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胃袋と私の一日戦争~美を追い求め、空腹の果てで「ギブミーライス」と叫ぶ~

フリーライターを名乗って数年。私のお仕事用SNSアイコンは、いまだに3年前の「娘の七五三」のときに撮った、後ろ姿の写真である。

お仕事用のアイコン

フリーランスという働き方は、潮の満ち引きに少し似ている。

時代のニーズや自分の体調、もしくは本人によるやる気という名の「気まぐれなバイオリズム」によって、仕事量は波がうねるように増減する。

溺れるほどの繁忙期に悲鳴を上げたかと思えば、一転して砂漠で水を探す旅人のように、

「仕事……どこ……? えっ、私、まだ働けるけど……」

と途方に暮れる日もしばしば。そんなとき、潤んだ瞳で虚空を仰ぐ私は、オアシスなき砂漠を永遠に彷徨うラクダみたいに、どこか頼りない。

そんな浮き沈みの激しいフリーランスとして生きていく中で、この一年、私を取り巻く環境は大きく変化した。

***

2025年は、ライター講座やコミュニティイベントに「noteに詳しいライター」として呼ばれるようになった。

今年1月にはビジネス書を出版し、ありがたいことに売れ行きも好調。書店には並ばない「デジタルファースト版」という出版形式にもかかわらず、実売800部を達成した。書籍編集者の方によれば、どうやらこの形式だと「大健闘」と呼べる数字らしい。

本を出版する前は、本を出せば人生が激変するものだと思っていた。けれど、日常は案外いつも通りに訪れる。相変わらず娘の育児に追われ、ライターとして原稿を書き、

「仕事と洗濯と掃除で一日が終わった……」

と、ラクダのようにぼんやり虚空を仰ぐ日もある。

その一方で、インターネットを覗けば、たくさんの本の感想が届き、胸がほくほくと温まっていくのを感じる。そんな時ふと、思う。ああ私は「作家」になったんだなぁと。

出版したことで、ライターとしての私に「作家」という肩書きが加わった。

とはいえ、まだ新人作家の私は、袖丈も肩幅もどこかしっくりこない、借り物のジャケットを羽織っているような感覚がある。着続けていくうちに、いつか私らしく着こなせるようになるだろうか。

まだ生地の硬い、作家という名のジャケットを羽織りながら、ふと思う。

「……私はいつまで、クライアントに背中を向けたまま、仕事を取り続けるつもりなんだろう」

仕事のステージが確実に変わりつつある今だからこそ、私はようやく「我」に返る。

これまでは顔を伏せ、ただひたすらに「書くこと」で、フリーランスという大波を必死に泳いできた。

けれど、ビジネス作家という名の「おニューなジャケット」を着こなしていくためには――そろそろ、正面を向いてニコリと笑みを浮かべる「プロフィール写真」が必要なのではないか。

もちろん、後ろ姿のアイコンにもメリットはある。顔を出さないことで生まれる「余白」や、「ミステリアスな雰囲気」は、ブランディングとしては十分アリだ。

顔が見えないからこそ「どんな顔なんだろう」と想像が膨らみ、「この人に会ってみたい」に繋がることだってある。

しかし、この道8年以上のベテラン(自称)ともなると、だんだんと「雰囲気で誤魔化す」だけでは、メッキがパリパリと剥がれていくのを感じ始める。

私は今、40代半ば。「後ろ姿の謎めいた着物美女風」をプロフィールで演出し、「シゴデキ感」を小出しにしながら、業界の権力者たちに次から次へとモジモジと媚びを売る。noteには、10年前の「奇跡の一枚」をあたかも昨日撮ったかのように並べる。

こちらの画像は、10年前の写真です。

私はそうやって、キャピキャピ・ぶりっ子という名の「年齢不相応な偽装工作」を、SNS上でひたすら続けてきた━━すべては、自身のイメージアップのために。

ただアラフィフに片足を突っ込んだ私にとって、それが許されるのもあと数年。潮時はとうに来ている。

そして私は今、思ったのだ。本来の武器=スキルで勝負する時期が、ついに来たのだ、と。同時に「仕事ができる人」に見えるよう、やっぱり「プロフィール写真」を撮り直す必要があるのではないだろうか。

そう考えた私は、遅咲きながらもケジメをつけるべく、意を決してプロフィール写真を撮り直すことにした。

ところが、鏡の前に立った私は絶句した。なんと、こともあろうか顔の輪郭は顎周りにぜい肉がついて、数年前より随分とボヤけている。

お腹周りに至っては、使い古した座布団のような厚みの肉が、どっしりと家主のような顔で居座っているではないか。

「別に、今のままでもいいんじゃない?誰も見てないって」

冷徹な私の理性が、ふっと囁く。しかし、かつて恋愛コラムニストとして数百本の記事を書き散らし、愛だの恋だの美意識だのを説いてきた私の「見栄」という名のプロ根性が、それを許さない。

合コン1000回以上経験アリの女性として、日経ウーマン様で取材を受けたこともあります。

「女を捨てたら、物書きとしての感性まで死ぬ」

40代半ば、子持ち主婦。

冷静に考えて、世間が私に「絶世の美女」であることを期待しているはずもない。そんなことは百も承知だ。

それでも、このまま「美」を諦めてしまうことが怖い。なぜなら私は、自分の恋愛遍歴や婚活の醜態を、記事の中で惜しげもなく晒し、それをエンタメへと昇華させてきた 、いわば「女のプロ」 でもある。

もしここで私が「美」を諦めてしまったら、あの頃、必死に━━そして時に狡猾に「女」として生き抜こうとしていた私を否定してしまう気がするのだ。だから私は、自分が女であることを守るために、最も手っ取り早く、そして最も過酷な手段に手を伸ばすことにしたのだ。

その名も――断食(ファスティング)である。

断食(ファスティング)とは、一定期間固形物を断ち、消化器官を休ませて身体を内側からリセットするという健康法である。

ファスティングとは、一定期間固形物を摂取せずに消化器官を休ませ、身体の内側からリセットを図る健康法です。日本語では「断食」と訳され、古くは宗教的儀式や修行の一環として行われてきました。近年では美容や健康、ダイエットの手段として広く取り入れられています。

富士薬品公式サイトより引用

粗削りで、やや原始的な方法だが、お金はかからないし、「食べない=痩せる」という単純明快なロジックが、日々育児とお仕事で疲弊した私には随分と魅力的に映った。

こうして、私の胃袋と自意識による、仁義なき「1日戦争」の火蓋が切って落とされたのだ。


序戦:ずぼらの慢心

思い立ったら、善は急げ。私は迷うことなく楽天市場を開き、酵素ドリンクをポチった。

PRではなく、自腹で買いました


翌日、自宅に届いた箱を開けると、同梱のパンフレットには「準備期間」「復食期間」「腸内環境改善期」といった、お堅い熟語がずらりと整列していた。

ライターなのに、難しい言葉が苦手な私は、それらを読むたびに、胃と頭が同時にズキズキしはじめた。

「健康や美容は、その面倒臭さも大事なプロセスなのだろう」と自分に言い聞かせてみるものの、掃除すら「気が向いたらやるタイプ」の私にとって、漢字の羅列の数々は、もはや南無阿弥陀仏にしか見えない。

「まあ、一日だけだし。大丈夫っしょ」

そう呟くなり、私は説明書をそっと閉じた。この慢心が、後にどれほどの悲劇を招くのか――その時の私は、まだ知る由もなかった。

【0:00】 戦闘開始

断食(ファスティング)1日目がスタート。楽天市場でポチった酵素ドリンクを水で割る。

シロップのような味

味は、甘いシロップに薬草を混ぜたような、なんとも言えない味がした。

「今日一日は、この液体だけで生きる」と決めた瞬間、朝起きてまだ酵素しか口に含んでないはずなのに、人生が急にハードモードに突入したような気がした。

ちびちび飲み続けます

【12:00】 昼の絶望

空腹の早鐘(はやがね)かもしれない。

すでに空腹値は限界を突破し、お腹はきゅるると鳴り続けていた。

「食べてはいけない」という自制心と、「今すぐ食べろ」という食欲が交差しはじめる。米が欲しい。けど、食べたら負けだ。でも、倒れたらそれも負けだ。脳内が混線し始め、もはやブレーカーが落ちる寸前の電柱みたいに、私の脳はジジジ……とショートしかけていた。そんな中で、ふと思う。

グラタンが食べたい。



表面のチーズの焦げ目を、スプーンでざくっと掬い取って、「あちちち」と舌を火傷しながらも、その奥のクリームを目いっぱい頬張りたい。今の私なら「舌が熱い」という痛覚すら、幸せとして受け入れられる気がする。

パンをちぎって口に放り込みたい。


表面にマーマレードをべったり塗り、パンなのかジャムなのか、どちらが主役かわからないほどの混沌を思いきり味わいたい。甘さと酸味のカオスに沈みたい。

米にいたっては、もはや食べた瞬間に――恋に落ちてしまうかもしれない。


白米の湯気を頭から浴び、鼻の奥まで甘い香りを吸い込みたい。今、炊き立ての湯気に包まれたら、私はきっと泣く。「あなたに、ずっと会いたかったんです」と。

ギブミーライス。今、炊飯器を開けたら、米粒ひとつひとつが、私に向かって「帰っておいで」と囁いてくれる気がする。その優しさに触れたら、私はもう二度と米しか愛せない気がした。

【15:00】胃袋がデモを起こす

空腹で腹がぎゅっと縮み、胃壁が「何か入れろ」とプラカードを掲げてデモをし始めた。

そんな荒ぶる内臓を抱えながら、私は夢中でお仕事の原稿を書き進める。執筆に集中していると、空腹を束の間忘れさせてくれるが、一瞬でも気を抜けば、脳内は白米、玄米、雑穀米……と米米CLUBも顔負けの「米」のワンマンライブが華々しく開演し始める。

嗚呼、ギブミーライス。炊飯器の蓋を開けた瞬間に立ちのぼる、あの白い湯気に思いきり頭を埋めたい。

たとえば、今なら。炊きたての米さえあれば、どんな難解な原稿でも書き上げられる気がする。

米はいつも、日常にあるものと思っていた。けれど、食べられないとなると、こんなにもつらくて苦しいだなんて━━まるで報われない恋をしているみたいだ。食べるとは、まさに生きること。この空腹は、私に「何より大切なもの=食」を、そっと教えてくれたのかもしれない。

【17:00】 迷走する哲学

空腹が限界値を超えると、人はどうやら「自問自答タイム」に突入するらしい。

「私は今、何をやっているのか」
「そもそも、本当に痩せたいのか」

問いが増えるたびに、脳内のどこかで「モウヤメテオケ」という声が鳴り響く。しかし往生際が悪い私は、ここで引き返したら「負け」だと思ってしまう。

何に勝とうとしているのか。
誰に負けたくないのか。
そもそもこの勝負、何のために必要なのか。

考えれば考えるほど、脳に蠢く霧が濃くなっていく。

気づけば、私は自分の胃袋と精神のあいだで、意味不明なデスマッチを繰り広げていた。もはや断食とは、胃を空にする儀式ではなく「心を試す拷問」なのかもしれない。

【18:00】 鏡の中の亡霊

ふらふらの足取りで、私は亡霊のような出で立ち(いでたち)で鏡を見る。

たった一日で劇的に痩せるはずもなく、そこに立っていたのは

「猛烈に米を欲している、顔色の悪い中年女性」

だった。強いて言うなら、米への渇望でいつもより目だけ妙にギラついている。

「もう、このままでいいやん」

鏡の前の自分は、断食前から何一つ変わっていないというのに━━悟りとも諦めともつかない気持ちが、鏡の中の私を静かに包んでいく。

美か。米か。
二択を迫られたら、今の私は迷わず「米」を選ぼうとしていた。

極限状態の私は、仏のような面立ちで、ただひたすらに美よりも「米」を求めていた。鏡は、人を丸裸にする。そして断食は、人に悟りを見せるのだ。

【20:00】 5歳の聖女、あらわる

5歳の娘がトコトコとやってきて、机の上に「甘酒の瓶」をコトリと置いた。娘は発達遅延のため、まだ言葉を話せない。

この「飲み物を机に置く」という行為は、娘にとって普段は「これを開けろ、そして私に飲ませろ」という無言の圧力として使う手段なのだが、今日ばかりは違って見えた。

甘酒を運ぶ娘

空腹で倒れそうな母を見かねた、差し入れだろうか。やさしい。あの子も少し大人になったんだなぁと、目頭が熱くなる。

震える手で甘酒を注ぎ、ぐいっと飲み干す。濃厚な麹の香りがふわりと鼻を抜け、とろりとした仄かな甘みが、からっぽの胃の粘膜をそっと撫でるように広がっていく。頭のてっぺんからつま先まで、やわらかな甘さが満ちていく。

「……あぁ、しあわせ」

空腹が満たされたのと同時に、不思議と忘れかけていた「冷静な思考」も戻ってきた。

「そもそも、プロフィール写真なんて、撮る瞬間だけお腹を凹ませればいいんじゃないか?」

限界寸前の脳みそで、私は「ダイエットを諦めるための、もっともらしい言い訳」を考え始めていた。

終戦:胃袋と白旗

翌日。解放感に満ちた私は、炭水化物を求めてイタリアンレストランへ駆け込んだ。まるで戦地から帰還した兵士のような勢いで、メニューのパスタに手を伸ばす。

しかし、現実は甘くなかった。パスタを一口、咀嚼するたびに、胃が「ひいい」と悲鳴を上げる。

40年以上付き合ってきた私の体だ。もっと優しく「おかえり」と迎えてくれると思っていたのに、返ってきた反応はまさかの

「ごめん、やっぱ無理」

という、ほぼ絶縁宣言に近い拒絶だった。

その瞬間、私は思い出した。婚活時代、ふらふらとデートに出かけたあの頃を……。一度会っただけで相手の表情が曇り、「もう会えません」と連絡が来た時の、あの虚しさを。

何がいけなかったのか。私、知らぬ間に変な行動でもしたのか。それとも、至近距離で見たら、私の顔は「生理的に無理」だったのか。

あのときの、理由のわからない虚しさが、スースーと胃のあたりを通り抜けていく。

一度「食べないモード」に入った胃は、どうやらそう簡単には回復できないらしい。萎んだ胃をひとり抱えながら、私は静かに「やっぱり、無理は禁物かも」と白旗を揚げた。

昨日の夜は、早くこの1日が終わってほしいと思った。けれど今日は、もう一度断食前に戻りたいと思ってる自分がいる。あんなに痩せた自分と出会いたかったはずなのに、今は贅肉のない体よりも、失われた時間を取り戻そうとしている。

限界からの悟り

私の「食べられない限界値」は、わずか一日。いや、正直に言えば、実質半日だった。

準備を面倒くさがった時点で、私はそもそも「ファスティングという美意識の高い文化圏」に対し、ビザすら取得できていなかったのだ。

思えば、20〜30代の婚活時代は、

「可愛いけど、ちょっと変わってるよね」
「中身がない」
「もっとしっかりしなさい」

そんな言葉を、周囲から浴びながら生きてきた。そう見せてしまったのは自分だし、誰が悪いわけでもない。

ただ──見た目とは、いつか必ず朽ち果てる。若い頃に「中身がない」と言われたら、歳を取ったとき、私は本当に空っぽになってしまうのではないか。
そんな未来が訪れることが、20代のころは怖くて仕方なかった。

だから私は、容姿ばかり評価されて「中身がない」と言われないよう、必死に「中身」を盛り付けようと、20〜30代はあらゆる場所に足を運び、
全力で藻掻いてきた。

怪しげな自己啓発セミナーに通い、心理カウンセラーのスクールで資格まで取り、心理学の本を読み漁り、「魅力的な誰か」になろうとして、ひたすらにもがき続けた。

今思えば、あれも一種の断食だったのかもしれない。
「本当の自分」を断ち、他の誰かになろうとしてきたのだから。

けれど、40代半ばになった今。

私の周りにいる人たちは、私の法令線でも、ぽっこりお腹でもなく、私が語る言葉に耳をきちんと傾けてくれる。面白いと笑ってくれたり、積み上げてきた知見を「なるほど」と讃えてくれたり。気づけば私は、温かい人たちに囲まれていた。

ありがたいことじゃないか。

……それなのに。私ときたら、失われゆく「若さと美貌」にしがみつき、あろうことか、断食なんていう暴挙に出てしまった。

人はどうして、隣の芝生ばかり青く見て、今ある芝生の色を見ようとしないのだろう。「今日の私をちょっとだけ好きになる」という道だって、ちゃんと目の前にあるのに。

理想を追うのは苦しい。
理想と現実のあいだにある「溝」を受け入れ、なぞっていく行為でもあるからだ。

***

1日の断食は、大失敗に終わった。でも、空腹の果てに私は再確認したのだ。「好きなものを、好きな時に食べられる」という、この上ない平和の有り難みを。

「ギブミー・チョコレート」と叫ばずとも、炊飯器のスイッチひとつで至福が約束される日本は、なんて平和なのだろうか。その有難みを噛みしめた私は、気づけば手を合わせて、世界平和を祈っていた。

どうか、誰もが「明日、何を食べようか」と悩める世界であってほしい。そして、そんな風に、誰かに思いを馳せることは、もしかしたら「美」を手に入れるよりも尊いのかもしれない。

私のプロフィール撮影は、6月上旬を予定している。今は4月半ばだから、あと1ヶ月ちょっと。無理して痩せるのが難しいなら、今ある体で「できる限りのこと」をやろう。プロのフリーライターとして。

撮影当日は、全力でお腹を凹ませ、最高の笑顔で挑むつもりだ。中身の詰まった、この愛すべき「今の私」をしっかり写してもらうために。

【完】

(7038文字)


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