を取り戻すための願いだった。
ナーヴは一人ひとりと視線を合わせながら、箱の中身を慎重に分けていく。
リルゥは、それをじっと見つめていた。
(……変なヒトだ)
ミード帝国で見てきた商人たちは、いつも目をぎらぎらさせて、できるだけ多く、できるだけ高く売ろうとしていた。
この男は、笑いながら値段を決め、薬を分けるような手つきで甘露石を配っている。
金勘定が抜けているわけではない。かといって、ただの善人とも違う。
(なにを、してるんだろ)
リルゥにはまだ、その答えがよくわからない。
7 火種
夕暮れが近づく頃、村の空気が変わった。
風のにおいに、鉄と油の臭いが混じる。
「……隊商?」
レアが眉をひそめる。
「いや、これは――」
ナーヴの答えを待たず、村の入り口から列をなした影が現れた。
鎧。槍。掲げられた神殿騎士団の旗。
神殿騎士団――検問所にいた連中よりも、一回りは装備が整っている。
「こんな時間に祈りを捧げに来たわけじゃないよなあ」
先頭には、見覚えのある顔がいた。
「……ラウル隊長?」
彼もナーヴたちに気づいたらしく、一瞬だけ視線が交差した。
その目に宿るのは、先ほど検問所で見せたものとは違う硬さだった。
村長のホルンが、緊張した面持ちで前に出た。
「神殿騎士団の皆様……本日は、どのような御用向きで?」
「教皇庁からの通達により、この周辺での異種族の不法滞在と密輸行為の調査に参った。村長殿、協力願いたい」
広場の空気が、一気に冷える。
ナーヴは自然な動きで荷車の前へ回り込み、幌の影にリルゥを隠す位置を取った。
「レア」
「わかってます」
レアはそっと幌に手を伸ばし、内側に向かって小声でささやいた。
「リルゥ、奥の寝台の下へ。音を立てないで、そこから出ちゃだめ」
荷箱の奥には、旅の貴重品を隠すために作られた狭い収納がある。寝台の下へ身を滑り込ませたリルゥの黄金色の瞳が、不安げに瞬いた。
「……また、にげる?」
「違うよ」
レアは首を振った。
「今度は――守る番」
「ナーヴ・イリュン」
ラウルが名を呼んだ。
「先ほどは世話になったな。検問所を離れた直後、追加の捜索命令が届いた。近隣の村を、もう一度改めろとな」
「いえいえ。あの程度の干し肉で恩を売れるなら、いくらでも持ってきます」
ナーヴは笑って返す。
「……荷を、改めさせてもらえるか」
「さっき改めたばかりじゃないですか」
「命令だ」
短い言葉。だが、その背後にあるものは重い。
ナーヴは少し肩をすくめた。
「隊長さんも大変ですね。わかりました。どうぞ。――ただし、壊したら買い取りですよ?」
兵士たちが再び荷車に近づく。今度は検問所の時よりも明らかに念入りだ。
木箱を動かす音が、やけに大きく響く。幌の内側で、リルゥの呼吸が速くなるのが、レアにははっきりとわかった。
(おちつけ、おちつけ……)
自分にも言い聞かせながら、レアはそっと幌を押さえた。
兵士が、甘露石の箱の列に手を伸ばす。
「隊長。この辺り、妙に重いですが」
「荷箱は全部開けろ。寝台と商人の私物には触れるな」
ラウルの声が落ちる。
(……さすがに、運だけでは乗り切れないか)
ナーヴの背筋に、冷たい汗が流れた。
兵士が一つ、また一つと荷箱を開ける。布、工具、陶器。ラウルが指定した範囲から外れた寝台の下で、リルゥは息を殺していた。
そして――
甘露石の箱の蓋が、音を立てて開いた。
琥珀色の欠片が夕陽を反射し、周囲の空気を一瞬だけ止めた。
「隊長。見つけました。甘露石です」
「個人用の量だろう?村の人たちに少しずつ売って……」
ナーヴの言葉を、ラウルは手で制した。
「教皇庁の基準では“過剰”の量だ。密輸の疑いは十分にある」
村人たちの間にざわめきが走る。
ホルンが一歩前に出た。
「待ってくれ、隊長。わしらが頼んだんだ。病人や子どもらに、少しでも――」
「村長殿。お気持ちは察する。だが、我々は“律法”に従う者だ」
ラウルの表情に迷いはあったが、その声は揺らがなかった。
「ナーヴ・イリュン。君を拘束する」
その瞬間、幌の影で何かがきゅっと縮こまる気配がした。
レアは息を飲んだ。
ナーヴは一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「拘束って割には、まだ誰も俺に手をかけてない」
「抵抗するつもりか?」
「まさか」
ナーヴは両手を上げてみせた。
「ただ――話を、させてくれませんか」
「話?」
「俺一人を縛っても、事情は何も解決しませんよ?」
ナーヴは周りを見回した。
甘露石を受け取った男が、不安げにこちらを見ている。他の村人たちも、息を詰めて立ち尽くしている。
「この村が何に困ってるのか。この甘露石が何の代わりなのか。隊長さん、本当に知らないままで、“律法を守りました”って帰るつもりですか?」
ラウルの目が細くなる。
「……口が回る男だな」
「職業柄」
ナーヴは笑ったが、その目だけは真剣だった。
「五分。たった五分、話を聞いてくれればいい。その上で俺を縛るって言うなら、素直に手首を差し出します」
沈黙が落ちた。
やがてラウルは、短く命じた。
「……わかった。お前ら、周囲を警戒していろ。軽率な真似はするな」
兵士たちは不満そうにしながらも、命令に従った。
ナーヴはほっと息を吐き、村長と男、そしてラウルを中央に集めた。
リルゥは幌の隙間から、その光景を固唾を飲んで見守っていた。
(また、まもられる?また、すてられる?)
自分でもわからない問いが、胸の中でぐるぐると回る。
その時――遠くの空を、再び細い光が横切った。
誰も気づかないほど小さな、星のささやきのような光。
塔の上からそれを見ていたら、誰かがきっとこう言っただろう。
“また一つ、境界が揺れた”と。
だがこの村では、ただ夕暮れの色が濃くなっていくだけだった。
ナーヴは口を開き、“越境者”としての言葉を紡ぎ始める。
幌の中で息を潜めるリルゥは、その声をじっと聞いていた。
8 越境者の言葉
ナーヴは、ゆっくり視線を上げた。ラウル、村長ホルン、甘露石を受け取った男――そして、周囲を取り囲むように半円を描く村人たち。誰もが固まったように沈黙している。
これほど注目を浴びるのは、旅商人としては悪くない。だが、今回はばかり荷が重い。
「さて、と」
ナーヴは小さく息を整えた。
「隊長さん。“密輸”って言葉はたしかに正しい。甘露石は本来、ミード帝国からの正規流通でしか入ってこないはずですからね」
「それを承知で運んできたということか」
ラウルの声は硬い。だが、その奥には“聞く姿勢”があった。
ナーヴは静かにうなずく。
「はい。でも――正しい法律ってのは、“正しい現場”があってこそ成り立つものです」
「正しい現場?」
「この村の現場のことです」
ナーヴは地面を指さした。
「この土地には、甘露石どころか、薄甘い糖蜜すら滅多に手に入らない。戦の余波で病人が増えて、子どもは痩せて、疲れた大人は、今日を生きるのが精一杯なんです」
言葉に、村人たちがうなずく。
「医者もいなければ、薬師もいない。手に入る薬草は少なく、メシは塩気の強い保存食ばかり。口の中が荒れるし、気力も落ちる。そんなときの“ひとかけらの甘さ”が、どれだけ救いになるか……隊長さん、想像できますか?」
ラウルの眉が動く。彼は思わず拳を握りしめていた。
「……甘露石が、そんなに必要なのか」
「必要ですよ。これが贅沢品に見えるのは、都市の暮らしをしている人だけです。ここでは――甘みは“薬”なんです」
ナーヴはひと呼吸置き、村長の方へ向き直った。
「ホルンさん。この村には医者がいない代わりに、昔から甘露石を少しずつ割って薬代わりにしてきたって、前に言ってませんでしたっけ?」
老人はうなずき、深く息を吐いた。
「……ああ、そうじゃ。甘露石は、乾いた咳にも、胃に重いものにも効く。何より……気持ちが楽になる」
「気持ちが?」
ラウルが眉をひそめる。
ホルンはゆっくり続けた。
「人間、気持ちが折れたら終わりじゃよ。甘いもの一つで生きる力が戻る――そんな日が、戦後のこの村には何度もあったんじゃ」
村人の間から、小さな声が上がる。
「……たしかに。あれがあったから、母ちゃん生き延びたんだ」
「甘いもの食べると、子どもが笑うんだよ」
「久しぶりに甘露石をなめたら、昔を思い出して泣いちまった」
その声を聞くたびに、ラウルの握った拳へ力がこもっていった。
ナーヴは静かに言った。
「隊長さん。俺は“法律に背いてる商人”です。それは否定しません。でも――ここにいる誰かを救うために動くのと、ただ法律のために縛られるのと、どっちが正しいと思います?」
ラウルの拳がわずかに震えた。
沈黙。村長も、村人たちも、レアも。そして幌の影からのぞくリルゥも。全員が、ラウルの返答を待っていた。
そして――
「……お前は、口がうますぎる」
「商人にしておくのが惜しいくらいにな」
ナーヴが苦笑を浮かべると、ラウルは視線を鋭くし、ゆっくり近づいた。
「だが――俺は律法の番人だ。ここで“見逃す”判断は、俺一人では下せない」
「そうでしょうね」
「だから――俺がここでお前を拘束することにしたとしても。その前に、この村を見回る必要がある」
「見回る?」
ラウルの表情には、かすかな“揺らぎ”があった。
「この村に“密輸品に値するほどの贅沢品”がないか。“甘露石が高価な嗜好品として保管されている”証拠がないか。念入りに調べなければならない」
その言葉が、意味するもの。
ナーヴは、小さく笑った。
「なるほど。調査が徹底してると、いろいろ“見落とす”こともあるかもしれない、と」
「……言ってないことまで言うな」
ラウルはため息をついた。
「五分の話は聞いた。その上で――今回の荷は、“特例的に問題なし”と判断する」
村人たちから、安堵の声が漏れた。レアが胸を押さえて深く息を吐く。
だが、ラウルはすぐに続けた。
「ただし。イリュン、次はない」
「次は、もっと上手くやりますよ」
「お前という奴は……!」
ラウルは笑いそうになり、ぎりぎりのところで表情を引き締めた。
「村長殿。この地域は異種族の逃亡が相次いでいる。見かけたら、すぐに我々へ連絡を」
ホルンはうなずいた。が、その口元には、どこか含みのある笑みが混じっている。
ラウルは部下に命じ、神殿騎士団の一行は村を後にした。
その背を、ナーヴはしばらく無言で見送った。
(……ありがとな、隊長さん)
旅商人としての笑みを崩さず、心の中でつぶやく。
9 境界が揺れる音
村の緊張が少しずつ解けていく中、リルゥは荷車の影からそっと出てきた。
「……ナーヴ」
「ん?」
「いまの、なに?」
「商談だよ」
「ちがう。あれ、ナーヴが守った」
レアが横から補足する。
「あなたのことも、この村のこともね。ちょっとは感謝してもいいのよ?」
リルゥはうつむき、何度も口を開きかけ、ようやく小さく言葉を絞り出した。
「……ありがと」
ナーヴは優しく頭をなでた。
「礼なんていらないさ。道に落ちてる金貨は、拾えるうちに拾うだけだ」
「金貨……?」
リルゥは眉をひそめる。
ナーヴは笑った。
「お前のことだよ。これからどんな価値を持つかは、まだわからないけどな」
「……よく、わかんない」
「今はそれでいい」
ナーヴは、村の外へ続く道に視線を向けた。
遠い空では、日暮れの色の奥で、一つの星がわずかに軌道を変えた。
塔の上で、リィナがそれを見ていたなら――きっとこう言っただろう。
「境界が、また一つ揺れた」
ナーヴは荷車の綱を握り直した。
「さあ、行くぞ。仕事はここで終わりじゃない」
レアがうなずき、リルゥも小さく後ろをついて歩き出した。
夜空では、星が静かに瞬いていた。
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