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素法(すほう)~日々を深く豊かに生きる原則(身心の調律)Vir.4~



はじめに


” 神は余白に宿る ”
 

素法(すほう)とは、身心に「余白(素性)」を生み、エネルギーの流れを取り戻すことで、エネルギーの滞りを解消し、本来持っている創造性や流動性の回復をねらう日常生活における私的原則である。

まずは素法を語る前に、その背景となる私の現象観をお伝えする。

私の現象観 

私という存在は、この肉体(物質)でもなく心(かたち)でもなく魂でもない。いや、肉体や心や魂でもあるのだが、それだけではないと言いたい。
肉体や心や魂を脱ぎ捨てたところにある、それらの母体といってもよい”無限なる余白(スペース)”が、私の源泉であり、現象の源泉でもあり、いままさにここで私(あなた)の身心を通じて現象をみつめている本体そのものである。

” 無限なる余白” は形あるものではないし3次元空間の余白でもない。よって確認できるものではないので探さなくてもよい。
それは「私(あなた)そのもの」なので、我々の「在る」という自覚さえあればおしまいである。

” 無限なる余白” は、個別のものではなく、全体意識、宇宙意識、普遍意識とも言い換えられ、全エネルギー・全知性の源泉でもある。

僕らが現象の中に見ている人、物、自然、宇宙空間など、そのすべてが” 無限なる余白 ”の個的な顕れであり、余白の次元で言えば、すべてが1つであり、すべてが私(あなた)である。

誤解を恐れずにいえば「神(余白)が、この身心を通じて現象を創造し、味わっている」ということである。

しかしながら、我々人間は、自身の本質が無限のエネルギーと知性の源泉であるという自覚がなく、ここにあるちっぽけな身心のみが私であると誤解しているがため、根源的な欠乏感や恐怖が生じ、過剰な防御機構としてのエゴ(かりそめの私)が形成され、自然の秩序との間にさまざまな齟齬が生じ、エネルギーの滞り(ブロック)を生んでいる。そして、本来は滔々(とうとう)と流れるべき生命エネルギーが、滞りによって身心にうまく巡らず、現象にいろいろな問題を生んでいる、と感じる。

滞り(ブロック)とは、身心に生じている、凝縮したエネルギーの塊(かたまり)のようなものである。具体的には「思い込み」「固定観念」「信念」「トラウマ」などの流動性がなくなり、固着しているエネルギーであり、これに精神が無自覚に囚われ、翻弄されることで、人間関係などで問題が生じ、心を重くし、エネルギーの流動性が阻害され、身心機能が低下する。
心理的な滞り(ブロック)は、同時に肩こりや腰の痛み、病気などの不調としても表現され、特に、心理的な自覚がない場合は顕著に身体に現れる。

では、身心の滞りはどのようであれば解消できるのか。
誰かに頼らず、自分自身でエネルギーの流れを回復できるような原則はないものか
と、この身で検証しつつ、まあまあ長いこと探究してきたなかで(現在もその途上ではあるが)私にとって現時点ではベストと感じているいくつかの原則に名付けたものが素法(すほう)である。

ちなみにこの原則は「取り組めばゴールに行き着く」という類のものではない。そもそもゴールなどないからである。
我々の本質は無限であり、したがって現象も無限である。
それと、身心の滞りの解消自体にもゴールはない。人間として生きている以上、生活の中で、滞りは常に新たに生じてくる。
なので素法は「人として生きている間は、ずっと取り組み続ける」原則、ということになる。

さて、マイワールドな能書きはこれくらいにして、素法の解説に入る。



素法(すほう)

素法は、日常生活で心がけるエネルギーの目詰まり解消の原則である。
目詰まりを解消して、自身の本来の素性(無限性)を自覚し、自然と同期し、身心をニュートラルにするための原則である。
自分が発見したとか、あみだした、というようなものではなくて、多くの先達が試行錯誤して発見した智慧をいろいろと学びながら、この身で検証し、しっくりきたもの(残ったもの)を、自分なりに再表現・再構成したものである。

素法は「内面を照らす」という基本原則と、それを補完する「重味(おもみ ) 」「緩味(ゆるみ ) 」「半味(はんみ ) 」という助原則で構成される。
助原則は、身心をリラックスし、余白を生み、エネルギー流量を高めるものであり、内面を照らすためのエネルギーの源となるものである。

素法の構成


基本原則 ~内面を照らす~

 自分という存在の素性(すじょう)である、源泉(無限、透明さ、普遍意識、全体意識)に戻り、内面に生じる感覚、思考、エネルギーとの間に余白(スペース)を保ち、照らし(観照し)、共に居て、味わうことで、エネルギーが最適化される。

・日常生活の中で生じてくる様々な感情反応や考え、衝動などに無自覚に同化し、翻弄されるのではなく、心を意識的に開いて余白を置き、生じてくるものと共に居て、そのエネルギーを子細に感ずる。
・このことで必要なエネルギーは育まれ、不必要なエネルギーや滞りは解消される。
内面に湧きあがる感情や思考などのエネルギーとあるがままに向き合うという行為自体が、自然にそのエネルギーを最適に調整する感覚である。このことから、エネルギーをみつめる自分の本質(源泉、余白)が、エネルギーの調整作用そのものであることを実感できる。
特にネガティブな感情(恐れ、不安、怒り、嫌悪など)と共に居続ける(照らし続ける)ことは、無自覚であった内面の状態の理解が起こるための(=解体)重要条件である。
・また、この在り方を継続することで心の余白が徐々に拡大し、それにともない流れ込む源泉エネルギーの量も拡大するので、滞り(ブロック)の浄化の精度がより高まってゆく。 

・内面を照らすという行為は、文字で書けば簡単だが、実際に取り組むと、なかなか大変である。長年蓄積され形成されてきた心理的なエネルギーブロックは、そう簡単には解けてくれないからである。忍耐強く、ネガティブなエネルギーと適切な距離(余白)を保って向き合う。しかし無理はしない。時には発散も必要。けれど、あきらめず、排除せず、ごまかさず、という誠実さが必要となる。
・ポイントは、忍耐詰めすぎないバランス感覚と感じる。心の余白を広げるのは、地道で継続的な取り組みである。
・内面を照らしているとき、人はまさに ” ウチテラスオオミカミ ”である。

<どんな感じでやるのか>

気が向いたときに内面を意識する。常に四六時中意識する必要はない。むしろいつも意識しようとすると緊張を生み、逆効果となる。
・困りごとや、悩み、問題など、囚われたくないのに囚われてしまって心が重いときは、気をそらすなどしてその状態を避けようとせず、意識的に向き合い、照らす。やればわかるが大抵はすっと向き合える。
・瞑想をする際に、内面全体を意識するのも有効と思う。特に何も湧きあがらないときは、その内面の静寂をそのまま味わうような感じ。センサー感度が高まれば、これまで静寂だと感じてたところに息づいている様々なエネルギーが感じとれるかも。


「内面を照らす」に関しては、先達から学んだものは数知れない。いわゆる「自己観察」「自己観照」「自己認識」「自己理解」「内観」などと言われているものである。原始仏教、クリシュナムルティ氏、都留晃一氏などをはじめ、多くの先達が大事なこととして語っているものであり、僕も経験上、生きるうえでの核心と感じている。
参考になる文献もたくさんあるが、僕が特に印象深く感じているのは、以下のものである。

「恐怖なしに生きる」Jクリシュナムルティ著
「ポケットの中のダイヤモンド」ガンガジ著
「動的瞑想と自己浄化の原理」那智 タケシ著
ダグラスハーディングの実験



助原則① 重味(おもみ)

 日常生活の中で、体をリラックスさせ、体の重さを真下に落とすよう、頭の位置や背骨の位置を調整し、自然に立ち、大地からの反力を味わう。

・立っているときは、足裏に重みが均等にかかるようにし、大地からの反力を味わう。座っているときは、座骨と足裏に重みがすとんと落ちるよう姿勢を調整し、大地からの反力を味わう。
・体がゆるんでおり、全体に偏りがなく、つながっていれば「重さ」は足裏(または座骨)に集中するので、足裏(または座骨)の重さの感覚が明瞭になる。
・一方、体に力みがあり、前後左右などのバランスが崩れていると、足裏の重さだけでなく、からだのあちこちに張りが発生し、からだの緊張にばらつきが出て、全身のつながりができていない状態となり、足裏(または座骨)の重さの感覚が濁、柔軟な動きも生み出せない状態となる。
・重さを真下に落とすよう姿勢を微調整すると、足裏からの反力で、自然にに垂直軸が立ち上がり、無理のない姿勢となり、筋肉を介さずに骨に重さが乗り、筋肉で支えなくてもよい状態になるので、体がラクになる。(とはいえ、常に、筋膜などで姿勢の微細な位置調整がゆらゆらとはたらき続ける)
・体がラクになるということは、最小限のエネルギーで立っている(座っている)ことになるので、エネルギー的にも動作的にも余白(余裕)が生じ、リラックスが高まる。
このラクな体感覚は、精神状態にも影響するので、精神にも余白・余裕が生まれ、身心ともに神(エネルギー)が宿りやすくなる。(ここでの「宿る」は、留まるのではなく、流れている状態である)

<どんな感じでやるのか>

日常の折々で、気が向いたときに、しようと思ったときに体の重みを感じる。常に四六時中意識する必要はない。むしろいつも意識しようとすると緊張を生み、逆効果となる。
・重みを感じる際に、意識のフォーカスを現象全体(空間全体に)に開くようにすると身心がリセットされる。
・いつのまにかやらなくなってしまったらそれはそれでよい。身心が「必要ない」と発しているメッセージなので。


ちなみに、私が「重さ」や「垂直軸」を感じるのに好んでやっているワークは以下の通り。
・正座
・蹲踞(そんきょ)
・野口体操
・イス軸法Ⓡ
・正座正面素振り・蹲踞正面素振り

★参考となった情報★
重力中心軸とは〜体が「安心」を思い出す、整えの土台〜(のむら整骨院)
・イス軸法Ⓡ



助原則② 緩味(ゆるみ )

 適度な運動やストレッチにより、体全体を無理なく動かし、緩め、その体感覚を味わう。

・身体は使っていないとだんだんと固くなり、関節の可動域が狭くなり、自由な動きができなくなってくる。これにともない、エネルギーの循環が悪くなり流動性が低下する。よって、適度な運動により、身心をほぐし、流動性、柔軟性を深めることが必要である。
すぐできるものとしてはウォーキング。疲労しない程度の時間(30~60分)を、1歩1歩、足首や膝、股関節をゆるめながら、からだの重みをまっすぐに地面に落とすように歩みを進め、身体をほぐすような心持ちで歩く。首や肩の余分な力が抜けて、内臓も振動でほぐれていき、15分くらい歩くと全身に血気がめぐり心地よさが生まれてくる。
・太極拳やダンスなどの全身運動もおすすめ。

<どんな感じでやるのか>

・基本的には毎日のルーティンとして行うとリズムができて良いが、雨の日は休むとか、やる気が起きないときは休むとか、それこそ緩味全開で行うのがよい。
・いつのまにかやらなくなってしまったらそれはそれでよい。身心が「必要ない」と発しているメッセージなので。


参考まで、私が日々のウォーキング以外で日頃ランダムにおこなっているものは以下のとおりである。

・【おすすめ】西山先生の提唱するスワイショウ

 最初のとっかかりとしてのおすすめ。股関節や肩甲骨を同時に無理なく簡単に緩めることができる素晴らしいワーク。三種類あるがどれも素晴らしい。ワークの最中に頻繁にあくびが出るようであれば緩んでいるサインです。

・【おすすめ】野口体操
 
さらに体と心を緩めていくのにとてもよい体操。
 個人的には創始者である故 野口三千三(のぐち みちぞう)氏の世界観には、かなり共鳴するものがあり、野口氏が書いた著作は読んでいて愉しい。
 ・野口体操 からだに貞(き)く(野口三千三著)
 ・野口体操 おもさに貞(き)く(野口三千三著)など

・四股スクワット・四股踏み
・太極拳・気功
・操体法



助原則③ 半味(はんみ )

 食べ物、情報、人の話、いわゆる外部から摂取するエネルギーは「腹半分」にし、貼り付かず(執着せず)余白を保つ。あくまでも主となるエネルギー源・情報源は、自身の内なる源泉(余白)である。

・食事は腹5分目くらいに抑える(ように心がける)。食事のとり過ぎは消化に過剰にエネルギーが使われるので、臓器が疲労し身心のパフォーマンスも低下する。食を少なくすれば、そのぶん他に使えるエネルギーに余裕が出てくる。
・出来る限り、薬を服用せず、医療にも依存せず、休息と睡眠、体を暖めることにより自然治癒力(自己免疫)を十分に働かせるようにする。ただし救急時は例外。
・インターネット、テレビ、本、噂話など、外部情報の過剰な摂取を控える。情報の取り過ぎは直感を鈍くする。外部情報に触れていて、なんとなく膨満感があるときは、無理せずに情報摂取を止め、身心を休息させるほうが良い。


おわりに

 めっちゃシンプルに言えば、素法とは、日々刻々の生活の中で行う、動的な「内観」と「リラクゼーション」である。生活即瞑想ならぬ、生活即素法。内観とリラクゼーションにより身心のエネルギーの流れを地道に整える体験である。この2つのベクトルで自分にマッチする手法であれば、ここに書いたものに限らず、なんでもよいと思う。
 僕にとっての素法は、日常が ” 有難い体験 ” であることを日々再発見さてくれる生き方の原則であり、この人生を深く味わうのに不可欠なものとなっている。

 さて、我々が人生で求めている愛や慈悲、創造性、喜び、充実、たおやかに満ちるという感覚は、意図的に学んだり獲得できるものでもはない
それは、我々が、日々身心を活かすようなあり方、生き方になっていれば、自然に行為の中で溢れてくる「結果的なもの」であり、サインである。
 
逆に、不満、恐れ、怒り、悲しみ、苦悩などのネガティブなエネルギーで満ちている状態は、我々が身心を活かす生き方をしていない、という身心からのサインである。身心だけでなく、日々の現象や起きてくる出来事も、我々の現在の内面のありようを示す物理的な顕れそのものであり、我々の在り方の結果そのものである。クリシュナムルティの言った「世界は私」という言葉は、まさにシンプルな事実であり、世界の責任は私の在り方の責任なのである。


個性的なひとりの人間として生まれ
 
いったい何をしたいのか?
 
何を表現したいのか?
 
何を創造したいのか?


経験上、行きたい所に近道で早く到達すべく生き急ぐよりも、目前に心を開き、良きも悪しきも酸いも甘いもなんであれ、丁寧に深く味わいながら生活することで、結果として想像を超える発見や進展が自然に開けてくると感じている。
なぜなら、あなたの根源は無限そのものであり、常にあなたのパフォーマンスを引き出すよう現象を創造しているからである。あなたは常に根源からサポートされているのであり、これまでサポートが切れたことなど一度もないのである。
そしてさらに意識的に身心を整え、根源を生かすような在り方になれば、あなたの想像を超える創造的な振舞いが、あなたの根源から自然に湧きおこるのである。

ここに書いたことが、ここまで読んでくださっているあなたの日常が花開くひとつのきっかけになるようであれば、これ以上の喜びはない。


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