日出処の天子は能狂言のSDGsである
タイトルがなんだか大層だけど!

山岸先生からの素敵な花輪
「原作:山岸凉子」「監修:大槻文藏」「演出:野村萬斎」という豪華な布陣による、-能 狂言-『日出処の天子』北海道公演を見てまいりました。
配役がまた夢の共演レベルの豪華さで、2時間に及ぶ公演でしたが、あっというまでした。
正直なところ、観る前は「ホールではなく能舞台で見たいのになぁ……」と思っていたのですが、終わってみれば、北海道公演に行けて心底よかったと思っております。
本公演を今後初めてご覧になる予定の方は、この先を読まないでください。先入観なしに観ることをおすすめします。
原作を読んでいない人、能を観たことがない人でも楽しめることを目指して作られているからです。
****では以下、ネタバレがあります*****
下の方にアフタートークの覚書や感想がありますので
個人の感想は私の覚えなので飛ばしてくださいね
【個人の感想】
古典とは形式的にかなり違うものの、狂言回しがあり、序破急もあり、能狂言の伝統的な形式もありつつ、原作に恐ろしく忠実という、奇跡かこれは、という密度で迫ってきます。
台詞がお能風でありつつも、原作の台詞はわりとそのままで、その混じり加減がまた絶妙でした。
ホールならではの中間の幕を利用した、演劇的な演出もユニークでした。座席の位置的に舞台の袖が見えたので、個人的にはそこも面白かったです。
多くの方が一人で何役もされているので、裏側では着替えや次の舞台袖への移動など、めちゃくちゃ大変なはずなのですが、それを微塵も感じさせません。
裏側をそれなりに知っていても、そんなことはすっかり忘れて没頭していました。
舞台中央には、法隆寺の夢殿を思わせる衝立状の作り物が置かれ、場面によって夢殿にも玉座にもなります。
ぐるっと回すと人が交代したり、早変わりにも使われたりします。ドリフの場面転換のように、流れを止めない構成です。(つ、伝われ……。)
衝立は真っ白で、映像を投影することもあります。
衝立大活躍。
衝立マジ便利。
影絵の人と、肉体のある人とが、衝立越しに手を合わせます。影絵の中で二人が手を取り合い、奇跡を起こします。
幽玄の世界と現実世界。
心の中との対話。
日常と非日常。
目に見えない世界は、映像の中だけで表現され
あちらの世界とこちらの世界が、衝立で隔てられていました。
***
友達が「結局この二人、リモートパコしかしてないよね」と。
友よ、言葉選びのセンスよ……。
しかし、リモートでいいなら、この世に来る必要はないのです。
人間は、直接ふれあうために肉体を持って生まれるのですね。
蘇我毛人や布都姫は、重要な人物でありながら、比較的抑えた扱いに感じました。一方で、刀自古郎女には名場面があり、強く印象に残る形でクローズアップされていました。
人物像との差異を感じさせない程度に抑えた表現と激しさを対比させることで、感情的な山場がより印象的に感じられました。
■時系列の扱い方
パントマイムなどの技法では見かけるのですが、それと似て、首の向きや言葉の流れだけで、映画で言えばカットが、シーンが、一瞬で変わります。
原作を読んでいるとわかるのですが、舞台では場所も時間もぶっ飛ばすのです。
そのなんと鮮やかで、自然で、滑らかなことか。
衣装も人も同じなのに、すべての背景が移り変わるように、空間が変わるのです。
能舞台らしい引き算の美学だからこそできる鮮やかな演出で、見入りながらも、なんとも心持ちが涼やかでした。
アフタートークで裏話がありましたが、厩戸王子は面なし、素顔での登場でした。ドキドキものでしたが、ほぼ最前列で見る厩戸王子は、なんとも艶やかで、厩戸王子そのものでした。
王子の年齢や心の変化、成長によって声が変わっていきます。
能舞台だけに表情の変化はごくわずかです。
大げさな舞台演技がないのがとても気持ちがいい
その分衣装はときに華やかに、女装の変化も美しく感情表現をも担う
大変抑えた演技でありながら、手の所作ひとつ、ほんの少し首の向きが変わるだけで、声にならない慟哭が聞こえるようでした。
むしろ引き算されているからこその、染み入るような諦観や、漆黒の闇や、何やかやが空間に満ちる。
そんな舞台でした。

「日出処の天子~白樺の森より~」
お着物が葉っぱです
【アフタートーク】
終演後の約40分のアフタートークについて、詳細を忘れる前に書いておきます。
終演後、山岸凉子先生の担当編集者でもある横里隆さんが司会を務め、原作者の山岸凉子先生、監修で穴穂部間人媛役の大槻文藏さん、演出で厩戸王子役の野村萬斎さん、泊瀬部大王役の茂山逸平さん、刀自古郎女役の大槻裕一さんが登壇し、約40分のアフタートークが行われました。
まず司会者から登壇者の紹介があり、それに合わせて客席に向けて簡単なアンケートが行われました。
「能を初めて見る人」「この『日出処の天子』を初めて見る人」といった問いかけに、観客が手を挙げる形でした。
それぞれの配役の感想の途中で、萬斎さんがお着替えなどの関係で少し遅れて登場されました。
登場した瞬間、一気に空気が変わります。
素顔でも、なんとも華やかな方です。
■「能狂言」の呼称
印象に残ったのは、今回の舞台を「創作能」とは呼ばず、「能狂言」と呼んだ理由です。
本来の能や狂言の形式をそのまま使った舞台ではありません。
能と狂言の要素を用いながらも、漫画『日出処の天子』を舞台化するために、新しい形を取っています。
だからこそ、「能」でも「狂言」でも「創作能」でもなく、「能狂言」という呼び方にしたのだそうです。
■影絵の演出について
影絵は、その場で早替わりをしているわけではなく、あらかじめ撮影した映像を使っているとのことでした。
札幌には能楽堂がないため、今回はホールでの上演でした。
能楽堂ではないことを弱点にするのではなく、むしろホールという環境を活かした演出を試みたとのことです。
大槻文藏さんは、その工夫について「面白い」と何度も評価していました。
■常に進化する舞台
能舞台は、大体が1日か2日しか行わないのが通常で、何度も公演することのほうが異色なのだそうです。
演出については、全公演で何らかの変更を加えているという話もありました。一度完成したものを同じ形で繰り返すのではなく、公演を重ねながら変化していく舞台であることが語られていました。
■構成の難しさ
山岸先生から原作全体を舞台化するよう求められたため、構成はかなり難しかったそうです。
『日出処の天子』は人物関係も内面描写も複雑で、すべてをそのまま2時間の舞台に乗せることはできません。しかし流れを追うだけだと、ただのダイジェスト版になってしまうでしょう、と。
その中で、時系列をそのまま追うのではなく、場面を大胆に入れ替えながら構成していく演出が取られていました。
山岸凉子先生は、その時系列を取り払った場面転換の巧みさを高く評価していました。
■衣装の話
厩戸王子の衣装が変化していくことも説明されました。
白い衣装、正装、女装など、衣装の変化は厩戸の心の移り変わりや感情の違いを表しています。
一方で、蘇我毛人の衣装はほとんど変わりません。
その対比によって、厩戸と毛人の立ち位置の違いが見せていたように感じました。
■足袋の色の話
狂言師は茶色の足袋、能楽師は白い足袋という違いがあります。
しかし今回は、狂言方の役者が大王を演じていました。
大王という役柄で茶色の足袋では、舞台上の意味として合いません。
そのため狂言師が白足袋を履く。
「通常の決まりと、役柄としての必然が入れ替わる。」
その逆転に、この作品ならではの面白さがあります。
■役柄について
前半に、各演者からそれぞれの配役で難しかったところについての感想があり、後半にも役についての話がありました。
・泊瀬部大王
泊瀬部大王は、狂言回しのような役割を持ちながらも、単なる笑いの役ではなく悪役である、という話がありました。
なんとゲネプロで、萬斎さんからダメ出しを食らったそうです。
おもしろおかしくても、親しみが出てはいけない。
観客に好かれてはだめです、と。
観客の笑いを誘う場面がありつつも、物語の中では厩戸王子たちにとって脅威となる人物であり、その二面性が重要だったのだと思います。
・刀自古郎女
刀自古郎女はかなり若手の方が演じていて、回を追うごとによくなっている、成長が見られるという話がありました。
山岸先生もその成長を見守りつつ目を細めていらしたように思います。
刀自古は、もともとの朗らかで明るい人物像から、やがて心が沈んでいきます。その変化の大きさ、光から闇への落差を表現したかったという説明がありました。
・大槻文藏さんの穴穂部間人媛について
文藏さんからは、能では装置をあまり使わず、登場人物も少なく、一人の心情をじっくり述べる形式であることに触れたうえで、間人媛はどの役よりも悩み深い人物だった、と語っていました。
山岸先生からは、穴穂部間人媛について、単なる「毒親」として描いてほしくなかったという話がありました。2回前の公演から来目王子が登場するようになったのも、その意図と関係しているそうです。
間人媛は厩戸王子を傷つける母である一方、母として愛情深い人でもあります。その複雑さを舞台上でどう見せるかが重要だったのだと思います。
子供の頃はひどいお母さんだなあと思って読んでいたのにおとなになると彼女の愛情とや苦しみも感じ取れ憎くも思えないという印象に変わっていたので、穴穂部間人媛という女性への思いやりある見方を山岸先生自身のお言葉で聞けてなんとも救われる思いでした。
萬斎さんから、子どもが成長する過程で、本来は大人から「そのままで愛される」「そのまま受け止められる」という経験を得て、大人になっていく、というお話がありました。しかし厩戸は、それを十分に経験できないまま大人になる過程で悩み苦しみます。
萬斎さんの解釈に、山岸先生が「ああ、そう、そういうことなんだ」と逆に感銘を受けたという発言もありました。
だからこそ、母の目を持つ膳美郎女に、純粋にありのままを受け止められることで救われる。
そこが作品の大きな核として語られていたように思います。
厩戸王子に面をつける案もあったが、母の愛を求める「人」として見せるために面はつけなかった、という趣旨の話にもつながっていると思われました。
■山岸先生の北海道公演への思い
山岸凉子先生は、北海道にこの公演を招致したことについて、地元である北海道に恩返しがしたかったと語っていました。
その言葉から、北海道公演が単なる地方公演ではなく、先生にとって特別な意味を持つ公演だったことが伝わってきました。
観客は大きな拍手で応え、感謝を伝え、場が一体になるような感動がありました。
■終わりに
最近は創作能も増えつつありますが、この能狂言は、伝統的な演目から見れば型破りだらけです。
そこが私には非常に面白かったのです。
狂言方が主役を演じることをはじめ
流派、出自、性別を越え共演をすること
人間国宝が出演し、演出を繰り返し褒め、意欲的な挑戦を後押ししていること。
若き演者の成長と、長年積み重ねてきた神をも降ろせるような演者の力が、同じ舞台上にあること。
そのこと自体に意味があると私は感じました。
一部の隙もない、というわけではありません。
すべてが演出家の思い通りだったわけでもないでしょう。
けれど、だからこその、まさにまさに、変化していく時代への挑戦と試行錯誤そのものと感じ取れる舞台でした。
荒削りな部分や隙があることで、かえって魔が宿りすぎず、現代のエンターテインメントとして楽しめたのではないでしょうか。
叶うなら他の舞台で今一度観覧してみたいと久しぶりに胸が熱くなりました
ええ、大成功と呼ばずしていかがいたしましょうぞ

