『1985年6月世界核戦争が起ったら――人類と地球の運命』
スウェーデン王立科学アカデミー編
高榎堯訳
岩波書店刊
東西冷戦真っ只中の1982年の春に、スウェーデン王立科学アカデミーの国際環境問題専門誌「アンビオ」は、近未来核戦争の恐怖のシナリオを特集した。その特集を1冊にまとめたのがこの書である。
1983年7月27日初版のこの本(B5版)は、1983年8月10日、当時飯田橋にあった東販(現:トーハン)の店売所で購入した。発刊当時の価格は2600円だった。
スウェーデン王立科学アカデミーの研究者たちは、1985年6月初めのある週日のニューヨーク時間午前11時、モスクワ時間の午後6時に、中東での紛争がきっかけとなって、たちまちに地球的規模の核戦争が勃発する、という想定で研究を進めた。40年前も現在も、中東はまさに戦争の火種が絶えない地域であることが現実的な恐怖を呼び起こす。
なぜ地球的規模の核戦争を想定したかといえば、この研究メンバーの見解では、当初限定的であった核戦争は一旦勃発すると、おそらく限定できず、制御もできなくなると考えていたからである。
それも通常兵器によって始まった戦争において戦術核兵器が使用され、そのことが戦略核兵器を使用することに繋がると想定している。
いまなお続くロシアによるウクライナ侵攻や、ハマスのイスラエルへの攻撃とガザ地区へのイスラエル軍の侵攻やイランへの先制攻撃を見たとき、筆者は同様の懸念を持つ。
停戦交渉を進めようとしても、双方の思惑の食い違いから、あるいは政治的判断の狂いから報復の連鎖は止めることができないのではないかという不安は決して杞憂ではない。
ロシアのウクライナ侵攻後、プーチン大統領は核兵器の使用を否定するどころか、何度か使用をほのめかしてきた。通常兵器による地域的な紛争が、核兵器による全面戦争にエスカレートすることはないとは誰も断言できない。それはヨーロッパのみの問題ではない。
本書は、設定された「基準シナリオ」にしたがって、環境破壊を中心に、それぞれの分野の専門家が、全面核戦争が勃発したときに地球上にどのような惨禍をもたらすのかについて総合的な分析をしている。
北半球では、13億人近い都市住民のうち、11億人が死傷し、生存者も、放射線の影響や伝染病でほとんど死亡する。
世界の油田や森林は燃え上がり、その煙は太陽光を遮る、農業は壊滅し、北半球の飲み水は放射能で汚染され、第三世界も餓死者が10億人を上回ると推定される――。
いずれにしても、一旦核戦争が起きれば、人類の未来はない。ここで取り上げられたシナリオは、起こる可能性の大きな核戦争について書かれたものではないが、執筆メンバーは、〝限定核戦争〟はありえないという見解をもとにこのシナリオを書いた。そしてこの恐怖のシナリオの計算の基礎は全て、ヒロシマ・ナガサキへの原子爆弾投下の惨劇のデータなのである。核兵器による都市攻撃・大量殺戮の例はほかにないからだ。
第1章の〈世界核戦争―その兵器庫〉では、1985年当時のアメリカとソ連(当時)の戦略核兵器の弾頭数や多様な運搬手段(弾道ミサイル、戦略爆撃機、ミサイル潜水艦など)の数量が一覧表として掲げてあり、それぞれの兵器としての特性に触れている。
第2章の〈核兵器使用の結末〉では、広島と長崎への原子爆弾投下の結果を基にして、核兵器の炸裂による爆風や熱線、放射線、放射性降下物の影響と、それらによる人間の犠牲、かろうじて生き残った人たちの後障害などを記述している。
第3章の〈基準シナリオ―核戦争はいかに戦われるか〉では、アンビオが作成した基準シナリオを示して、これ以降の分野別検討のための基礎を提供することに主眼を置いている。
この基準シナリオは、地球的規模の核戦争の結末がどうなるのか、「核戦争と環境との相互作用」(P33)を示すために作られたものであり、最も起こる可能性の大きな核戦争を想定したものではないし、防衛計画立案の基礎資料として役立てるために作成したものではないとの断り書きがある。
第4章〈疫学的にみた核戦争―その未来は病気と死〉においては、核兵器により北半球では13億人の都市住民のうち、約7億5000万人が即死し、約3億4000万人が重症を負う。これら核兵器による死傷者を除く生存者の多くが放射線の潜在的影響やコレラ、結核、赤痢などの感染症で死亡するとしている。社会的機能はほぼ麻痺状態に陥ることになる。
第5章の〈世界核戦争後の放射能と人間〉では、最も控えめに見積もっても、核戦争後に生き残った人々のうち540万人ないし1280万人もの人々が致死的なガンに冒され、1700万人ないし3100万人が生殖機能を失い、その後100年の間に640万人ないし1630万人の子どもが,遺伝的欠陥を持って生まれてくると推定する。
これらの推計は1985年の世界の人口48.5億人をもとに計算された数字である。ちなみに40年後の現在の世界の人口は、国連の推計では82億人と1・7倍に増えている。
第6章〈核戦争後の大気――昼なお暗く〉では、基準シナリオの規模の核戦争が起きると、地球上で少なくともデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの面積を合計したほどの広大な森林が焼失することになると推定する。
その焼失面積からみても、今年(2025年)1月の米国・ロサンゼルスの森林火災から始まった災害とは較べようもない甚大な災害となる。
また核兵器が炸裂した都市部や工業地帯でも、大火災は長い間にわたって続くであろうし、消火活動をする人間ももちろんいない。また15億トンにのぼる貯蔵化石燃料(石油と天然ガス)が消失する。
その結果、厚い煙の層ができて、太陽光が地表に届かなくなり、その暗やみは数週間にわたって続き、北半球での農業活動は壊滅的打撃を受けると推定する。それは火山の大規模噴火による被害とは比較にならないほどの災害をもたらす。
第7章〈世界の淡水供給〉では、人間をはじめあらゆる生物の生存に欠かせない淡水が核分裂生成物で汚染され、世界中の淡水源を広い範囲にわたって汚染し、それは数年間続くと推測する。雨水は核戦争直後にひどく汚染され(ヒロシマ・ナガサキでいう〝黒い雨〟)、生存者への遺伝的損傷は避けられないことになる。
第8章の〈海の生態系はどうなるか〉では、海の中の放射性降下物核種の分布やその影響やその危険性と、核戦争によって大気中に吹き上げられる微粒子や核戦争によるオゾン層の破壊、気温の変化が海の生態系に及ぼす影響について記述している。
第9章の〈農業への影響〉では、北半球では農地が広範囲に放射能で汚染され、直接戦争に巻き込まれなかった地域でも、遅延放射性降下物による食物は汚染され、先進国のみならず先進国からの食糧輸入に依存している第三世界の多くの国が深刻な食糧不足から飢餓に陥ることになる。
そのあとの第10章〈電離放射線と生物界〉、第11章〈経済―中世の暗黒時代に後戻り〉、第12章〈世界の食糧供給は〉、とそれぞれの視点に基づいての推計を具体的に描く。
第13章〈人間の行動はどう変わるか〉では、核戦争の生存者のうち少なくとも三分の一は深刻な精神障害や行動障害に苦しむが、治療者もおらず適切な治療も受けられないことになるとしている。
第14章〈アンビオの結論〉は、これまで述べてきたような内容の要約の章であるが、最初に次のような断り書きが掲げてある。
「この種の戦争に勝者はありえない」(P148)
「各筆者たちは、起こりうる結末についての推測には、不確実性があることを強調している。…(中略)…そうした不確実性のために、推測の多くは低目に見積もられている。このような控え目の推測によっても、核戦争によって引き起こされうる結末の全容はあまりに圧倒的で、ほとんど信じられないほどのものになる。」(P148)
この本の多くの箇所に広島と長崎の原爆災害の状況と被害者の写真が掲載されている。以前も書いたが、熱核兵器開発直後のごく初歩的な原子爆弾(ウラン爆弾とプルトニウム爆弾)でもこれだけの惨劇をもたらすことを考え合わせると、戦後80年を経てもヒロシマ・ナガサキへの原子爆弾投下の問題は、いまなお私たちに、その何万倍もの恐怖とともに突きつけられているのである。
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の最新の年次報告書によれば、世界の核弾頭数は1万2241発(ロシアとアメリカだけで全体の90%を占める)、核弾頭の保有数が3番目に多い中国は毎年約100発とどの国より速いペースで、核弾頭を増やしている。
また全体の17%、約2100発は弾道ミサイルに搭載され、短時間で発射できる状態にあり、東西冷戦の終結以来続いてきた核軍縮の時代は終わりを迎えつつあると分析し、核戦争のリスクについても、防衛システムへのAI導入が進み、意思疎通・状況認識の誤りや技術的なトラブルなどで危険性が高まる恐れがあると指摘している。
この本の裏見返しには、「世界核戦争時の攻撃目標とその被害」という大判の世界地図が付録として折り込まれており、主要攻撃目標となる軍事基地をはじめとする様々な地点がスポットされている。ちなみに国土が狭いわが国はそれが北海道最北の地域を除き国土全域にわたっている。
この本が発刊されたのと同時期に、宇宙物理学者カール・セーガンらにより「核の冬」(原題:nuclear winter)理論が提唱され、核戦争による人為的な気候変動に警鐘を鳴らしている。また同名の書に『核の冬』(M.ロワン=ロビンソン著/高榎堯訳 1885年岩波新書)がある。
このほか、科学的データによる核戦争の結末について書かれた本としては米議会技術評価局の『核戦争の結末』(邦訳『米ソ核戦争が起ったら―上院へのレポート』1981年 岩波現代選書)や、国連の『核兵器の包括的研究』(邦訳『核兵器の包括的研究』1980年 連合出版刊)がある。
また核戦争の危機を描いたドキュメンタリー『核時計零時1分前:キューバ危機13日間のカウントダウン』(マイケル・ドブズ著 2010年 NHK出版)は、1962年10月、ソ連が極秘裡にキューバに核ミサイル配備を進め、それに気づいた米国・ケネディ大統領がソ連・フルシチョフ首相と対峙し、核戦争一歩手前までいった時の状況がこと細かに描かれている。
近年では、2022年3月にわが国の防衛研究所から、「核戦争の気候影響研究の展開と今後の展望―『核の冬』論を中心に」(「防衛戦略研究」第2巻第2号 一政祐行)が発表され、「核の冬」論の再評価を試みているのが注目される。
さらに、核戦争の結末を描いた有名な小説としては、『渚にて』(ネヴィル・シュート著 1957年 原題:『On the Beach』)があり、邦訳もいくつか出ている。
いまも続くロシアのウクライナ侵攻、ロシアを支援する北朝鮮や中国、イスラエルのガザ地区への無差別的ともいえる攻撃やイランへの先制攻撃、インドとパキスタンとの紛争、ドナルド・トランプ米大統領のイランに対する「無条件降伏!」というSNSへの大時代的な投稿など、双方あるいは一方の当事国がいずれも核兵器を所有している国であることは偶然ではない。
