あなたの人生は、いつか大切な人の希望となる(プロローグ)
連載を書いてみようと思います。
経緯は、こちらから
ナラティブという寄り添い「あなたの人生は、いつか大切な人の希望となる」|ミカモ(Mica Moriya)
4月。最初の日曜日。
まだ、コートなしでは肌寒い。
おまけに早朝から静かな雨が降り出していた。
麻由美は、ハンガーにかけていた真新しいスーツに目をやった。
これから一人娘、美咲の大学の入学式。
せっかく今日のために新調したというのに。
この後、あっさりと雨に濡れてしまうのだろう。
レンタルにしておけば、こんな気分にはならなかったのに。
リビングの窓を開けて、うらめしそうに空を仰ぎ見る。
朝食の味噌汁作りながら、何度か同じことを繰り返したけれど、雨雲が途切れる気配はなかった。
誰に聞かせるわけでもなく、ため息がもれた。
「なんで今日に限って、雨なの―」
けれども、言葉に反して麻由美の心は踊っていた。
二人きりの家族。振り返れば、いろんなことがあった。
それでも、自分の人生のなかで、こんなにも喜ばしい日が訪れるなんて思ってもみなかった。
ほんとうに、今日は記念すべき素晴らしい日。
麻由美と娘の美咲は、肩を寄せ合うようにつつましく暮らしていた。
その静かな生活に、変化が訪れたのは去年の12月。
「話がある」
娘の美咲が神妙な面持ちで口を開いた。
「来年、大学を受験したい…」
消え入りそうなほど、小さな声だ。
「今回は、一つだけ試しに受けて、その次の年は、本気で受けようかと、思って…」
声が震えている。思いを言葉にして言うだけで精一杯なんだ。麻由美とは目を合わせようとしなかった。
ただ、思いのたけを伝えようとしている姿は痛々しいほどだった。
ずっと、ひとりで考えて来たのだろう。
どうしても、挑戦したいと思ったのだろう。
言うか、言うまいか、どれだけの間、迷ったのだろうか。
「うん。いいと思う。応援するよ。お母さんは、応援することしか出来ないけれど」
麻由美は、「頑張って」という言葉は、あえて使わなかった。
美咲は、もう既に、ずっとひとりで頑張り続けてきた。
そばで見てきた麻由美の口から
これ以上、「頑張れ」とは言えなかった。
美咲は、もう幼い子どもではない。手取り足取り、親がやってあげられることは残っていないだろう。麻由美にできる事といったら、ただただ見守ること。日常生活を支えていくことだった。そして、心の中で常に応援し続けること。
「何があっても、あなたの味方だよ」と、その思いを忘れないでいよう。
美咲の決断を尊重しよう。ここに至るまでに、母娘で乗り越えてきた道のりを考えれば何が起きようと、もう心が揺れることはない。
麻由美は母親として、目の前の娘をしっかり見守っていこうと心に決めた。
5年前、美咲と一緒に住み慣れた田舎町から、都会の住宅が密集した街へ転居してきたのは、生活環境をかえるためだった。
美咲は、発達に特性がある。けれども専門家からの診断を受けたのは思春期を迎えてからだった。幼いころから、周囲とトラブルになってしまうことが、幾度となくあったが、原因がそのためだったとは、学校の先生をはじめ、麻由美でさえも気づかなかった。
ただ、過疎化の進んだ田舎町の限られた人間関係の中では、だんだんと、おかしな子だとか、浮いた存在扱いされるようになっていった。
幼いころから感受性豊かで、繊細だった美咲は、周囲に気を遣い過ぎてしまうこともあって、ストレスをため込んでいってしまった。
麻由美の気づかないところで自傷行為を行うようになり、義務教育を終える頃には、部屋から出ることが難しくなっていった。その頃の母娘の会話は、ほぼ無いに等しかった。
そこから先に、どんなことが待ち受けているか、麻由美には想像も出来ないことだった。
あの時、麻由美から差し出した手は、何度ふり払われたか分からない。
「もう一度、親子をやり直そう」
初めはそう思っていた。
けれども、そうではなかった。
「やり直すんじゃなくて、新たに築いていこう」
そう、自分に言い聞かせて歩んできた麻由美の思いが、ようやく形になろうとしていた朝だった。
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