「この家はちょっとさみしそうだったよ」
「ミカさんがいないあいだ、この家はちょっとさみしそうだったよ」
1カ月ぶりに家に帰ってきたわたしを、夫はこう言って出迎えた。
在宅で働くわたしは、一日を自宅で過ごす。
在宅ワークに切り替わったのは数年前のこと。
働き方が変わって半年ほど経ったころ、夫が気分転換に、とプレゼントしてくれたのは1カ月の京都滞在だった。
在宅ワークは仕事とプライベートが一つの空間で完結する。
特段のストレスを感じてはいないつもりだったし、ひとり黙々と作業するのが好きなわたしに在宅ワークは向いているようにも思えた。
「新幹線もホテル代も俺が出すから、行って来なよ」
突然の提案に驚き、返事に窮した。
夫を置いて京都で1ヶ月も、わたしだけが羽を伸ばしていいものだろうか?
ただ、断るのも気が引けた。わたしを気遣ってくれた夫の気持ちに報いたいと思ったからだ。
「…そうだね。行ってみようかな」
何かを確信したとき夫の行動力は目を見張るものがある。
気持ちの半分はまだ決めかねているつもりだったが、わたしの返事を額面通りに受け取り、その日のうちに、新幹線もホテルも手配を済ませてくれた。
今思い返すと夫は感じていたのかも知れない。
日常の変化や戸惑いからくる、わたしの小さなストレスを。

次の週末、わたしは新幹線に乗っていた。
仕事を1ヶ月休むわけにはいかないので、パソコンと最低限の荷物を持って出かけた。
京都に到着した。
平日は普段どおり、ホテルの部屋やワーキングスペースなどで仕事をする。
そして週末は、京都を散策してまわった。
早起きして京都御所まで散歩へ。気分がスッキリして仕事がはかどる。
金曜の夜は仕事を終えてから、レイトショーで映画を鑑賞。
老舗の喫茶店でコーヒーを飲んで始まる、土曜日の朝。
定番の観光地をあえて外して、小さな路地を歩いてまわる。
日曜日は静謐な雰囲気の中、お寺で座禅体験。
目を閉じて見る無の空間に、セミの声だけがこだまして、体の境界が溶けていく感覚を覚えた。

ここ京都では、わたしを知る人は誰一人としていない。
誰にも何にも縛られない、自分だけの時間。
わたしが何よりも大切にしているのは「常に可能性が開かれ、自由であること」
夫はわたし以上に、理解していたのだと思う。
わたしの毎日が充実すればするほど、夫はきっとよろこぶだろう。
それこそが、この京都での滞在を夫が計画した、まさにその理由なのだから。
真夏の京都は、日中の外出が危険なほど過酷だ。
気温が40度に届く勢いの連日の猛暑で、観光スポットは軒並み閑散としていた。
1ヶ月の滞在もあと数日を残すころ、世界遺産に登録されている平等院を訪れた。
── ここは極楽浄土だと思った。

目の奥に焼きつく、鮮やかな朱色。
力強く茂るたくましい緑。
時の流れも人の営みも、意に介さず、この世のすべてを抱擁する蒼天。
圧倒的な調和を前に、立ちつくすほかなかった。
照りつける日差しが肌を焼いていることも忘れて。
極楽いぶかしくば宇治のお寺をうやまへ
“極楽浄土の存在を信じられない人でも、平等院を参拝することで、その存在を実感できるかもしれない”
平安時代の書に記された、平等院にまつわる一節だ。
一切の事前情報も予備知識もなく、この言葉の示す通り、ひと目見て、ここを“極楽浄土”だと思った。

非日常の風景がこれほど鮮やかに心に映るのは、きっと“日常”という確かな基盤があるからにほかならない。
たとえばわたしに帰る場所がなかったなら、この景色に心を動かされることもなかっただろう。
連綿とつづく、悠久の時の流れに思いを馳せることもなかっただろう。
“日常”を思うとき、わたしには帰る場所があることを実感する。
それは広大な海に漂い、波に揺られ遠くへ流されたり、ときに嵐に見舞われたりしても、大きな錨でしっかりと繋ぎ止められている、そんな安心感に似ている。
「いつでも元の場所へ戻れる」という心の支えは、未知の世界へと漕ぎ出して行く勇気になる。

── まだ帰りたくない
そう思えるのは、帰る場所を持つ者の特権なのだ。
心穏やかに過ごすための住処。
雨風をしのぎ、あたたかで、安全な家。
大切な人とともに暮らす場所。
わたしには帰りたい場所がある。
それはどれだけありがたいことだろう。
ふだんの生活を離れ、京都で過ごした時間がなければ、きっと気がつくこともなかった。
当たり前のように過ごしていた毎日こそが幸福そのものだったことに。
夫が待っている場所へ帰りたい。
早くありがとうと伝えたい。
大きな荷物と抱えきれないほどの土産話を持って、わたしは玄関のドアを開ける。
夫が出迎える。
「ミカさんがいないあいだ、この家はちょっとさみしそうだったよ」
夫の言葉に、日常がゆるやかに戻ってくるのを感じる。
「ただいま」
帰りを待っていてくれる人がいる。
ここがわたしの帰りたい場所。

