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歌川広重 / メトロポリタン美術館
フォーカス
セスの本を読んでひとつ気づいたこと。
意識すること、つまり意識のフォーカスのこと。
意識をどこに向けるのか、どの範囲に向けるのか、ということ。
「注意」とも言い換えられる。
冒頭の固定記事「素法(すほう)」でも書いているが、意識の使い方の大原則として「内面を照らす」をあげているが、その中身は、内面に湧きあがってくる思考や感情を意識的に照らす、観照するという意味である。
セスの本では「内なる感覚」という表現があり、これは僕の言う「内面を照らす」と同じことだろうと感じていたが、どうもニュアンスが違うよう。
僕が表現している「内面を照らす」は、意識に現れた身心由来のエネルギーブロックを意識化することであり、浄化のニュアンスが強いのに対し、セスが言っている「内なる感覚」は、身心由来ではなく、もっと広い、というか、身心を超えた多次元の意識に同期し、新たな情報・エネルギーを得るための感覚のよう。これは僕の表現で言う「意識自体」へのフォーカス(自覚)に近いのかなと感じた。
意識自体の自覚は、意識の根源、源泉そのものを自覚することであり、「内面を照らす」ための土台となる意識のポジションである。実感としては絶対静寂の場。
僕は、この意識自体の自覚は、あくまでも「内面を照らす」ための意識の基本姿勢のようなニュアンスでとらえていたが、セスの視点では、この意識自体の自覚そのものが、無限に同期するスイッチになっているようであり、この自覚の精度が高まると、多次元の情報やエネルギーにアクセスしたり、潜在している能力を顕在化できるようなことが書かれていた(僕の理解があっていればだが)
フォーカスのベクトルが「内面を照らす」の真逆であることが想定外であり新鮮。
ちょっとこのあたりもじっくり検証しようと思っている。
