【チキンラーメン&カップヌードル発明者】日清食品創業者の激動の人生
どうも、教養人です。
突然ですが皆さんはカップヌードルやチキンラーメンなど、カップ麺やインスタントラーメンは食べますか?
私は食べます。なぜかって?楽だからです笑
食べるという人は多いと思いますが、それらはどうやって生まれたのかご存知ですか?
カップ麺を発明したのは安藤百福という人物で、日清食品の創業者でもあります。
ですが彼はとんでもなく壮絶な人生の中で食の発明を創っていて、今回はそれを紹介していこうと思います。
コラムとかもあるので是非呼んでいってくださいね!
1.青年時代の経営者としての成功
生まれた家庭
彼は日本統治下の台湾に生まれ、両親はともに台湾出身の華人でした。
そのため、台湾系華人としての血ですが、法律上日本人でした。
彼の家庭は非常に裕福な資産家の家でした。
しかし、彼は早くに両親を亡くしてしまいます。
早くに父が亡くなり、母も彼が10才前後の時に亡くなってしまったのです。
そこで彼は大規模な繊維問屋(呉服屋)を営む祖父母に引き取られ、厳しくも商売の活気にあふれた環境で育つことになります。
繊維産業で起業、巨万の富を築く
彼は22歳で起業をしました。
現在の価値で数億円に相当する父の遺産を元にニットやメリヤスを売るビジネスに挑戦しました。

彼が立ち上げたのは「東洋莫大小(とうようメリヤス)」という会社です。
当時の台湾では織物(布製品)が主流でしたが、彼はニットやメリヤスも売れると考え、台湾の洋風化が進んでいた地域を舞台に経営を開始しました。
また、育ててくれた祖父母の店の邪魔をしないように、織物ではなく最先端のニットやメリヤスを選択した、という話もあります。
当時の輸入商社は、日本から安く仕入れた既製品をそのまま台湾で右から左へ流すのが一般的でした。
しかし彼は仕入れのために大阪へ渡ると、現地の紡績工場に直接乗り込みました。そして、自ら「糸の太さ」や「独特な編み方」を細かく指定した特注のニット生地を工場に作らせたのです。
結果他よりも数段上のニット生地で台湾で大成功を納め、繊維の本場の大阪でも「日東商会」を設立。
日本から台湾へニットを輸出するだけでなく、貿易全般へとビジネスを拡大していきました。
そして彼は20代半ばにして、大阪の一等地に豪邸を構えて高級車を乗り回したり、立命館大学経済学科に通いながらビジネスを動かしたりしました。
更に後に首相となる田中義一氏の息子(田中龍夫氏)など、日本の政財界の若手エリートたちとも対等に交流しました。
こうして彼は、戦前の関西で誰もが羨む青年実業家として頭角を現しました。

しかし彼はその後信じられないほど人生の中で転げ落ちていきます…
2.栄光もつかの間、47歳で無一文へ
勝ち組人生を手に入れたかと思いきや、三つの悲劇で彼は無一文になってしまいます。
彼を襲った三つの悲劇
悲劇①空襲による喪失
順風満帆に見えた彼のビジネスですが、1941年に太平洋戦争が始まると、国による物資統制が敷かれ、彼のニット・メリヤスのビジネスは一切できなくなりました。
更に1945年の大阪大空襲によって、彼が築き上げた事務所や工場はすべて焼き尽くされてしまいました。
空襲の最中、防空壕のすぐ近くに爆弾が直撃しました。
周囲の人が即死するなか、彼は奇跡的にかすり傷一つなく生き残り、「命さえあれば何でもできる」という思いをここで得たという話もあります。
また、終戦直後、焼け野原となった大阪の街で、人々が飢えに苦しみ食べ物を求めて凍えながら長蛇の列を作っている光景を目撃します。
そこで
「人間は食べ物がなければ、服があっても、学問があっても生きていけない。文化も平和も、すべては食が満たされてこそだ」と痛感。
これが、彼の「食足世平(食足りて世は平らか)」の思想の生涯の経営理念となりました。
悲劇②新たにビジネスを開始、しかしGHQに逮捕され…
彼は大阪が焼き尽くされた後もめげず、すぐさまビジネスを起動します。
1946年、兵庫県赤穂市の泉南海岸へ移り、今度は「製塩業」に乗り出します。

海水から塩を作る大規模な製塩所を立ち上げ、食糧難に苦しむ若者たちを100人以上雇い入れて生活の面倒を見ました。
なぜ製塩業だったのかというと、その時深刻な塩不足だったからです。
同時に、飢餓に苦しむ人々を救うため「国民栄養科学研究所」を設立。
牛や豚の骨から高タンパクのエキスを抽出した、パンに塗るペースト状の栄養食品「ビセイクル」を開発しました。
厚生省(当時)から認められて病院へ供給されるほどの成功を収めます。
塩と栄養食品で再び実業家として名を馳せた百福氏ですが、1948年、最大の悲劇が襲います。日本を統治していたGHQによる逮捕です。
百福氏は製塩所で働く貧しい若者たちの将来を思い、彼らを学校に通わせるための「奨学金(小遣い)」を支給していました。
しかしGHQはこれを「給与」とみなし、「源泉徴収(税金)を払っていない脱税行為だ」として彼を逮捕しました。。
当時、徴税を厳しくしたかったGHQにとって、やり手の華人実業家だった百福氏は絶好の「見せしめ」だったのかもしれません。
彼はすべての不動産を没収され、東京の巣鴨プリズン(刑務所)に2年間も収監されてしまいました。

彼は納得がいかず、拘置所の中から国を相手に訴訟を起こし、一歩も引きませんでした。
しかし外で待つ妻や家族がこれ以上苦しむのを見かねて、最終的に訴えを取り下げることでようやく釈放されました。
しかし、製塩業などで得た利権は完全に失っています。
悲劇③名前を貸した信用組合が破綻、大量の負債を抱える
またもやビジネスを失った彼に、「大阪不二信用組合の理事長になってほしい」という頼みが届きました。
彼の「かつて繊維産業で大成功し、戦後も製塩業などを興した」という圧倒的なネームバリューと経営手腕が目をつけられたのです。
彼は金融の素人であるため断り続けましたが、「名前を貸して椅子に座ってくれるだけでいい。実務はすべて下の者がやるから」と泣きつかれ、断りきれずに理事長を引き受けてしまいました。
しかし蓋を開けてみればそれはとんでもない泥船でした。
金融の専門家が一人もおらず、貸したお金のほとんどが回収不可状態だったからです。
そこから日本経済の不況など色々なトラブルに見舞われ、最終的に信用組合は破綻してしまいました。

更に当時の法律では、「破綻したら信用組合の理事長が『無限責任』を負う」ことになっていました。
これは、「組合が作った借金は、個人の財産をすべて投げ打ってでも、最後の1円まで自分で返せ」という恐ろしいルールです。
百福氏自身が不正をしたわけでも、お金を着服したわけでもありません。
しかし、名前を貸してしまった代償として、国家と債権者によって彼の全財産が剥ぎ取られました。

大阪の一等地に構えていた邸宅と広大な土地や、これまで必死に守り抜いてきた預貯金・有価証券、事業用のすべての資産。
これらが全て没収され、彼のポケットには本当に1円も残りませんでした。
ただ、彼が真面目に税金を納めていたことが考慮され、大阪の月借りの古びた借家の一棟だけが奇跡的に差し押さえを免れました。
当時47歳。妻と、まだ幼い子どもたちを抱え、昨日までの大富豪は文字通り「路頭に迷う一歩手前」の極貧へと転落しました。
3.唯一残された場所で創り上げた「チキンラーメン」の逆転劇
残された土地に造った「研究小屋」
唯一残った借家の裏庭にありあわせの木材で僅か6畳ほどの研究小屋を建ててチキンラーメンを生み出すための研究がスタートしました。
中古の製麺機と、麺を揚げるための大きな中華鍋だけを運び込み、たった一人で開発を始めます。
1日平均4時間睡眠で、丸1年間、1日も休まずに小屋に籠もり続けました。
前まで大富豪だった男が、朝から晩まで小屋で粉まみれになって怪しげな実験をしているため、近所からは「全財産を失って、ついに頭がおかしくなった」と噂されていました。
小屋に篭って研究しまくるのはまだ面白味がありますが、ここまで過酷だとドン引きですよね…笑
魔法のラーメン完成のためにぶつかった課題
彼は開発にあたって「お湯をかけてすぐ食べられること」「長期間保存できること」という目標を掲げました。しかし、これが最大の難問でした。
天日干しで麺を乾燥させると、保存はできても、お湯をかけた時に芯が残ってしまい、食べるまでに何分もかかってしまいます。
スープを麺に染み込ませようとすると、麺がふやけて腐ってしまいます。
高いハードルの課題に悩まされ、毎日、作っては捨て、作っては捨てる試行錯誤が何ヶ月も続きました。
しかし彼はその中で世紀の大発見をします。
ある日の夕方、疲れ果てた彼が小屋を出て自宅の台所を覗くと、妻の夕食の天ぷらを揚げていました。
そこで彼は革命的な閃きを起こします。
天ぷらを作るとき、小麦粉の衣を熱い油に入れると、中の水分が「ジュワッ」と激しい泡を立てて外に弾き出されます。
これを麺でもするわけです。

彼はすぐに試作の麺をそのまま熱い油に放り込みました。
すると、麺の水分が一瞬で弾き飛ばされ、カラカラに乾燥したのです(これが瞬間油熱乾燥法)。
油で揚げて水分が抜けた麺の表面には、目に見えない無数の「小さな穴(気泡)」が空いていました。
そこにお湯を注ぐと、その穴から一湯がサーッと染み込み、わずか3分で生まれたての柔らかい麺に戻ることが証明されました。
【コラム】なぜ「チキン」ラーメン(鶏ガラ)にした?
なぜ"チキン"ラーメンにしたのか、ということも面白いのでコラムとして紹介しました。
実は味付けを鶏ガラに決めたのにも、彼の鋭い観察眼がありました。
それの理由は、鶏肉は他の候補と比べ、世界中でタブーがなかったことです。
宗教や文化によって、豚肉(イスラム教)や牛肉(ヒンドゥー教)を食べない人々は世界中にたくさんいます。
しかし、「鶏肉」だけは世界中のほぼ全ての国や宗教で受け入れられていました。

世界に進出する場合に備え、多くの環境で受け入れられるようにしたのです。
ちなみに子供時代に家で飼っていた鶏のスープの美味しさが忘れられなかったことも、チキン味にこだわった大きな理由と言われています。
1958年8月25日、世界を変えた「魔法のラーメン」発売
1958年、トライ&エラーの末、ついに完成した「チキンラーメン」が発売されます。
最初は「お湯をかけるだけでラーメンができるわけがない」と問屋に相手にされませんでした。
そこで自らが試食販売(日本初の実演販売)を店頭で行い、主婦たちは目の前でラーメンが出来上がるのを見て大パニックに。
お湯を注ぐだけで食べられる手軽さから「魔法のラーメン」と呼ばれ、日本の食卓を、そしてのちに世界の食文化をひっくり返す大爆発ヒットへと繋がっていきました。

4.文化の壁から生まれた二度目の発明「カップヌードル」
アメリカで見つかった「文化の壁」
1966年、56歳になった百福氏は、チキンラーメンを海外に売り出すためアメリカへ渡りました。
現地のスーパーのバイヤーたちに試食してもらおうとした時、決定的な問題にぶつかります。
それはアメリカにはラーメンを食べるためのどんぶりも箸もないということでした。
彼は大きな衝撃を受け、「インスタントラーメンを世界で売るには、器と箸という日本の食習慣を押し付けては駄目だ。」と確信しました。
そして、「片手で持てる容器(カップ)とフォークで食べられる新しいラーメンを作らなければならない」という発想にいたりました。
ここからカップヌードルの発明が始まります。
60歳を過ぎての「極秘開発」と3つの難関
帰国した彼は、60歳を過ぎて再び開発の先頭に立ちます。
カップヌードルの完成までには、主に3つの巨大な技術の壁がありました。
壁①:容器の素材
当時はまだ珍しかった「発泡スチロール」に着目。断熱性が高く、熱いお湯を入れても手で持てる理想の容器を自社で開発しました。
壁②:麺がカップに入らない
カップの底に向けて細くなる形状のため、上から固まった麺を落とすとどうしても傾いたり、途中で引っかかって壊れてしまいました。
ある日、ベッドで横になって天井を見ていた百福氏は「麺を上から入れるのが無理なら、逆さにしたカップを麺の上からかぶせればいい」とひらめきます(中間保持構造)。
この逆転の発想で、工場の大量生産が可能になりました。
壁③:フタの密閉(アルミキャップ)
海外の飛行機内で配られていたマカダミアナッツの缶詰のフタ(アルミの引きはがし式)を見て、これを紙とアルミのラミネートフタに応用。
お湯を入れてしっかり密閉できるフタを開発しました。
1971年、世界初のカップ麺誕生と大ヒット
こうして1971年9月18日、世界初のカップ麺「カップヌードル」が発売されました。

しかし、他の食品と比べて価格が高額だったため、最初はスーパーなどの小売店から「高すぎて売れるわけがない」と拒絶されてしまいます。
問屋に断られた彼は、またしても常識破りの行動に出ます。
彼は当時始まったばかりの東京・銀座の歩行者天国で、若者をターゲットに実演販売を敢行。
これが大ブームとなり、おしゃれな最先端の食べ物として若者の心を掴みました。
更に翌年2月、日本中が注目した「あさま山荘事件」が起きます。
雪山の極寒の中、機動隊員たちが湯気を立てながら美味そうにカップヌードルをすする姿がテレビで連日生中継されました。
これがプロモーションとなり、これを見た視聴者が「あの食べ物は何だ!?」なって日本中でカップヌードルが大ヒットし、そして世界中でも大爆発ヒットとなりました。
まとめ
振り返ってみると大分壮絶な人生ですね…笑
両親を失った幼少期を経て起業して富豪になり、そこから極貧になり、もう一度富豪になった、とういことですね。
彼は宇宙食ラーメンの制作などもやっていて、本当に尊敬しかないです。
ここまで読んだら、是非またチキンラーメンやカップヌードルを食べてみてください。きっといつもより美味しいはずです。
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